お江戸陰陽師あやし草紙─これはあやかしのしわざですか?─

石田空

火車

 史郎しろうは今日も淡々と暦を書いている。

 浅草には天文台があるが、天体観測の時期は決まっており、幕府発行の暦が配布されるまでは、専ら地元の陰陽師が暦をつくる習いがあった。

 陰陽師という職も、古くは平安時代と呼ばれる時代からあり、天体観測をしながら暦をつくっていたが、その天体観測から貴族の日常までを読み解くようになり、いつしか陰陽師の仕事は占術と括られるようになってしまった。

 それは占術や神を信仰してないような者たちからは「くだらない」「つまらない」「信用ならない」ものとされ、何度も迫害の憂き目に遭った。

 今は戦国時代と言われる時代に至っては、織田信長やら豊臣秀吉やら、時の権力者に大変に嫌われ、いつ消失してもおかしくなかったのだが。

 今の幕府に拾われ、幕府と共同で暦をつくるようになってからは陰陽寮は息を吹き返した。そしてそれらは貴族や権力者たちのものだけではなく、いつしか庶民たちも暦を簡単に手に取るようになり、陰陽師は暦をつくるということが広まっていったのである。

 土御門つちみかど史郎もまた、陰陽師として日々の営みをしている。そうは言っても、彼は幕府直轄陰陽寮の下っ端も下っ端も下っ端であり、一応は幕府公認の役人にもかかわらず長屋で生活するしかなかった。

 一応立場的には役人ではあるが、武士でもない。当然ながら武家屋敷はもちろんのこと、足軽長屋にすら住むことはできず、結果として町人たちに混ざって裏長屋で生活していた。


「さてさて、もうそろそろ梅雨時だってぇのに、雨が降らねえ。こりゃよくねえなあ」


 史郎はそう言いながら、その七日間ほどの暦を書き上げたところで、戸を叩かれた。


「しろさんしろさん、ちょっといいかい?」


 この長屋の大家であるいとの声だった。

 本来の大家は彼女の亭主だったが、昨年の流行り病でぽっくりと逝ってしまい、今は未亡人の糸が大家の仕事を務めている。元が夜鷹だったこともあり、うなじがひどく艶っぽく、ただ普通に着物を着て立っているだけで色香が漂う様は、大家になった今でも健在であった。

 さて、史郎はその大家の糸が苦手であった。彼自身別に女嫌いでも女性恐怖症でもないが、経験上彼女に戸を叩かれるときは、大概ろくでもない目に遭うのが常であった。

 このまま居留守をするか。そう考えたところで、糸の気怠げな溜息がついた。


「すまないねえ。あの人、あたしがしょっちゅう厄介事の始末を頼むもんだから、あたしが戸を叩くとまた面倒事に巻き込まれるって思っちまって」

「いえいえ。かまいません」


 どうも糸が誰かとしゃべっているようだった。

 声は甲高く、年の功は十三、十四といったところだろうか。しかし、そんな年頃の子とは縁もゆかりもないために、史郎はただ「なんで?」と首を捻るしかなかった。

 その中で、甲高い声の声が、戸の向こうから響いてきた。


「すーみーまーせーんー、でーしーにーしーてーくーだーさーいー」


 あまりにも突拍子もないことを言われて、史郎は少しだけ目を剥いた。

 陰陽師は基本的に一族総取りの仕事である。ちなみに陰陽師で一番偉いのは土御門家と言う。史郎もまた土御門の姓ではあるが、直系でもないために、末端扱いだ。名字のおかげで偉い先生扱いされるのが居心地が悪く、特に陰陽師のその手の問題を知らない長屋に篭もっているほうが性に合っていた。

 そして弟子入りだが。先に供述した通り、門徒は外部には開けていない。当然ながらお断りなのだが。しかし声は続ける。


「一応もらってきているんですよぉ、お願いですー、でーしーにーしーてーくーだーさーいー」


 なにやらおかしなことに気がして、渋々史郎は戸を開けた。

 そして糸に連れられた少女を見て、やはり目を剥いた。

 白衣に緋袴。髪は結ってはおらず、何故か切り揃えておかっぱにしていた。そしてにこにこと笑っているところが、なんとも言えずに型破りであった。


「あーあーあー……一応自分は陰陽師をしているが、本来は血縁制だからお断りなんだが。でも持ってるってぇのはなんでぇ?」

「あらまあ。京でもそんなことをおっしゃられました。江戸のほうが幾許かましだから声をかけてみろとは言われましたが」

「江戸ってぇと……自分はいったいどこから来たんだい?」

「土佐です」

「土佐……」

「うちも地元には陰陽師の弟子入りが可能だったため、陰陽師の勉強はしてまいりました。暦の勉強、方違え、風水。皆々様の暮らしを豊かにするためのお手伝いができる、素晴らしい仕事だと思います。もっともっと勉強したいと思っていたのですが……駄目だったでしょうか?」


 そう言いながら、弟子入り志願の少女はなにやら帯から差し出してきた。

 それはたしかに【いざなぎ流陰陽術免許皆伝】と書かれていた。元々陰陽寮は時代によっては虐げられ、幕府と合同の暦づくりをしていなかったら消滅しかかっていた時期が存在していたのは知っていた。だからこそ、陰陽師たちも自分たちの居場所を求めて、各地にばらけていた時期が存在した。

 その一派がどうも土佐に流れて、このように勝手に門徒を広げていたらしい。


「あー……うちだと女は陰陽師にはならねえもんだが……」

「それは京でもおっしゃられましたわ。でもいざなぎ流陰陽術では、老若男女問わず、陰陽術は広く知らしめるべきって教えですの。なによりも私、暦づくりやお守りづくりはできるようになりましたが、風水もそこまで詳しくなく、妖怪を調伏する術だって知りません。ですから、もっともっと勉強したいと思って、修行の旅をしているんです。陰陽師と呼ばれる方々を尋ねて、各地を回りましたが。皆から断られました。折角江戸に来たのですから、ここでこそ弟子入りを決めたいんです。どうか、弟子にしてくださいませんか?」


 史郎は頭が痛くなった。

 どうにも、昨今の貸本の影響か、陰陽師は妖怪調伏する力があると、本気で信じている者たちが後を絶たないのが、目下の悩みであった。

 陰陽寮の開祖に当たる安倍晴明あべのせいめい。彼の活躍を描いた貸本というのはどの時代でもそこそこ人気を博し、話は大きく広がっていた。母親が狐の妖怪だったとか、宿敵と術比べをして打ち負かしたとか、京で姫や若が誘拐されたときに占いで犯人をピタリと当てたとか。

 こんなに好き勝手書かれまくったら、どうしても子孫は迷惑を被る。


「……ひとつ言ってもいいかい?」

「はい、どうぞ」


 史郎は少女の顔を見た。

 目がきらきらとしている。おまけに素直そうで、聡明そう。そんな子が陰陽術を学び、人の役に立ちたいと思うのは素晴らしいことだろうとは思う。実際に亭主が死んだら嫁は食い扶持に困って夜鷹に身を落とすことは普通にある。夜鷹から足を洗った糸は奇跡だし、手に職のひとつやふたつ持っていたほうが女だって安心だろう。

 しかし、そんな子が貸本の嘘八百に騙されるのはあまりにも気の毒だ。

 史郎は心を鬼にして口を開いた。


「ええっと、陰陽師はただの役人だ。大昔……それこそ平安時代はどうだか知らないが、今は暦をつくって配る、あっちこっちに風水で家を見て回る、お守りやお札を売る……と、そこまでは普通にするが、それ以上のことはしねえ。もし妖怪調伏をしたいってぇんだったら、悪いこと言わねえから、他当たれ。どっかにはいるだろ、そんな家業を生業にしているのは」


 一生懸命修行はしたんだろうが、それはそれ。これはこれ。現実は教えてやらなければならない。そう史郎は言ったのだが。

 少女は頬を真っ赤にして……何故か微笑んだ。


「素晴らしいですわ!」

「……おい?」

「素晴らしいですわ、こうして妖怪のことを嘘だ出鱈目だと言って、本当のことを隠してらっしゃるんですね! わかりました。私、誰にも申しません」

「あ、嘘、違……」

「やはり先生に弟子入りしたんです! どうぞよろしくお願いします!」


 そのまま土下座までしそうなので、史郎と糸が必死に止める。

 見かねた糸が史郎に告げる。


「もういいじゃないかい。ここから土佐まで帰るにゃ骨が折れるし。あんたが弟子に取ってやりゃ、帰るまでの江戸土産ができるじゃないか」

「糸さん、勘弁しておくれよ……」

「いいじゃないかい。どうせ男所帯で狭いもんだ。ひとり置いとくこた訳ないだろ。まあ住ませるのはうちでもいいけどさ」


 史郎は大きく溜息をついてから、やっと少女に目を向けた。目がくりくりとして愛らしい。


「……それで、お前さんの名前は?」

「はい、前浜椿まえはまつばきと申します!」

「椿、な。まあ……しばらくの間よろしく」


 まだあどけない子に教えるようなことなんてなにもないのにと、史郎は再び大きく溜息をついた。

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