第36話・迷い2

 宏樹がやってくるまでの間、優香は陽太の着替えを手伝いながら、さっきの自分は絶対に冷静ではなかったと思い返していた。曖昧な気持ちで思わせぶりな態度を取るのはルール違反。いくら宏樹でもそんなことを繰り返していては、嫌気がさしてくるだろう。

 彼の為にも、自分の為にも、振り回さないって決めていたはずだった。


 ――宏樹君の前では、平然としているつもりだったのに……


 あの時、彼が帰ってしまうと思うと寂しさを感じたのは紛れも無い事実。『じゃあね』と言われ、運転席の窓が閉まって行くのを見ていると、胸がきゅっと締め付けられるような気分だった。引き留めたいと一瞬でも思ってしまったのが、そのまま表情に出てしまった。そして、気付いた宏樹が後でまた来ると言ってくれたことに、ホッとしてしまった。


 彼が囁いてくれる言葉を受け入れる勇気もないくせに、とても身勝手な行動だった。いつも無意識に思わせぶりな態度を取ってしまう。優香からは近付こうとしないくせに、宏樹が触れて来ても拒絶することもしない。自分がこんなに卑怯な駆け引きをする女だとは思ってもみなかった。彼には一方的に期待させるだけ期待させて……


 ――宏樹君なら、きっとすぐにいい人との出会いもあるはずなのに……


 義母が勧めていたお見合い話だってそうだ。あの時はあまりよく聞いていなかったけれど、写真を見るだけで会ってみたいと言って貰えるくらい、彼には魅力が十分過ぎるくらいにある。会計士として独立して社会的地位だって十分で、何より彼はとてつもなく優しい。

 宏樹の隣に立つ相手は、きっと自分なんかじゃないという思いが、優香に後一歩を踏み止まらせていた。


 誰かの代わりなんて、そんな失礼過ぎることはない。優香の中にはまだ大輝への想いが変わらず存在するのに、それなのに……


 保育園から持ち帰ってきた荷物の片付けも終えた後、優香はキッチンに立って夕食の準備を始めた。いつもより少し早いけれど、今は何かをしていないと落ち着かなかった。

 陽太の離乳食も後期に入ってからは食事作りが随分と楽になった。味付けと固さに気を付けたら、親とほとんど同じものが食べれるようになってきたからだ。中でも陽太はカボチャの煮物がお気に入りで、出汁だけで煮込んだ状態でもパクパクと喜んで口へ運んでくれる。


 宏樹を食事に誘ってみたものの、献立のことは何も考えていなかった。優香は冷蔵庫の中を覗き込んで少し唸っていたが、結局はいつも通りの陽太中心の夕飯を作り始めた。カボチャのそぼろ煮、ホウレン草のおひたし、鮭の塩焼きに、冷蔵庫の中にあった有り合わせの具材の豚汁。思い切り普段通りの家庭料理だ。


「……色気の全く無いメニューだね」


 しかも煮物は昨日作り置いたもの。宏樹が夕食に期待してくれていたら申し訳ないなと思いながらも、「ま、いっか」と開き直る。優香が小さな子供を抱える母親で、何の特技も持っていないことなんて今更隠しようがないのだから。これで幻滅されるのならそれはそれでいい。お洒落な食卓を望むのなら、相手は優香じゃなかったってだけなんだから。


 そんな捻くれたことを考えていると、家の前に車が停まる音が聞こえてきた。カーテン越しに外を覗けば、駐車場には宏樹の運転するシルバーのセダン。優香は慌ててコンロの火を止めて、陽太を誘って玄関へと向かう。チャイムが鳴ったと同時に玄関扉を開くと、宏樹がいつもと変わらない優しい笑顔で立っていた。


「ごめんね、今日は急に誘って……」

「いや、お袋いないし、今日はコンビニ弁当で済ますつもりだったから、夕飯食べさせてもらえるのはありがたいよ」

「お義母さん、お出掛けなの?」

「うん、昨日から法事で親戚のところへ行ってる。ほら、披露宴でマイク独り占めしてた叔父さんのところ」


 宏樹の言葉に、優香は「ああ!」と思い出しながら吹き出した。優香達の結婚式の披露宴で「めでたいめでたい」とご機嫌で酔っぱらって、カラオケを三曲連続で熱唱していた親戚がいた。なんだかノリが大輝と似てるなと思っていたら、義父の弟だと聞いて納得した覚えがある。

 玄関を上がって宏樹は片腕で陽太を抱き上げ、優香へと手土産だといいながらケーキ屋の店名入りの白色の箱を手渡してくる。どうやらこの短時間に買いに行ってくれたらしい。逆に気を使わせてしまったことに申し訳なさを覚えずにはいられない。


 リビングへと入ると、今日も変わらず宏樹は隣接する和室の仏壇の前に座り込む。そして、兄へと静かに語りかけた後、早く遊んで欲しくて仕方ないと背中によじ登ってくる陽太を肩へ乗せて立ち上がる。急に視線が高くなったことに、陽太は宏樹の頭をバンバン叩きながら喜んではしゃぎ始めた。手を伸ばせば天井に触れそうなほどの高さは、陽太にとって初めての経験だ。


 キャッキャッという賑やかな笑い声を聞きながら、優香はキッチンで夕食の支度の続きへと取り掛かる。豚汁を少し掬って味見している時、ふっと気付いた。


 ――そう言えば、大人向けのちゃんとした味付けって久しぶりだ。


 いつもなら陽太の離乳食に少し味を足すくらいで済ませてしまっていた。乳幼児用の薄味に慣れてしまっているせいか、宏樹には物足りなくないだろうかと自信がなくなってくる。何度も味見を繰り返し、優香にとって少し濃いと感じるくらいに調整したが、宏樹の口に合うと良いんだけれど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る