夜間学校で真面目に勉強しても隣でいつもいじってくる夜名先輩

酒都レン

第1話 朝日の反応が好き、それだけの話だよ。

 朝日というと何を思い浮かべるだろうか。

 光の微粒が照らし出し人々の肌に触れる黄色だろうか。

 それとも、闇をそっと優しく切り裂き現れる柔らかい光の集合体だろうか。

 俺にとってはどちらも違う。

 ナイフでなぞられたような鮮明な光が、新しい一日の始まりを告げると共に俺を何度も突き刺す。それが俺にとっての朝日だ。


 そんな光が怖くて、いつも光が俺を見下し戯言を風に乗せて耳元まで囁いてくるように感じ、いつしか俺は光が出ているうちは家から出なくなった。

 だからこんな狂った状態で学校なんて行けるはずがないと思っていたが、俺のことを気にしていた母さんはある提案をした。


「夜間学校にでも行く?」


 そして俺はニートから夜19時から22時の間だけ学生になった。

 勉強は嫌いだが、今の環境は嫌いじゃない。夜の学校という海に潜り込んだがわけだが周りは14歳から18歳の中学生と高校生で構成された生徒8人のみで、誰も必要以上に干渉してこない生徒がほとんどのため居心地が良いし、教室の設備も昼間は普通の学校というだけあって悪くない。

 これなら3年くらい余裕で勉強できる。


 いや、夜間学校に行くくらいしか1日のすることがないのだからせめて学校で勉強するという普通のことくらい真面目にこなさないといけない。

 それが俺のできる唯一のことだ。


 チョークがゆっくりとしなやかに黒板に当たる音が鼓膜を震わせ、目に優しい深緑色の黒板から薄ピンク色のチョークの粉がパラパラと舞い落ちる。

 淡々とした声で説明される教師の言葉を聞きながら、生徒達が黒板の左上に書かれた数式をノートに書き写してシャーペンの芯が擦れる音が何層にも教室に響き渡る。

 勉強をするために学校に来ているのだから、生徒たちは当たり前のように真面目に勉強をしている。

 一人を除いて。


「ねぇねぇ、朝日。つまんないから楽しい遊びをしようよ」


 俺の隣の席に座る少女が、シャーペンをくるくると指で器用に回しながら俺の耳元まで顔を近づけて囁く。

 その際少女の綺麗な赤髪が微かに揺れ、シャンプーなのか少し甘い匂いが風に乗って俺の鼻に届く。


「勘弁してください夜名先輩、俺頭良くないから真面目に勉強しないといけないんです」

「じゃあ勉強をしたかったら私の遊びに付き合うこと。それまで勉強は禁止です」


 両手の人差し指と人差し指を交差させバツ印を作った夜名先輩は年上とは思えない天真爛漫な笑みを浮かべる。

 太陽の光のような温かい印象を与える琥珀色の瞳。少し吊り上った目尻は彼女の甘いマスクにアクセントを加え、すらりと伸びた鼻筋、形が良くふっくらとした桜色の唇と彼女の艶やかな赤髪の先端が少し窓から差し込む月光を反射し美しく輝く。


「それ強制ですか?」

「うん、これは先輩命令」


 この癖さえなければいい先輩なのに、と心の中で呟きながら俺は諦めてシャーペンを机に置き夜名先輩に顔を向ける。

 先輩の顔には良いおもちゃを見つけた子供のような無邪気な笑みが浮かんでいた。

 自分の前では何故か先輩はこの表情しか見せない。初めて会った時、一度だけその笑わない無表情の姿を見たが次会った時からいつもこんな笑顔を向けられている。


「朝日も私と遊ぶの好きなんでしょ?」

「違いますよ。本当は真面目に勉強したいです、これは命令で…」

「うっわ、都合のいい言葉だね。まぁいいけど」


 くせ毛なのか少しウェーブのかかった赤髪は腰まで伸びており、邪魔だと思ったのかそのうちの一束を髪を耳にかける仕草がとても様になっている。

 少し離れていた机を、体を密着させるまで隣に寄せてくると夜名先輩は悪戯な笑みを浮かべながら頬杖をつく。


「俺ちょっと離れます…」


 顔と顔がくっつきそうな至近距離に思わず息を呑んでしまい、すぐに身を引こうとするがその前に先輩は俺の腕を掴んだ。

 女子特有の少し低めの体温と柔らかな感触に俺の体は硬直し、彼女は耳元まで顔を持ってくるとその妖艶な唇を開き吐息混じりの声で囁いた。


「そんなに大きく動くと先生にバレるよ」


 彼女の声は少し中性的というか低い優しい声をしているため聞いてるだけで癒される声だが、今の先輩はナイフを持っていてもおかしくないレベルで意地の悪い顔をしている。

 そして俺はいつもこう思うのだ。この癖さえなければいい人なのに、と。


 そう言いながら夜名先輩は腕から手を離すとこちらに向き直し俺の肩をつつき始める。最初は触れないようにつんつんと、しかし途中からは制服からはみ出した部分を掴み揉むような仕草で。


「何してるんすか?」

「朝日ってくすぐったいの弱いタイプでしょ」


 その言葉に俺は思わず顔をしかめて肩をビクッと震わせた。俺はくすぐったがりというわけではないが、人に触られたりくすぐられると少しむず痒くなる体質だ。特に首や脇の下といった柔らかいところは直接触られると体が反応してしまいどうしても笑ってしまう。

 俺のなんで分かったんだという反応に先輩は先生に聞こえないように声を殺しながらも腹を抱えて笑いだす。


「当たった!」

「いや、別に弱くないですよ!人並みっていうか……」

「じゃあ続けてもいいよね」


 彼女は楽しげな笑みを浮かべながらもその手つきは止まらない。まるでマッサージ師がお客の肩の凝りを揉んでいるかのように、その手つきに一切のいやらしさはない。

 そして二の腕、脇腹などをツンツンしたり撫でたり揉んだりして俺の反応を何度もみるが俺は別になんともないという表情を見せる。ここで反応したら先輩の思うつぼだ。


 ただ何とも言えないむず痒さに襲われバレないように身をくねらせるも夜名先輩はそんな俺の様子に気が付いておりそれでも遠慮なしに触れてくる。

 二の腕から前腕へ、手首から指の先へ。そして手のひらを揉み解すように指で円を描くように動かされ指が擦れ合う感覚にゾワゾワと腕を這ってくる感覚に俺は思わずクッと笑いが漏れそうになるが、どうにかして笑わされまいと下唇を嚙み締める。


「今笑ったでしょ」

「笑ってないです」


 そんな俺の反応に夜名先輩はニヤリと口の端を持ち上げた。どうやら今の反応を見て楽しんでいるようだ。

 やっと腕が開放さたと思ったら今度は首の後ろをツーと撫でる。その細くて長い指が首筋をくすぐり思わず俺は身を硬直させた。

 まずい、この人本気だ。このままではいくら笑いを堪えても俺に勝ち目はない。

 それは今までの経験上よく分かっていた。

 そして彼女の指先は俺の顎を捉えその輪郭をなぞる様に触ってくると顎下と喉仏の境目を指先で軽く押され、俺はついに我慢しきれなくなり体を大きく震わせ笑い声が漏れてしまう。


「笑った!」

「笑ってないです」


 我ながら無理のある嘘だ。俺は助けを求めるように教室を見回すが誰も俺達に気が付いていない。時計を見ると授業終了まであと5分しかないため、皆必死に黒板に書かれた文字をノートに書き写していた。


 楽しそうに笑っているのは先輩だけであり、他の生徒は真面目に勉強している。

 先輩は弱点を見つけたと見えない猫耳でもぴょこぴょこと動かし、意地悪な笑みを俺に向けて両手の指を見せつけてワキワキと動かしてみせる。

 そして俺の首筋と脇腹を鷲掴みにすると、その細く長い指先でこちょこちょとくすぐり始める。


「ちょっ、先輩…くぐっ待ってあはっ……ごほっ」


 俺は思わず笑い声が漏れそうになるのを必死に堪えながら机に突っ伏し体を硬直させるが、それでも先輩の手は止まらない。

 首の下に手を差し込み親指で優しく撫でるようにくすぐられ、そのこそばゆさに襲われながらも俺は笑い声を漏らすまいと歯を食いしばり耐えるが夜名先輩も負けじと容赦なく攻め立てる。


 このままでは教師に本当にバレると、先輩の何を言っても止まらないその手を無理やりでも振り払おうとした時、偶然先輩の手と俺の手が偶然重なり合ってしまう。


「あっ、いやすみませんっ!!」


 俺はビクッと肩を跳ねさせて慌てて手を引っ込めようとするが夜名先輩が俺の手を掴んで離さない。

 さぞいたずらっぽい笑顔を浮かべているだろうと、俺は恐る恐る顔を上げると俺が想像していた表情とは真逆で、俺の手を握ったことでようやく俺が思春期真っ盛りの男子中学生であることを改めて実感したのかみるみる頬を赤らめて唇を引き結び、その琥珀色の視線は揺れいつの間にか俯いていることに気づく。


「おい。杉本、夜名、授業中にイチャイチャするな」


 そんな微妙な空気が二人だけの世界を作り出し、さすがに俺たちの異変に気づいた教師はチョークを持つ手を止め面倒くさそうな顔で俺達を注意する。

 その瞬間ハッと我に返り俺たちは慌てて互いに手を離し顔を背ける。

 面倒くさそうに教師は軽く舌打ちをした後黒板の方に向き直り、俺はまだ熱を持っている顔を冷ますため手で扇ぐ。


 先輩は俯いたまま耳まで真っ赤にし、その赤みは顔だけでなく首や手にも伝染しているように見えるのは気のせいだろうか。

 先生の一声で、さっきまでの甘酸っぱい空気は一瞬で吹き飛び、先生を救いの神と言うべきか、それとももう少しさっきの時間が続いて欲しかったと言うべきか何とも言えない微妙な雰囲気が二人の間に漂う。


「先生にバレちゃったってことはこの遊びは朝日の負けね」


 熱が冷めた先輩は机の上に肘を突きながら手の上に顎を乗せてこちらを流し目で見ながら勝ち誇った笑みを浮かべているが、その頬はまだ少し赤く色づいておりどこかいつもより子供っぽく見える。


「えっ?いや俺のせいでバレたわけじゃないでしょ。それはちょっと違うんじゃ……」


 先輩はそんな俺の反論を制するようにくるくると指で回していたシャーペンの先で俺の鼻先にプクッと押し当てると、そのまま俺の机に置かれたノートの端に何か書き始めたため横目でそれを見る。


“じゃあ引き分け”


 綺麗というわけではないが、少し丸っこく整った字をかきそのまま俺を上目遣いで見上げる。

 いつもと違ってしおらしい彼女の表情に少しドキッとするが、俺は冷静さを保つために必死で頭の中のスイッチを切り替えて先生にバレないように声を絞り出す。


「なんで先輩はそんなに俺をイジッてくるんですか?」


 少し眉をひそめて頬をかきながら俺は質問すると、かき終えたばかりのシャーペンを桜色の唇にぷくっと当てて琥珀色の瞳は悪戯っぽく細めると、八重歯が見える程の笑みを溢す。

 赤みの帯びた柔らかそうな唇が動きだし、息を吹きかけるとノートの端がひらりと揺れるような音色で言葉を発する。



「朝日の反応が好き、それだけの話だよ」



 それはまるで俺にしか聞こえないとても小さな声で吐息混じりながら少し低く、でもしっかりとした言葉だった。

 その言葉に喉がゴクリと鳴り、頭の中で必死に彼女の言った言葉を理解しようとするが咄嗟のことで言葉が出なかった。魚みたいに口をパクパクと開閉してしまうも必死に俺は声を出そうとする。

 しかし、その瞬間授業終了のチャイムが教室全体に響き渡り俺の声はチャイムに掻き消され先輩に届くことはなかった。

 先輩はチャイムが鳴り終わるのと同時にスクッと立ち上がり、その拍子に椅子がガタッと音を立てるがそれに気にすることなくシャーペンを筆箱に仕舞う。俺は声を掛けようとするもその間すら無く筆箱とノートを机の中にしまってこちらに背をむけて廊下へと歩き出す。


「せ、先輩…っ」


 その時ようやく俺の中で整理がついたのか喉から言葉が紡ぎ出されそうな感覚を感じ、俺は慌てて立ち上がるがその時には先輩はもう教室を出ようとしていた。

 結局何も言えずただ彼女の背中を見送ることしかできなかったが、そんな俺をよそに夜名先輩は廊下で立ち止まると肩越しにこちらに髪をなびかせながら振り返る。

 その仕草はまるで映画のワンシーンのように画になっていたが、その表情は俺が想像していた意地悪な笑顔ではなくどこか儚げな笑みで俺は思わず息を呑み込む。

 そして彼女は俺の目を真っ直ぐ見つめて口を開く。


『なんてね』


 声を出さずに唇だけを動かして少し頬を赤らめると先輩はくるりと身をひるがえし、スカートをなびかせながら廊下を早歩きで去って行く。

 狐につままれたような感覚に襲われ、彼女の姿が見えなくなるまで俺は呆然と立ち尽くし先輩が完全に視界から消えると緊張の糸が切れたように椅子に腰を下ろし長い溜息をつきながらノートの上に突っ伏した。


「嘘か本気かわからねぇ……」


 顔は熱を帯びたように火照っており、それを誤魔化すように手で扇いでいると先ほどシャーペンで書かれた丸っこい字が目に映る。俺は俯したままシャーペンを手に取ると、先輩の字の下に自分の字で書き足す。


“勘弁してよ、先輩”


 それでも先輩のちょっかいを期待している俺のこの変わった感情を俺はまだ知らない。

 少し涼しい風が吹く夜、俺の体だけ異様に熱かった。



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