第8話
まだまだ暑い8月の後半、店の外ではジーワジーワとセミが鳴く声が聞こえるし、涼しい店の中にいても、暑いという言葉がつい口をついて出てしまう。
今日のひといきの店内では、悟のトイがいつものカウンターの隅の定位置に座っていた。
大人しく、以前と同じようにお客様をニコニコと見渡す様は、いたって普通だ。美弥子がいたらこうはしていられなかっただろう。
今日は美弥子はお休みだ。
彩矢がひといきのバイトに入ってくれた事で、美弥子は週1日だった休日から週2日の休みをとれるようになった。それまでは店長と二人で店を回していたので、定休日である水曜しか休めなかったのだ。
テーブル席で接客している彩矢を見て、ありがたい、と悟は思った。彼女には悟も美弥子も感謝が尽きない。
休みが一日しかないとか、どんだけブラックなんですかと美弥子に何度言われたか…と悟は苦笑する。まぁ、本気で言っている訳ではないのは解っていたけれど。だからこそ、心苦しいところはあった。働かせすぎて申し訳ないなと思ってはいたのだ。
そういえば、休みに入る前の火曜、彼女の様子が少しおかしかった気がしたんだった。
原因として思い当たる部分がないではないけれど、それを認める事はあまりにも自意識過剰だ。同時に、自分の思いも認めざるを得なくなる。
もうとっくに理解しているけれど認めたくない思いを頭の隅に追いやって、悟は知らぬ間に入っていた肩の力を抜いた。
ついで軽い溜息をつくと、直ぐに気持ちを切り替えて、揺れる後ろ頭を見せる自分のトイと同じように店内を見まわした。
気が付けばカランカランと音がして、新たなお客様がやって来る。
「いらっしゃいませ、こんにちは!何名様ですか?」
「二人です」
「お好きなお席へどうぞ!」
「今日はどうする?」
「道路側にしよっか」
彩矢が何度か来店していて顔なじみになったお客へ元気よく挨拶をして、席へ促して水やメニューの説明等一通りこなしてくる。もう立派な戦力の一人だ。
彩矢のトイも、お客さんのトイへと笑顔で話しかけていて、この店でのひと時を楽しんでほしいという思いが見える。
悟はまた、ありがたいと口の中で呟いた。
喫茶ひといきではランチタイムは11時からだ。セットのメニューを各テーブルに置いて、増え始めてきたお客様の注文をさばいていく。
ブレンド、モカ、キリマン、お客それぞれの好みの注文に、今日はこちらの気分なのかなとか、いつも通りの注文だなとか思いながら、一杯一杯、丁寧に淹れて、彩矢へ渡す。
運ばれた珈琲が注文したお客の口へ運ばれる時が一番緊張するタイミングだ。美味いと思ってもらえるだろうか。いつも通り淹れられているだろうか。
見すぎないように気を付けてはいるものの、一口含んだあとの顔が綻んだ瞬間、ほっと胸をなでおろしてしまう。
よしよし、と自分を褒めて、また片付けや準備の作業に戻る。次の注文をこなさなければ。
そうやって、時間を気にする余裕もなく、彩矢と二人ひたすらに手を動かして……丁度一区切りついたタイミングで、彼はやってきた。
カランカランという本日何度目かのドアの開く音を聞いて、そちらに目を向けると見覚えのある人物が顔を覗かせていた。
「よっ、また来てやったぞ」
それは、一週間前にたまたま来店した不破だった。
彩矢の声が、いらっしゃいませ、と言うだけで終わる。こちらに気を遣ってくれたんだろう。出来た子だ。悟の手も空いた事だし、視線だけで、こいつはこっちで相手するよと返事をして、彩矢にはテーブルのお客様を任せる事にする。
「お前な、来るならもう少し早く来い」
「いやいや、俺にも都合ってもんがね?」
へらりと笑いながら悟の前にやってきた不破は、前回と同じようにカウンターに腰を降ろした。おしぼりとお冷を出しながら、口から出るのは砕けた言葉達。気の置けない相手だと思っているからこその特別待遇だと思ってもらおう。
「こっちの都合も考えてくれよ」
「ああ、なに、立花がきた?」
「そうだ。それに……瀬川もな」
ひとつ頷いた悟は、こちらがメインだというように、少し声量を落としてもう一人の名前を不破へ告げる。
それは、四日前の日曜にやってきた元カノの名前だった。
「あー…………そっちは不可抗力だって。たまたま立花と廊下で会ってお前の事を教えたんだよ。お前あいつとトイの話してたろ?そしたらちょうど歩いてきてさ。タイミング悪かったのはどうしようもねぇって」
バツが悪そうな顔をしてみせた不破だけれど、どうにもできなかったとあっけらかんと言ってのける。
「わかった。けどな……それでも一言知らせるくらいできるだろ。アドレス変わってないんだから」
「そういやそうだった」
「ったく……。で?今日はなににするんだ?」
「おお、それもあったな。んーじゃあブレンドとBLT」
注文を聞いた悟は一つ頷いて、珈琲を淹れるべく準備を始めた。
二人の会話が止まったタイミングで、悟のトイが、立ち上がった。慣れた相手が来た事で嬉しくなったのか、とことことカウンターの上をゆっくり歩いてくる。そして不破のトイとぺちんと手を叩いたかと思うと、向かい合って何事か話し始めた。
昔、会社の隣の机で仕事をしていたときも、こんな風にトイだけでよく話をしていたから、その時に一瞬戻ったかのような錯覚を覚える。もう何年も前のことで、場所だって立場だって変わっているのに。
二人して、ついトイ達の様子を気にかけつつ悟は手を動かしてBLTサンドを仕上げてゆく。
さてブレンドを、と淹れ始めた所で、ふいに不破が、聞きたいことあったんだ、と口を開いた。
「なぁ……美弥子ちゃんて、お前と付き合ってんの?」
「は?」
「かわいいなーって思ってさ。お前がもし手ぇつけてんなら流石に悪いとは思うけど。そうじゃないなら、俺が声かけても別にいいだろ?」
手元が震え、少しお湯が溢れてしまった。手早く布巾で拭いて、何もなかった風を装う。店内を見渡している不破には見えて無かったことを祈ろう。
自分は今、普通の顔をしているだろうか。
自信がない。
カウンターでじゃれているトイも、一瞬動きが止まり、顔が強張ってしまった気がする。
ダメだ、気にするともっと挙動がおかしくなってしまう。
ここでうまく返せずに間が空いてしまえば、それこそ変に思われるだろう。そう思った悟は焦らぬようにと自分に言い聞かせながら、不破へ言葉を返した。
「違う、けど、お前な、自分の歳考えろよ?あの子いくつだと思ってるんだ」
「はぁ?それこそ余計なお世話だっつの。それにむしろだからこそだろ、早く可愛い嫁さん欲しいんだよ。あってかそうだよそれも聞きたかったんだ美弥子ちゃんっていくつ?」
それも考えずに声をかけようとしたのか。そりゃそうか、初対面で相手の歳なんてそうそうわかりはしない。
なんとかいつも通りの自分にもどりつつある事にホッとして、ちらりとトイを見る。そちらも、さっきまでとは変わりなく遊んでいる様に見えて……正直に言うと、かなり、安心してしまった。
諸々が詰め込まれた溜息を付きつつ、淹れ終わったブレンドと皿に乗ったBLTサンドを不破の眼の前に出しながら、仕方無しに答えてやる。
「……はぁ。ほい、ブレンドとBLTお待たせしました。一応俺も店長さんなんでね、店員のプライベートを軽々しく教えるわけには行きません。…ヒントだけな、俺等と10以上違うよ」
「なんだよー、しっかり店長さんしてんじゃん。ぁ、んぐ……うん、うまいな。っつーかわっか。えっまじか。思ってたより若いな。なのにあの落ち着きって……んぐ、へぇ……ますますいいねぇ」
喋るか食べるかどちらかにしろというのは、同僚時代に散々注意した覚えがある。結局改善はされなかったし、する気もないのだろう。食べ方が汚くないのだけが救いだろうか。ちゃんと感想が挟まるところも、作り手からすれば好感は持てる。話しすぎて食べカスが飛べばそれも全て吹っ飛ぶが。
そんな、とりとめもないことを考えなければ、良からぬ思考に頭が占められそうだった。
美弥子との歳の差を聞けば、少なからず手を引く気になるだろうかと思った僅かな期待は、さらりと打ち砕かれたらしい。歳の差があるというデメリットは全く役に立たず。それどころか歓迎された気配すらあった。
……期待?
なぜ。
あの子に俺以外の相手ができる事は喜ばしい事じゃないか。
いや、それでも不破は自分と同い年で。
「可愛くて、セクシーさもあって、しかも気配りもできるとか最高じゃん?」
自分の思考にハマりそうになる前に不破の軽口が聞こえてくる。
軽口なら、いいんだがな。
「そうやって打算的な目で見てるから、相手も敬遠して彼女が出来ないって知ってるか?」
「ほっとけ。あーうまぁ……やべぇ常連になりそうだわ」
「おー、いつでもオマチシテオリマス」
「カタコトやめれ。でもなぁ……なんだよ、あの子今日居ないんじゃん。休みとか決まってないわけ?」
カップを傾けて最後の一口らしい分を飲み干しながら、チラと見上げられる。
こっちを縋ってみても、居ないもんは居ないんだ、しょうがないだろ。
「神様の采配だな、やめとけってさ。休みはまぁ、火曜か木曜だな。今週はたまたま今日だったって事だ」
口元を紙ナプキンで拭きながら、不破はちぇとつぶやいた。
「しょうがない、また来るわ。ごっそさん」
「はいよ、800円になります」
ん、と応えた不破は立ち上がりながら財布から千円札を取り出す。その様子を横目に見ながらレジへ移動した悟は、レジを叩いてお釣りを持ち、不破が移動してくるのを待った。
二人が話をしていた間もずっとじゃれあっていたトイが、不破が立ち上がったことに気がついたからか、手を降っているのが見える。
「なぁ、俺はまた来てもいいんだよな?」
悟と同じようにトイを見ていた不破が、視線はそのままに言った。その横顔がどこか寂しそうに見えたのは、気の所為、だろう。
「……何遠慮してるんだよ。俺とお前の仲だろ」
「……そうだよな。お前はそういう奴だった。オーケー、遠慮しねぇ。んじゃまたな」
ひょいと自分のトイを手のひらで掬って肩に乗せた不破は、レジ横に千円札を置き、悟からレシートとお釣りを受け取る。そして流れるように後ろ手を振りながら店を出ていった。
遠慮するなと言った。言ってしまったけれど。
悟はいつになく焦っていた。
自分はかなり美弥子を気に入っている。……いや、もう、認めるしかないんだろう。不破の言葉で否応にも認めざるを得なかったほどにショックを受けた。
好きに、なっているんだと。
立花が来た時はまだ、そうなのかもしれない、と思うにとどめていたし、認めたくなかったけれど。
でも、もう無理だ。
とっくに無理だったのだ。
この店でよく動く彼女を見るたびに。自分を見ては嬉しそうに笑う彼女に。店のお客相手に、きちんと礼をとりつつも軽快に相手をいなす方法を覚えたところ。イイ人いたら紹介してくださいね、なんて軽口をたたきながらも、その度にちらちらとこちらを気にする風の可愛い所もあったりして。
……けれど、悟は動けないでいる。
先日立花が来た時に言ったのは、紛れもない本音だった。
歳の差とか、立場とか、考え出すときりがないそれらを気にして動けないでいる。どころか、このまま言い出すつもりもない。
でも、不破が美弥子を狙うといった。……また来る、とも。遠慮しなくていいんだよな?といったあれは、あいつからの宣戦布告なんだろう。昔から聡いところのあったヤツだから、悟が動揺したのなんて簡単に見抜かれたに違いない。
悟と同い年で、美弥子との歳の差は不破も同じ。
でも、店主と雇われ店員という立場を気にすることもない。
それどころか、ずっと同じ会社務めでどれだけ稼いでるのかも解る分、あいつの方がきっと恋人にするには条件がいいだろう。
しがない店のマスターなんて、聞こえはいいが、実際はやりくり節約してなんとかもたせてるに過ぎない。
ふぅ、と重く陰気な溜息が、思っていたよりも自分の気持ちを表しているようで、なんともいたたまれなかった。
ちょうどいい、潔く、身を引くタイミングかもしれない。
美弥子の事を考えていたから抱きつきたい、抱きしめたいという思いが出てきたのだろうか、カウンターの上で不破のトイを見送っていた悟のトイが、ふわりと飛んできてぎゅうっと悟にくっついた。
ぺったり病、か。言い得て妙だよな。
でも、こんな小さなトイがくっついてくる様子は、イヤではなく、むしろホッとする部分すらある。
それがたとえ他の人相手にしたいのを我慢して自分にくるのだとしても。
悪い、お前もちょっと我慢してくれるか?
あの子が、より良い未来を得るために。
ますますぎゅうと抱きつく力を強めたトイの髪を、大きな悟の手が殊更に優しく撫でるのだった。
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