灼熱令嬢と永遠の果実

壱 灼熱令嬢と永遠の果実

1 境界に立つ者

《1933/02/28―東京府芝区》


 昭和八年二月下旬の東京市内は、かつてない雷雨に見舞われている。

 降り注ぐ風雨は怒り狂う龍神の如く。弾丸さながらに窓を打ち付け、木々を激しく靡かせる。

 鳴り響く雷鳴は荒れ狂う雷神の如く。刹那の閃光の後、ヒトからあらゆる光を奪い去る。

 時刻は午後四時過ぎ。平生では活気に満ちた歓楽街も、今日はすっかり早めの店仕舞いを済ませてしまった。

 そんな中。人ひとりいないはずの泥濘の裏路地から、雨音に混じって不愉快な音がする。

 立て続けに、ぐちゅ、ぶち……と、肉が潰れるような音。それを追って路地を覗き込めばそこには、およそこの世のものとは思えぬ異形の群れがいた。

 数はおよそ十余り、背丈はヒトより一回り小さい程度。のっぺりとした漆黒の肌、体中に不規則に浮かんだ瞼の存在しない眼球。不自然に大きな口からは薄汚れた牙を覗かせ、四肢の形状や数は統一されていない。

 黄ばんだ歯列の隙間にはヒトの毛髪。彼らは泥水を被ることも躊躇せず、足元に転がる多数の肉塊を一心不乱に貪っていた。

「どうだ、美味いか」

 ふと彼らの背後から、若い男の声がした。

 食事の邪魔をする不埒な輩は一体何者だろう。無数の瞳が一斉にそちらへ向けられる。

 するとそこにいたのは、暗き荒天の中に在っても尚黒き、たった一人の少年だった。

「答えろよ。その汚ねえ口で殺したお巡りの血肉は美味いか、と訊いているんだ」

 目元に隈をたっぷりと湛え、ぎらりと獣のような眼光を宿し、しかしどこかあどけなさも残した顔。雨水で重く垂れ下がった黒いジャケットに、皺だらけの黒いワイシャツ。黒く淀んだ世界に在って尚、彼の湛える黒は飛び抜けている。

 御影奏彌ミカゲ ソウヤ。『境界人』。異形にとっての、黒衣の死神。

 彼は濡れた黒髪の隙間から、その黒い瞳で異形を睨み付ける。その視線には軽蔑と憎悪がこれでもかと詰め込まれ、きつく握られた両の拳は、食い込んだ爪で血が滲んでいた。

 魔術や怪異を始めとする、世界に蔓延る数多の超常。彼らに対して、平常の領域に生きるヒトには余りに無力だ。

 故に一部のヒトは、超常を己の力として求めた。

 それこそが『境界人』。超常と平常の境に立ち、人間社会の盾たらんとする者。

「キキ……ケ……ア……?」

 異形は奏彌の問いに答えない。言語を解する能力を持たぬものだから、そもそも彼らには答えようもなかった。

「そうだよな。一度でも理解を求めた僕が馬鹿だった」

 奏彌は顔を顰めると、懐から一枚の札を取り出す。それは紙幣大の和紙であり、表面には墨で複雑な文様が描かれている。それを指の間に挟んで一言、

白渇虎爪ハッカツコソウ――『十紘迦斬ジッコウカザン』」

 すると札が仄青く光り、蒼白の雷を帯びた一振りの直剣に変化した。拳十個分の刃を持つ剣は異形に向かって飛んでゆき、状況を理解しきれない異形に襲い掛かる。

 それはまるで、剣そのものがひとつの生命であるかの如く。異形は次々に切り裂かれ、刀身から放たれる雷に焼かれて斃れてゆく。

 彼らも無策という訳ではない。近場の逃げ道を確認して逃走を図る。

 奏彌は新たに札を取り出し、異形たちに冷淡な視線を放つ。

「遅い。黒玄甲盾コクゲンコウジュン――『六華天壇リッカテンダン』」

 札が白い光と共に消滅する。すると異形たちの行く手を遮るようにして、六角形の涅色の障壁が出現した。

 障壁は路地を、一瞬にして逃げ場のない袋小路へと変質させてしまう。異形たちは次々と障壁に衝突して狼狽するが、だからといって、奏彌が情けをかける訳でもない。雨音を遮って風切り音が立て続けに鳴り響き、撒き散らされる鮮血が足元を朱く染めてゆく。

 次々に屠られ、物言わぬ肉塊と化してゆく異形たち。しかし残された者の中には、これを一方的な虐殺で終わらせるつもりのない個体も存在した。

 窮すれば鼠すら牙を剥くのだ。異形の一匹が奏彌に向き直り、突然大きく顎を開く。

「キィィィィィィィィ!!」

 甲高い咆哮と共に、口腔から光一つない黒がどっと溢れ出す。それはヒトの両腕が如く形を成し、瞬時に奏彌を包み込んでみせた。

 そこからおよそ十秒弱、抵抗はない。異形は安堵し、強張った身体の力を抜く。彼の背後に控える多くの仲間もまた同様に、突然現れた天敵の死を喜ぼうとして近寄るが……

 ――すらりと一筋の光が走る。それとどちらが早かっただろうか? 黒い腕が内側から切り刻まれ、微細な欠片となって霧散してしまった。

「舐めるな。その程度の抵抗、僕が予想していないとでも思ったか」

 その内から現れたのは、黒い卵型の障壁。それがどろりと溶解すると、ひどく苛立った表情の奏彌が現れた。彼は後ずさる異形に侮蔑の目を向け、軽く舌打ちをして言う。

「楽には死なせてやらん。抵抗してくれた礼だ」

 彼は最後の仕上げに掛かる。剣が幾多の残像を生みながら回転を始める。

 この世界に存在する、数多の超常。奏彌の用いる符術『鬼籠キロウ』は、ヒトが編み出した超常のひとつ。世界の四方を司る神の力を札に降ろし、意のままに使役する。

 白虎の名を冠した剣―『白渇虎爪』。それが回転鋸のように襲い掛かれば、飛び散る血液と微細な肉片、そして耳をつんざく断末魔の嵐。異形たちはたちまち無数の肉片に切り裂かれてゆき、最後の一匹が息絶えるまで、さほどの時間は掛からなかった。

「キ、キ……ギエエエッ……!」

 甲高い絶叫が一つ、異形の最後の一匹が水溜りに倒れ込む。両断された胴体からは紫色の血液が流れ出て、側の泥水と混ざり合う。

「また、守れなかった……」

 この日奏彌に与えられた職務は、市内を徘徊する怪異の駆除。彼らは闇に紛れて人を喰らい、食い荒らした遺体を用いて更に餌をおびき寄せ、一夜にして二桁の死人が生み出されていた。

 彼の表情は暗い。徐に死骸の山に近付くと、手頃な一匹の頭を踏み付ける。

「本気を出すまでもない。取るに足らない、雑魚の群れだった……」

 足を上げ、再び死骸を踏み付ける。肉の潰れる音が響いて血液が飛び散り、履き潰した革靴が紫に染まる。足元の泥水に映る彼の顔は、波紋で醜く歪んでいた。

「どうしてくれるんだよ。お前らが死んだところで、食われた連中は戻ってこないんだ!」

 覆水盆に返らず。飛び出た弾丸が銃口に戻らず、塀から落ちた卵が二度と元には戻らぬように、一度喪われた命もまた、二度と生き返ることはない。

 奏彌の足元に広がる警官たちの死体はひどく損壊し、どのような顔をしていたのかすら伺い知れない。

 周囲の家々に人の気配がないのは、彼らがその身を挺して周辺の住民を逃がした為だろう。

 異形にとっては、単なる餌に過ぎなかったかもしれないが。

 そんな彼らにも、世界に二つとない、彼自身の人生があったのだ。

「一時間でも早く、僕がここにいたなら……」

 鬼の形相で死骸を踏み付ける奏彌の脳裏に、いつかの記憶が蘇る。

 彼の胸の奥底に、消えない憎悪の炎を灯した日。

 己以外の全てを奪われた、決して忘れ得ぬ日の記憶だ。

「こんなことには……ならなかったのに!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る