【第5話】 ジュジュの呼び声



 船が港を出てから一時間ほど。


 ルーランと出逢った海域は、客や物資を乗降させるために、船が途中に立ち寄る島の付近だった。


 倉庫の隅の物陰に身を隠していたジュジュは、丸窓から外を覗いた。幸いにも今夜は月が明るい。月光に照らされた港が見える。

 船が停まったことを確認した。


 あと少し……。


 倉庫に荷卸しの人夫が入ってきた。

 ジュジュは物陰で身体を縮めると息を殺した。



 一方のミラジは甲板に立っていた。

 途中の島で降りる人の列にジュジュはいないかとその姿を探している。しかし、この列のなかにはいない。まだ船内にいるのだ。


 どこに隠れてしまったのか。


 焦るミラジの影を、月光は甲板に写していた。



 船が再び動き始める。


 しばらく待ってからジュジュは、首から下げた青いポーチを握りしめた。


 倉庫の扉をうっすらと開ける。窓から入る月の光で廊下には誰もいないことを確認すると、甲板へと続く階段をのぼっていった。



 ジュジュは甲板の上で風が巻き上げる潮の香りを吸い込んだ。繰り返す低い波の音は、はやる気持ちを落ちつけてくれるようだった。


 欄干へと近づいてゆく。


 眼下の海面は碧く昏く凪いでいる。月光は海の水の上に、一本の輝く光の道をつくっていた。


 ジュジュは欄干に手を伸ばす。


 そのときに―― 


 「ジュジュ!」


 背後からミラジの声がした。


 振り返ると船の後方の甲板から、ミラジがこちらへと駆けだしてくる。


 とっさに欄干の上に身体を持ち上げたジュジュは、そのまま柵の向こう側へと降りた。


 「ジュジュ! 危ないからこっちへもどれ」


 ふるふると首を左右にふるジュジュ。


 「そんなにまでして結婚するのが嫌なら、父上や母上だってわかってくれる。さあ、一緒に家へ帰ろう」


 ミラジの必死の説得にもジュジュは肯かない。


 片方の手は柵を離して、首許の小さなポーチを握りしめる。


 「……お兄様、わがままでごめんなさい。だけどもう少しだけ、時間をちょうだい」 


 「ジュジュ?」


 ミラジに背を向けて海を見つめたジュジュは、大きな声で叫んだ。


 「会いにきたわ! ルーラン! あなたに逢いにきたの!」


 「ジュジュ! 危ないから。頼むからこっちへもどってくれ!」


 「ルーラン! お願い! 約束したじゃない! わたし、失くさなかったわ! ずっと大切にしてたの! お願い! ルーラン! 逢いたいの! あなたに逢いたいの!」


 訳のわからないことを海に叫び続けるジュジュ。危うさを感じたミラジは腕を伸ばした。


 その気配を察したジュジュが振り返る。姿勢が崩れた瞬間に、もう片方の手も柵から離れてしまった。


 ジュジュの身体は月光が照らす碧く昏い海へと、吸い込まれるように落ちてゆく。


 「ジュジュ!」


 ミラジが慌てて海面を覗くも、ジュジュの姿は昏い海の波の陰に、すでに隠されてしまっていた。



 海中に落ちた衝撃で発生した大小さまざまな白い空気の泡は、無数にジュジュの全身を包み込む。夜の海水は冷たく昏く、瞬く間に身体の熱を奪ってゆく。

 頭上には月光に淡く揺れて光る海面が見える。


 海へ落ちてゆくときにミラジの声を聞いた。


 ワンピースは重く身体にまとわりつく。


 かろうじて動かせる手で水をかいたが、身体は浮くどころか沈んでゆく。

 息も苦しくなってきた。


 ああ。あのときと一緒ね……。

 違うことといえば……ルーランがいないこと。

 わたし、このまま沈んでしまうのかしら……。


 ジュジュは力が入らなくなってきた手を、必死で首許まで動かそうとした。


 ルーラン……逢いたかった。


 微かな月光も届かなくなってゆく。暗闇がじょじょに深くなる。


 ……もう一度……あなたに……。


 ジュジュは瞼を閉じる前に、青銀色の僅かな光がポーチから放たれるのを見たような気がした。





*:☆.:*:☆.:*:☆.:*:☆



 『ジュジュ! ジュジュ!』


 懐かしい響きで名前を呼ぶ声がする。やわらかな感触が唇を覆うと呼吸が楽になる。


 声を出そうとして口から塩辛い水が溢れた。


 けほけほとむせて咳をすると、背中を優しくさすってくれる温かな手がある。


 重い瞼をうっすらと開けた。


 狭い視界に飛び込んできたのは、思い出の中と同じ琥珀色の瞳。


 ジュジュは目を見開いた。


 ……ルーラン? ……ルーランなの?


 これは夢なのだろうか。それとも死んでしまって、魂だけがルーランの元へとたどり着いたのだろうか。


 『ジュジュ……。間に合ってよかった』


 白い腕で胸の中にかきいだかれると、せつない声が耳元で囁く。水に濡れた青銀のつややかな長い髪が手に触れた。


 強く抱きしめられた胸からは、温もりと心臓の鼓動が伝わってくる。


 「ほん、とに、ルー……ラン、なの、ね」


 掠れた声で呟く。アクアマリンの瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙が次から次へとこぼれた。


 夢じゃない。


 「逢い、たかった……。逢いた、かったの」


 『僕もだよ。ジュジュにまた逢えるなんて……夢みたいだ』


 ルーランは、もう二度と離さないというように、ジュジュの背中に回した腕に力を込めた。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る