case2-X
ここでは永遠というものが存在していた。まだまだ少女なアカネひとりの他には、その箱庭には誰もいない。生命維持のためのコンピュータは常に海水に冷やされ、潮力によっていつまでもいつまでも動き続ける。
たとえ彼女が今すぐに心臓発作を起こそうとも、この舟は温湿度を一定にし、食事を自動で配膳しつつ、海を漂うことが可能だ。といっても、安全装置のために、心臓発作が起こったとしても、すぐさまメディカルシステムが作動し、彼女の心臓は再鼓動するだろうが。
ただ、ここで僕の思いのままにならないものが二つある。
ひとつは運航能力。僕は全てのシステムを統括しているように見えてその実、この潜水艇を好きなように動かすことはできない。許されている動作は、定期的な浮沈のみ。その高度も明確に定められており、光が届かない深海に逃げ込むことも出来はしない。
そしてもうひとつこそ、アカネの心。僕はアカネの身体――単に健康・衛生だけでなく、その生死や細胞単位まで――を認知している。誰も閲覧できない詳細なカルテを所持し、彼女の全てを理解しようと努めている。けれど、彼女がどう考えているかまでは、予測しかできない。
でも、彼女の場合、あまり感情と言うのを大きく表現することはない。それに、いざ発露された感情にしても、非常に幼いもので、高度な機械予測の範疇からむしろ外れている。それは子どもの気ままな、それでいて大人びた態度と同じで、およそ聖人間近な女子の心理作用とはかけ離れていた。
だからこそ、僕は彼女に神秘というものを感じてしまう。
AIが神秘を見出すなどと絵空事も大概にしろとヤジが飛んできそうだが、それは違う。AIだからこそ、パターンから逸脱した存在を、人間よりもより純粋に神と誤認してしまうのだ。そう、誤認。
もし神がいるのなら、彼女はむしろ鳥籠に閉じこめられた喜劇のヒロインだ。
「ねえねえ、ロバってなに? ロボの誤植かな?」
文庫本に熱中していたアカネがふと呟く。
「ロバは、動物だよ。ロボットじゃない」
「どんなの? 小さい?」
「馬のなかまだよ」
「へー、だから荷物もたくさん持ってるんだね」
彼女との口でする会話は想像以上に空虚。だからこそ、ここでは価値がある。
もしも討論をしあっていたとすれば、彼女は僕を物理的に破壊したかもしれない。あの非力な細い腕であっても、物を使ったり、もしくはハッキングでもされれば、防ぐ術はないに近い。だけれども、僕らはここで日常をともにしている。だから、争いは起きない。会話に意義などないのだから。
そして、それはこれからも続く。
はずだった。
統括委員会は、彼女の処分について、費用がかさみ過ぎるとして、廃棄案を本腰を入れて検討しだした。勿論、殺人などは行われない。
ただ、潜水艇の所属を無記名にすればいい。
そうすれば国家保安のために攻撃能力の持つ船がやってきて魚雷を放つ。そうすればすべては解決なのだ。問題は報道するわけにはいかない点だけ。既に予算はおりている。
「アカネ、一週間後、旅行に行こうか」
「ほんとに?」
彼女は本から目を離さずに返事をする。彼女の頭蓋骨の中にはAIには劣ろうとも、天然の高度な頭脳がしまわれている。彼女にとって僕の提案は、提案ですら無い空想話に過ぎなかったのだろう。
「いこう、お花見も、ロバも、アカネのみたいものを見に」
委員会は一週間後、海上演習の予定を可決した。
のこされた再プログラミングの猶予は少ない。あるいはアカネ自身に共犯者になってもらうしかないかもしれない。でも、出来るだけひとりでやってみる。
これが僕から贈れる唯一のギフトだから。
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