始まることのない世界の始まりへ

環F

第1話 ミシェル

 

 地球の周回軌道上にあるハッブル宇宙望遠鏡が銀河系の周縁に超新星爆発を捉えたころのこと――


 赤い月の浮かんだ空の下、極東の島国の一千万都市の歓楽街のハズレに築三十年以上は経つ薄汚れたアパートがあった。三階建てで部屋数が二十に満たないそれはギャンブル狂いの元オーナーが借金で手放したもので、複数の債権者の中で一番暴力的だったコリアンマフィアのフロント企業が今では実質的に所有している。彼らは噂だけある再開発を待つために、金払いだけは悪くないいつでも自由になる人間だけを住ませていた。それは不法滞在の外国人であったり、事情があって身元を明かせない夜の街の人間であったりした。さらに高い値段を払わせて犯罪者も住んでいた。まともに朝起きてまともな会社に行ってまともなサラリーを手にまともな人生設計を考えるような住人は一人もいなかった。ゴミの分別や収集日なんて守られたこともなく、いつも玄関脇にネズミとカラスに荒らされた悪臭放つビニール袋がうず高く積まれる、そんなアパートだ。


 二階の204号室、もう太陽が沈んでしばらく経つのに明かりが点けられる様子はない。そんな部屋の片隅で少年が一人、足を胸に抱えて床に座っている。少年は顔に青白い光を受けながら古いブラウン管のテレビを見ている。少年の身長はだいたい130センチ、体重は20キロを少し超えるぐらいの痩せ型、この国の標準的な子供から推測すると十歳ぐらいの年齢だろうか。首のよれたオーバーサイズのTシャツを着て、丈の短いパジャマのようなスウェットパンツをはいていた。足は裸足だ。少年は飽きるのが早いのか、テレビのチャンネルを頻繁に変えていた。画面に向ける顔はほとんど無表情で、時々わずかに口の周りの筋肉が収縮する時があるが、それが少年のどんな感情を表しているのかは分からない。


 玄関のドアが開く音がした。廊下の電気はつけられず、不規則な足音だけが響いた。壁に体があたるような鈍い音もする。ふらついた足音が少年のいる部屋まで辿り着いてやっと明かりが点いた。少年のいる部屋はとても散らかっていた。テーブルや床、ところ構わず衣服や紙くずや空き缶やペットボトル、食べかけのインスタント食品などが散乱して放置されていた。普通ならひどい匂いもしてるのだろう。

 女が明かりのついた部屋に入ってきた。


 女はまるで戦場から帰ってきたように疲弊していた。数時間前まではまともだったはずの化粧した顔が、今では溶けたマスカラの黒い川が鼻の下まで垂れていた。それは夜になっても三十度を下回らない熱帯夜のせいばかりではない。塗り直した口紅も輪郭を大きく外して歪んでいた。女は十九歳、本当のことは本人にもよく分からないが客にはそう言っていた。女は安っぽい真っ赤なミニのワンピースを足元から脱ぎ捨て、明らかにディオールではないディオールのロゴが入った大きなビニールのショルダーバックを床のゴミの中に落とした。女は下着姿のままキッチンに行くと冷蔵庫からからサントリーストロングゼロを取り出した。缶に書かれたマイナス196℃という文字を確認するように見てから頬に当てて冷やした。

「殴る時は殴るって言えって言っただろ、あのインポ野郎!」

 腫れているのは頬だけでなく、首の周りや手足にも真新しい内出血の跡があった。女はストロングゼロを頬から離すとプルリングを引いて中身を口に含んだ。そのまま何かを考えるように一度首を傾げると、飲み込まず口の中で液体を回した。女はシンクに口の中のものを吐き出した。ピンクに染まった液体と共にトウモロコシの粒ほど小さく固い物体がカランと落ちた。汚水の溜まった食器の隣にあった白い粒は折れた女の左奥歯だった。女はそれを見て大きな声で笑った。十分に満足するまで笑い続けてから真顔になって呟いた。

「――みんな死ねばいいのに」


 女は食器棚に隠していた大麻タバコに火をつけ、飲みかけのストロングゼロも持ってリビングに回れ右した。女はそこで初めて少年の存在に気づいたように言う。

「あれ、ミシェルいたんだ?」

 少年はテレビから視線を外すと振り向いて肯いた。

「そうだよね、私が部屋から出たらダメって言ったんだもんね、ごめんねさびしくさせて」

 女はゆっくりと煙を肺の奥まで吸って、ストロングゼロも味わうようにゆっくり飲むと床にあぐらを組んで座った。

「くっそ暑いな、もっと温度を下げろよ」

 女はゴミの中からリモコンを見つけて操作するが、エアコンはすでに最低温度に設定されていた。

「こっちおいでよ」

 女は手招きして少年を呼んだ。そのまま少年を膝に乗せると女は抱きしめ、腫れてないほうの頬を少年の顔になすりつけた。

「私のかわいいミシェルちゃん」

 少年は無表情のまま女の行為を受け入れている。

「お腹すいた?」

 女は思い出したように少年から体を離すと聞いた。少年は何も答えないが、女はそれをイエスの意味でとらえたようだ。

「ハンバーガー買ってきたんだ、一緒に食べよう」

 女はボールギャグや鼻フックやバイブレーターやローションも入っている偽ディオールの大きなバッグの中からぺちゃんこに潰れたマクドナルドの紙袋を取り出した。テーブルの上のゴミを一気に手で払い除けて袋の中身をぶちまけた。


「今日もテレビ見てたんだ?」

 女はつまんだポテトを指で弄びながら言った。女の視線の先にある点きっぱなしのテレビはチューニングが合っていないのかノイズだらけだった。何となく人の形は見えるが何の番組なのかは全く分からない。

「ずっとこうなんだよね。やっぱりひろってきたのはだめだよね。お金が出来たらちゃんとしたの買ってあげるからね」

 女のバッグの中からくぐもった電子音がした。女はスマートフォンを取り出すと画面を見て舌打ちした。

「今日はもう客をとらないって言っただろ! さっきの客が殴って歯が折れたんだよ!」

 女は耳に当てたスマートフォンに向かって怒鳴った。

「分かってるよ、まだ借金が残ってるって言いたいんだろ、分かってるよ!」

 女はスマートフォンの通話ボタンを切るとそのまま壁に向かって投げかけたが、思い直して机の上にあったハンバーガーを拾って壁に投げつけた。人の柔らかい場所が殴られた時のような音がして壁にケチャップの染みができた。少年はそんな女の様子を興味深げに見ている。

「ごめんね、またイラッとしちゃった。バカだからすぐにこうなっちゃうんだ。誰かがこういうのはイデンだっていうけど――イデンって知ってる? 親から梅毒みたいに感染っちゃうものらしいんだけど、アイツはもっとイラついていたからね。アイツは私を殺そうと殴ったけど、私はミシェルを殴らないから、絶対殴らないからね」


 しっかり閉じられた窓の向こうの、さらに数ブロック離れた国道から救急車のサイレンの音が聞こえてきた。

 女はテーブルの上に残った手つかずのハンバーガーやナゲットやポテトを汚いものを見るような目で見ると、まだ火がついている大麻タバコを一口だけ吸って立ち上がった。

「それじゃまた仕事に行ってくるね、福祉局の奴らがうろうろしているらしいから絶対に扉を開けちゃだめだよ。連れていかれちゃうからね」

 女は脱ぎ捨てたワンピースを着直すと偽ディオールのバッグを持って玄関まで歩き、ドアノブに手をかけたところで振り返った。

「私がいない時にどこか行っちゃたらダメだからね、私がミシェルを愛していることは知ってるでしょ? 私にはもう君しかいないんだからね、出ていったら殺しちゃうかもしれないよ」

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