第3話 ねぇ、朝日。家に来てよ。

 授業が終わった俺はいつもならこのまま家に帰る。

 そうだ、いつもなら。でも今日はいつもとは違う。

 椅子を引いて少し腰を屈めなら先輩は立ち上がると、席に座ってノートや教科書をリュックにしまっている俺を見下ろしてクスリと笑い小さく口パクで何かを言う。


『プール。行こっか?』


 まじで行くつもりなのか?先輩は教師や親にバレたりするのが怖くないのか?俺は普通に怖いぞ。

 そんな俺の気も知らない先輩は早く行こうと言わんばかりに鞄を肩にかけながら俺を急かすように腕をクイッと引っ張る。


「ちょっと待ってくださいよ」


 ファスナーを閉めてリュックを背負うと俺は先輩に腕を引っ張られながら、立ち上がる。教室を出てそのまま昇降口に行き、ローファーに履き替えるとプールに続く屋外通路を歩く。

 その際何人も教師とすれ違って先輩も俺も視線を向けられるが、先輩はそんなのはお構いなしだ。俺は緊張と不安で心臓が張り裂けそうなほど痛いのに、先輩はそんな様子なんて少しも見せず俺に悪戯っぽい笑みを向ける。


「楽しみだね」


 屋外通路を抜けるとそのままプールサイドに出ることができる扉がある。先輩は扉の影にある古いデッキブラシが入ったバケツの前にしゃがむと、誰か教師や生徒が来ないか辺りをキョロキョロと見渡す。


「ねぇねぇ知ってた?プールの合鍵はね、この使われてないバケツの裏にずっと隠してあるんだよ。ほら」


 しゃがんだ時先輩の制服のスカートから白い太ももが微かに見え俺はドギマギするがそんなことも気にせず、彼女は立ち上がると鍵を自慢げにかざした。


「私は朝日より1年先輩だから物知りなんだよ」

「いいから早く開けましょうよ、教師来ますよ?」

「まあまあ待ちたまえ」


 先輩が鍵を鍵穴に入れ回すとその重たそうな金属製の扉がゆっくりと開く。

 塩素の匂いが鼻腔をくすぐるのを感じながら俺はその光景に感嘆の息を漏らす。


「すっげぇ……」


 月の光が水面に反射し無数に浮かび上がる波紋がまるで宝石のようにキラキラと輝いているのがなんとも幻想的だ。

 俺達は靴を脱ぐこともせず土足でプールサイドに足を踏み入れる。俺の腕に絡んでいた先輩の細くて白い腕が離れると彼女は振り返り俺にニッと笑ってみせた。


「ようこそ、夜のプールへ」


 その笑顔はまるでいたずらに成功した子供のように無邪気で俺までつられて笑ってしまう。


「あっ、でも俺着替えとか持って来てないからプールに入れないです」


 俺のその急な現実的な言葉に先輩はうげぇ……と声を漏らしながら眉間にシワを寄せ、とても不満そうな表情をする。

 すると先輩は俺に歩み寄り俺のブレザーを無理やり脱がせる。俺は抗議の声を上げようとするがそんな俺よりも早く彼女は言った。


「若いんだから、そんな後先考えずに今をぱぁっと楽しみなよ。これは先輩からのアドバイス」

「先輩と俺って1歳しか歳違わないじゃないですか」

「細かいことはどうでもいいんだよ」


 反論を聞きながら先輩は靴を脱ぐとニーハイソックスも脱ぎ始め、鞄と共にそれらプールサイドに投げ捨てる。


「来るの?来ないの?」


 月の光に照らされ先輩の制服の下の体のラインがシルエットとなって浮かび上がり、そのシルエットは俺の返答を待ちながら不思議そうに小首を傾げる。

 俺はため息をつきながらブレザーを脱ぎそれをプールサイドの淵のところに掛けると先輩と同じように靴を脱ぐ。


「今日だけですよ。こんな無茶付き合うの」

「うん。今日だけでいい」


 すると彼女は俺の目の前に立ち俺を見上げながら小さくクスッと笑うと、俺の腕を掴む。先輩の手が触れた部分だけ火がついたように俺の体が熱くなるのを感じる。

 俺が恐る恐る彼女の方を見てみると先輩は目を細め微笑んだ。


「さぁ行こ?」

「あっ、ちょっと待ってくだ」


 そして俺の手首を先輩はグイッと引っ張るとその反動でバランスを少し崩した俺は彼女の方へ倒れ込んでしまい、水しぶきを上げながら制服のままプールに落ちる。

 塩素の匂いが全身を包み込み俺は口から小さな泡を吐き出しながらプールの底に足をついた。顔に張り付いた髪の毛を俺は掻き上げながら先輩の姿を探すと、後で体を丸ながら水中で体を回転させる先輩がそこにいた。


 そして彼女は水の中で足を魚のようにゆらりとゆらりと、そのままゆっくりと俺の元まで泳いできて手を伸ばす。

 俺はその白い手首を握ると先輩はグイッと俺を引き寄せて抱きついた。


『先輩っ!?』


 声じゃない何かが自分の口からゴポゴポッと気泡となって溢れ出し、それを見た先輩は腹を抱えながらゲラゲラと笑う。

 温かい体温と彼女の柔らかい感触が水の中でも直接伝わってきて、思わず心臓が大きく跳ね上がるが、それでも水の中だからか不思議といつもよりも鼓動は遅い気がする。


 先輩は上を指さすと、俺の手首を掴んだままその細身からは想像できないほどの力で俺を引っ張りあげると水面に向かって泳いでいく。

 水中で先輩の赤髪が花のように大きく広がり、その髪の隙間からチラリと覗く彼女の瞳は月の光を閉じ込めたみたいに爛々と輝いている。

 まるで宝石みたいだ。俺はそんな先輩から目が離せずにいた。

 そして俺たちはプールの淵に腕をつくと水面に顔を出し大きく息を吸い込み酸素を肺に送り込む。


「あははっ、こんな楽しいことしたの初めて!」

「ごほっごほっ……まさか落ちると思ってなかった…ごほっ」


 痺れるような塩素の匂いが鼻腔をくすぐり思わず咳き込むと水を少し飲み込んでしまい涙目になる。そんな俺の隣で先輩は心配そうに顔を覗き込みながら俺の背中をさする。


「大丈夫?ごめんね、まさか私も朝日がバランスを崩すって思ってなくて」

「あっ、いや別にいいすけどね」


 濡れた長いまつ毛に縁取られた大きな瞳に見つめられ、俺の心臓はまた大きく跳ねる。

 先輩は濡れて重くなった自分の髪を両手の指先で無造作にかきあげると、そのままプールサイドに腰を掛ける。

 すると月の光に照らされ水分を吸った先輩のブラウスが、ピッタリとその華奢な体に張り付き、その下にある下着の線がラインがくっきりと浮かび上がっていた。

 思わず咳払いをしながら視線を逸らした俺の行動に先輩も気付いたのか自分の胸元を見下ろすと、俺の手首を離す。


「……えっち」


 自分の胸元に視線を落とし、その琥珀色の瞳を揺らしながら頬を林檎のように赤らめ、自分の体を両手で抱きながら濡れた唇で俺にそう呟いた。


「あっ、いや、あの!そんなつもりじゃあ……」


 俺は慌てて弁解しようとするが、先輩は俺の言葉を遮るように小さく笑う。


「朝日がそんなつもりじゃないくらい、わかってるよ」


 少し悪戯っぽい笑顔を浮かべながら彼女は髪を耳にかけて言った。

 そんな先輩を見上げながらぼぉとしているとそれに気づいた先輩は、俺の手を掴み強引に引っ張り一緒にプールサイドに座らせようとする。


「下から見上げられると恥ずかしいから、隣きて」

「いや俺だって、好きで下から見上げてたわけじゃないですよ」


 俺の言葉に耳を貸すこともなく先輩は俺をグイッと引っ張る。俺は彼女に抗えずそのままプールサイドに腰かけた。そして彼女は俺の手を掴むとその濡れた温かい手の平で俺の手の甲を包む。


「あれ、いつもより冷たいね。プールに入ったからかな?」

「別に冷たくないですからっ!!」


 無意識でこんなことやってるのか!?この先輩は……。


「プールに入ると髪シクシクするよね。待っててタオルとってくるから」


 そんな俺の様子を見て先輩はクスリと笑うと立ち上がって俺に背を向ける。

 その時俺は、彼女の白い背中の右肩甲骨の下あたりに小さなホクロが3つ三角の形であるのに気付いた。

 変わった形のホクロだな。

 先輩は俺の視線が背中に注がれていることに気づき、首だけ捻って振り返り少しキョトンとした顔をすると恥ずかしそうに笑いながら言った。


「そんなに見ないでよ、恥ずかしいじゃん」


 それはいつもの彼女らしいあどけない笑顔で、さっきまでの先輩の表情とはまた少し違う魅力を感じ胸がドキッとしたが彼女の言葉を理解すると同時に血の気が引いた。

 よく考えたら女の子のしかも年上の、背中のホクロというちょっとニッチなものを何じっと見てるんだ俺は……普通に変態しかそんなことしないぞ!?

 脱ぎ捨てられた靴のところでしゃがむと先輩は自分の鞄を開けて、中から水色のタオルを取り出しこちらに向かって小走りで走る。


「いつもとりあえずタオルは持ってきてるんだよねぇ」


 そして俺の頭の上にタオル俺の頭に被せる。


「ええっ!?いや、あの自分で拭けますからっ。てか先に自分を拭いてください!!」

「先輩が後輩より先に拭くわけいかないでしょ。いいから任せなさい」


 先輩はそう言いながら俺の髪を優しく拭く。後頭部から頭を優しく撫でる先輩の細い指先と柔らかなタオルの生地がなんとも心地良くてつい目を細めてしまう。

 チラリと先輩の方を見上げると、ギュッと目を細め眉間にシワを寄せながら俺の髪を真剣に拭いている姿があった。

 そんな俺をいじってくるいつもとは違う、真面目な彼女の姿が可愛くて思わずクスクスと笑うと、自分を見て笑う俺に気が付いたのか先輩はムッとした表情を浮かべる。


「なに?なんで笑ってるの?」

「いや別に……」

「えぇ?ちょっと答えてよ〜」


 それは小学生並みの稚拙なやり取りだが俺達にはそれが面白く感じ顔を合わせてククッと笑いを堪えるように喉を鳴らす。

 少し薄暗い月の光に照らされたその横顔は、いつも学校で見ている時よりもどこか子供っぽく見えてなんとも愛らしかった。


「それにしても制服濡れてるしどうやって帰ろ」

「朝日の家って遠いの?」

「いやいつも自転車なんで別に遠いわけじゃないっすけど…まあだいたい30分くらいですかね」


 濡れて重たい制服のまま自転車に乗ると普通に危ないし、下手したら変質者みたいに見えるからな……。


「ふーん、じゃあさ」


 そんなやりとりをしているとふと先輩がなにかを思い出したようにつぶやく。

 その時俺の頭を撫でていた手が止まったのに気付き、顔を上げると先輩の琥珀色の大きな瞳が俺を見つめていた。

 そして先輩はその小さな唇を開き俺に言った。



「家…来る?」



 柑橘系の制汗剤のような香りが、少し体を屈め俺の耳元に口を寄せた先輩の首元から微かに漂ってくる。リップクリームの色か桜色に濡れた唇が小さく動き俺の鼓膜を微かに震わせた。

 そしてその言葉の意味を遅れて理解すると俺の顔に急激に血液が集まり熱を帯びる。


「私の家、歩いて5分くらいなんだ。ほら風邪になったりしたらダメだし家で服乾かしてから家に帰ったほうがいいよ」

「あっいや、そうですけど……先輩はその…俺が家に来るの嫌じゃないですか?」

「なんで?いやじゃないよ」


 不思議そうに首を傾げる先輩を見て、俺の中の迷いは消え去った。

 あっ、そっか。俺は所詮後輩だから……いや後輩とか関係なく先輩にとってはそもそも俺なんてそういう対象じゃなくて男ですらないんだ。

 その結論を導き出すには簡単すぎて、俺はそれ以上深く考えるのをやめることにした。


「いやいいです。先輩に迷惑かけたくないんで自転車で家帰ります」


 愛想笑いを浮かべながら俺は立ち上がり、プールサイドに投げ捨てられたブレザーを拾い上げて腕を通す。

 これでいいんだ。別に俺は特別じゃないんだ。俺はただの後輩で、この人はただの先輩。夜名先輩は特に俺なんて意識してるわけじゃなくて俺はただのおもちゃ。

 まるで自分に言い聞かせるように頭の中で同じ言葉を繰り返しながら俺はドアノブに手をかける。


「待って!」


 開きかけた扉に先輩の両手が突かれ、そのまま衝撃で俺はドアノブを掴んだまま背中を扉に強くぶつけてしまう。

 ドアと先輩に挟まれて逃げ場のない俺は抵抗することもできずただただ困惑と疑問を入り混ぜた表情を先輩に向ける。

 髪から滴り落ちる水は光を帯びながら彼女の頬を伝い顎先から涙みたいにポタポタと地面に小さなシミを作る。

 月明かりに照らされた先輩は頰を赤らめながら唇を噛み切なげに俺を見下ろして言った。


「……迷惑じゃないよ。だからおいていかないでよ」


 初めて見る先輩の弱々しい姿と切なげな声色に俺は勝ったという優越感より、心臓が締めつけられるような罪悪感を感じてしまった。

 ずるい、そんな表情をされたら俺が何も言えなくなるのは先輩もわかってるだろ。

 俺は無言のままドアノブから手を離すと先輩はそれを肯定だと受け取ったのか、ゆっくりと俺の肩に額を乗せる。

 ワイシャツ越しに感じる先輩の感触と温もりに全身の血流が早くなるのを感じ、先輩の微かな吐息が俺の右耳を優しく刺激する。


「ねぇ、朝日。家に来てよ」


 先輩の小さくて柔らかい唇が開き小さく息を吐いた音が聞こえると同時にさっき俺を見下ろしていた先輩の視線は今度は下から見上げるような上目遣いに変わる。

 瞳の中で輝く光はまるで琥珀の中に封じ込められた小さな太陽みたいに揺れ、その中に映る俺は間抜けにも口を半開きにしたまま先輩のことをじっと見つめていた。


 俺をからかうために先輩はこんな表情をしているのか、それとも本気なのか俺には先輩の本心がまったくわからない。

 からかっているのならいつもみたいに笑って欲しい、からかってないのなら先輩にとって俺はいったいなんなんだ?


 何もできないでいる俺の肩から額を離した先輩は一歩後ろに下がると、先輩は薄く濡れた唇をゆっくり開き八重歯を見せながら笑う。


「じゃあ行こっか」


 勘弁してよ、先輩。


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次回は第4話「じゃあ、お風呂を一緒に入るしかないね。」です。

お楽しみに。

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