世界をかたち創るには 黒

トーラは歩く。


闇の中を歩いて、歩いて、どこまでもどこまでも歩く。

先は見えないが「歩くこと」は、トーラの本能だ。


トーラの髪の毛は太くて固い。それでいて墨を落としたような黒い色をしているものだから、動いていても闇に紛れて、誰からも気づかれなかった。


トーラは歩く。

一歩、一歩、闇に素足を踏みしめて歩く。


トーラが歩いた大地は崩れる。

トーラが歩いた水は宙に消える。

トーラが歩いた空は闇へと霞む。


大地は崩れて砂になり、こまかい粒子となって闇へ消える。

水は干上がり、海も湖も河も消え、闇へと沈む。

空では風が止まり、雲は消え、闇へと戻る。



そうやって、トーラの歩いた跡から世界は消える。



※     ※     ※     ※     ※     ※     ※



トーラは本能で歩いているが、あてもなく歩き回ることもあれば

目的をもって行き先を持つこともあった。


トーラが世界を歩けば、その世界は壊れてしまう。

トーラはべつに「大地や水や空を壊したい」というわけではなかった。

しかし、トーラにとって「歩くこと」は本能だ。

何もない闇であろうと、存在している世界であろうと「歩き続けること」

その衝動がトーラの足を進めた。



あるときトーラは、遠くの大地に黄色い光がキラキラと瞬いているのを見つけた。


「あれはなんだろう?」


トーラは不思議に思い、その黄色いキラキラへと足を向ける。


距離が縮まると、黄色い光は金の鱗を持つ魚だということが見てとれた。

その魚は、ぐでんとだらけた有様で、腹を上にして水面を浮かんでいる。

今にも力尽きて、沈んでしまいそうだ。


「おまえ、どうしたんだ?」


トーラが尋ねると、金の魚はぼんやりとした様子で、諦めと放心の表情を浮かべた。


「ああ。トーラ。私はヨンヨンといいます。どうか放っておいてください。もうすべてが、どうでもいいのです。いや、あなたにお願いするのも、いいかもしれない」


トーラはヨンヨンを両手ですくい上げ、眉をひそめた。


「なんだい?」


「もうすべてがどうでもいいのです。私は消えてしまいたい。あなたの力で、私を消してもらえないでしょうか?」

「おまえを消す? なぜ?」


トーラは首をかしげた。

このエルは、多くの島々から成る大地だ。海が多く、魚など水に生きる者にとっては好い環境のはずだ。それなのに、この金の魚は、こうもやさぐれている。


「はい。所詮、私たち魚は鳥に食べられるのを待つしかない存在なのです。そんな食べられるだけの生き様に、嫌気がさしてしまいました」


ヨンヨンはおもむろに海へと落ち、ぷかりと腹を上に向けた。


「なるほど?」

「以前は良かったのです。島と島の間は十分な距離があって、鳥たちが飛んでこられない水域もありました。魚たちは、そこで休むことができた。しかしある時、島々の間に樹木が生えてしまったのです。その樹木を足掛かりにして、安全だった海にまで鳥は魚を食べにくるようになりました」


トーラは頷いたが、ふと意地悪な問いを投げかけた。


「なぜ、自分が消えたいと思うんだ? 安全な海が欲しい、ではなく?」

「私には、どうにもできないことだと気づいたからです」


ヨンヨンは、淡々と己の心情を明かす。


「海から樹木が生えたのは、木の実を求めて島を渡る小鳥が、休める場所をつくろうとした結果だと知ったのです。しかも、魚たちが住む海を減らさないようにとの工夫でもあった。魚を食べる鳥たちも樹木を利用するようになったのは、後の必然の産物だった。これが魚を食べる鳥のエゴであったなら、安全な海を探しに逃げることも、ただ鳥を憎むこともできたでしょう」


ヨンヨンは言葉を切り、溜息ならぬ泡を吐いた。


「しかし、そうではなかった。誰が悪いというわけではない。皆がともに生きようとした結果、こうなってしまったのです。でも私は、魚は食べられてしまう。気持ちの矛先を、どこにも向けることができなくなってしまった。そう思ったら、すべてがどうでもよくなってしまったのです。どうか私を消してください」


そう言ってヨンヨンは、さらに大きな泡を吐いたのだった。


それを聞いて、トーラはしばらく思案していたが、


「わかった。エルの大地に行こう」


だらりとヒレを投げ出すヨンヨンをすくい上げ、エルの大地に足を向けた。



トーラは歩いた。


やさぐれた金の魚は、しばらくトーラの両手で浮かんでいたが、それにも飽いてしまったらしい。たびたび、ぼたりと海へと落ちた。

幾度もヨンヨンをすくい上げ、トーラはようやく、エルの大地に足を踏み入れた。


トーラは歩いた。

金の魚を両手に浮かべたまま、島々を、その間に広がる海を渡り歩いた。

いつもより、ちょっと小さな歩幅で。

トーラが歩くと、エルの大地は少しずつ崩れていった。

サンゴで出来ていた島の大地は、細かく砕けて砂になり、海へと沈んだ。

豊かだった海は干上がり、止まり木となっていた樹木は枯れて縮れた。

それらはボロボロと崩れてゆき、さいごは闇へと消えていった。


「そんな! トーラ。私は、私のことだけを消して欲しいのです。エルの大地を消して欲しいのではありません。止めてください!」


ヨンヨンが、悲痛な声をあげる。


トーラはくすりと、笑ってヨンヨンに言った。


「なんだ、お前。『すべてがどうでもいい』わけじゃないんじゃないか」



トーラは歩く。


歩いて、歩いて、


そのままどこかへ歩いていった。



※      ※      ※      ※      ※      ※



トーラは歩く。


あるときトーラは、遠くの闇に紫の光がメラメラと燃えているのを見つけた。


「あれはなんだろう?」


トーラは不思議に思い、その紫のメラメラへと足を向ける。


距離が縮まると、紫の光は藤色の髪をした中年男だということが見てとれた。

その男は憮然とした様子で、しかし毅然と腰を下ろしていた。

指先は何事があったか真っ赤に染まり、わなわなと震えているようだ。


「おまえ、どうしたんだ?」


トーラが尋ねると、男は忌々しげな様子で、怒りと憎悪の表情を浮かべた。


「あんたがトーラか。俺はユミト。頼みがあって、ずっとここで待っていた」


トーラはユミトを見据えると、首をかしげた。


「なんだい?」


「アルの大地を、ぶち壊して欲しい」

「アルの大地を? なぜ?」


トーラは首をかしげた。

アルの大地は、険しい山と深い森から成る大地だ。多くの鹿が生息し、麓の村人の好い糧となっている。山は多いが豊かで、安全な大地のはずだ。


「ああ。以前、悪い咳の病が流行ったんだ。罹った者のほぼ全てが死んでしまうような、恐ろしい病だった。病は数年続いたが、スルプ鹿の骨が薬になることがわかって、今は収束している」


ユミトは唸り、拳を自分の腿に叩きつけた。


「なるほど?」

「だがそれは、俺の妻を生贄にした結果だ。当時、薬のための乱獲で、鹿がいなくなってしまったことがあったんだ。村人たちで相談して、生贄を出すことにした。鹿を増やしてくれ、と願うために。その生贄に、俺の妻は、カンナは自ら志願した」


トーラは、不思議に思って尋ねた。


「生贄に? 自ら志願したのか」

「ああ。そのとき、俺たちの息子が、その病に苦しんでいたんだ。3才になったばかりのひとり息子だ。カンナがあれほど気をつけていたのに、病を得てしまった」


「病に罹るかどうかは、運と本人の体力しだいだ。親の責ではないだろう」

「俺もそう言った。だがカンナは自分のせいだと言って聞かず、息子の、ユンナの命を助けるために、生贄になることを望んだんだ。そして死んだ。カンナが生贄になるために旅立ってしばらく後、浜に亡骸があがった。村人たちは喜んださ。これでまた薬がつくれるようになる、ってな。俺は辛かったが、ユンナが助かるならと納得しようとした」


ユミトは言葉を切り、唇を噛みしめた。


「だが、ユンナは助からなかった。確かに鹿は戻ってきたが、数が増えるまで時間がかかったんだ。猟師たちは、今度は乱獲を許さなかった。薬の流通や処方の管理も、上役たちが取り仕切った。俺は商人なんだが、いくら金を積んでも薬は手に入らなかったよ。……ユンナの命は、間に合わなかった」


ユミトは苦しげに、言葉を絞り出している。


「もう、こんな世界はいらない。皆のためにと命を捧げたものが報われない。こんな理不尽なことがあるか。許されるわけがない。ぜんぶ消えるべきだ。そうだろう? だから頼む。どうか、アルの大地を消し去ってくれ」



トーラは眉ひとつ動かさず、表情の見えない顔でユミトに告げた。


「残念だけれど、トーラにそれはできない」

「何故だ!」

「意味がないからだ。アルの大地を消すことに、何の意味がある?」


ユミトの表情が、憤怒に歪む。そして、熊のような唸り声をあげた。


「馬鹿にしているのか! こんな理不尽なことが、許されるわけないだろう!」


トーラは、不思議そうに首をかしげる。


「それはおまえの感情だろう? 妻と息子を亡くしたことは哀れだが、そのこととアルの大地を消すことに、何の関係がある?」


しかしユミトに、トーラの言葉は届いていなかった。


「カンナは、ユンナのために生贄になったのに。それなのに因果応報だ、などと。どうしても許せなかったんだ。だから、だから俺は、俺は、悪くないだろう?」


トーラはふと、思いついた予感を口にした。


「もしかして、おまえは村人たちを殺してしまったのか?」


ユミトはカッと顔を赤くすると、ものすごい形相でトーラを睨みつけた。

あたりにユミトの咆哮が響きわたる。

そして真っ黒な鉈を振りかざしたユミトを躱し、倒れこんだその背中を、トーラはゆっくりとした足どりで歩いた。



トーラは歩いた。


そしてアルの大地にたどり着くと、そのまま大地を横目に通り過ぎたのだった。




トーラは歩く。


歩いて、歩いて、


そのままどこかへ歩いていった。



※      ※      ※      ※      ※      ※



トーラは歩く。


闇の中を歩いて、歩いて、どこまでもどこまでも歩く。

先は見えないが「歩くこと」は、トーラの本能だ。


トーラの髪の毛は太くて固い。それでいて墨を落としたような黒い色をしているものだから、動いていても闇に紛れて誰からも気づかれなかった。


トーラは歩く。

一歩、一歩、闇に素足を踏みしめて歩く。


トーラが歩いた大地は崩れる。

トーラが歩いた水は宙に消える。

トーラが歩いた空は闇へと霞む。


大地は崩れて砂になり、こまかい粒子となって闇へ消える。

水は干上がり、海も湖も河も消え、闇へと沈む。

空では風が止まり、雲は消え、闇へと戻る。



そうやって、トーラの歩いた跡から世界は消える。


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