第32話・会計士見習い4 (吉沢の場合)

 スマホでネットニュースを眺めながら、母親が作ってくれた卵焼きを口へ放り込む。もうアルバイトではなく社員として働き始めたのだから、昼ご飯くらい自分で買っていくと伝えたにも関わらず、実家で一緒に住んでる親は過保護なまま変わらない。毎朝、吉沢が起きる時間にはすでにダイニングテーブルの上に作り立ての弁当が用意されている。


 実家暮らしは生活費を考えなくて済むから気楽。確かにそうかもしれないが、金銭的負担が少ない代わりに、常にすぐ傍から与え続けられるプレッシャーもある。資格試験勉強の為に少しでも時間を多く取りたいとアルバイトのまま働き続けていたけれど、早く安定した就職をという親からの圧力には勝てなかった。


 複数の会計士を抱える事務所は、大学時代の恩師からの紹介だった。在学中に税理士試験の簿記論を取得していたことを評価して貰えたらしい。そこでは見習いとして補助的な事務仕事をさせて貰える、はずだった。


「いやー、今、うちの事務スタッフの産休と育休が重なっちゃっててね、新人の指導をする余裕がないんだわ……悪いんだけど、二か月ほど別の事務所へ研修に行って貰えるかな。ああ、もちろん、就業条件はそのままだし、元々はうちにいた奴の事務所だから、安心してくれていいよ」


 初出勤で事務所に顔を出すと、いきなり出向指示を下された。初日からいきなりのたらい回しに、ブチ切れて入社辞退も頭によぎった。けれど、詳しく聞いてみるとそう悪い話ではないように思えた。


「ほら、吉沢君は将来的にはコンサルがやりたいって言ってただろう? 石橋はうちでもそっちをメインにやってた奴だから、勉強になるんじゃないかなぁ」


 オフィスの住所も自宅からそう遠くはないし、乗り換えなしで通勤できるのも良さそうに思えた。実際のところ、いきなり大きな事務所に飛び込むよりは気負いも少なくて済んだような気もする。


 向かいの席で手作りのオニギリを頬張り、眉を寄せた渋い顔をしている優香のことをチラ見する。少し前に吉沢が譲った漫画版の簿記の解説本を読んでいるみたいだ。横に置いてある問題集には付箋が付けられていて、たまにパラパラとそちらも捲って確認しているようだった。


「優香さん、分からないことあったら、遠慮なく聞いてください」

「ありがとう。頭では簡単に理解できたつもりなんだけど、実際に問題を解いてみるとなんか違うんだよねぇ……」


 思い切って声を掛けてみると、照れ笑いしながら優香が答えてくる。小さな子供がいるから自宅では勉強する時間がなかなか取れないと言い、こうして休憩時間を費やし勉強している姿を見ていると、自分がどれだけ恵まれた環境にいるかに気付かされる。


 所長である宏樹が外へ出ている今、事務所内には優香と吉沢しかいない。換気の為に少し開けられた窓からは、ビル前の通りを行き交う車が走る音が聞こえてくる。

 

 以前に勤めていた事務所の人達は何だかんだと理由をつけて、すぐに外回りに出たがっていた。しかも一旦出たら、なかなか帰って来なかったりする。ようやく戻って来たと思えば全身から煙草の匂いをぷんぷんさせていたり、酷い時にはアルコールで顔を赤らめながら「客からどうしてもって勧められて」と言い訳していたこともあった。昼間から、いい大人が何やってんだと呆れた。


 でも、ここの所長は逆らしく、何時には戻ってくると宣言すればその通りに帰ってくるし、仕事が出来る社会人はちゃんと時間通りに動けるを体現していた。ただ、なんだか少し優香に対しての態度が過保護過ぎるようなのは気になっていた。


「時間になったら、後は吉沢君に任せて、優香ちゃんは帰っていいからね。陽太のお迎えもあるんだし。あと、万が一片岡さんがアポなしで来ても、対応せずに追い返してくれていいから。その場合はすぐに俺に連絡して」


 クドクドと留守中の注意事項を伝えてから、ようやく出掛けていく。いくら女性とはいえ、一従業員にどうしてそこまでと不思議だったが、二人が義理の姉弟なんだと聞いて少し納得した。早くに亡くなってしまった兄が残した家族を守る為なのだ。兄に代わっての責任感とか、そういうやつだろうか? ただ正直言って、やり過ぎだろと思うところもあるが……


「私が社会経験が無さ過ぎるから、宏樹君には心配させてばかりなんだよね……」


 優香はそう自信なさげに言っていたが、吉沢の目には彼女はしっかりとした分別ある大人で、多少のことには負けない強さを持っているように見える。向上心もあるし、別に危なっかしさは感じない。だからきっと、宏樹のあの態度は彼女が言っているのとはまた違う意味を持っているんだろうなと、何となく思ってはいた。

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