第5話・再就職2

 宏樹が営む会計事務所は真新しいビルの3階にあった。駅のロータリーを抜けて通りを二つ越えた、中小のオフィスばかりが入る5階建ての白色のビル。優香の自宅からは4駅しか離れていないが、ビルが乱立するオフィス街という雰囲気のエリアだ。駅を降りる人の半分以上がビジネスマン風で、改札を出ていく流れの速さに、働くこと自体が久しぶりの身では気後れしてしまいそうになる。


 派手な格好じゃなければいいから、と義弟からは言われていたが、さすがに出勤初日だからとキレイ目のブラウスとパンツにジャケットを羽織ってみた。ヒールのある靴は久しぶり過ぎで怖くて、ローヒールのパンプスを選んだ。最初から頑張り過ぎたら疲れてしまうのは分かってるから、程よく力を抜いた格好。それでも思ってた以上に着替えには時間が掛かってしまった。


 ビルの下で『石橋会計事務所』のプレートを確認してから、階段を使って3階に向かう。同じ階には別のオフィスが他に三社入っているらしく、会計事務所の前で手櫛で髪を直していたら、怪訝な顔でチラ見されてしまった。


「いらっしゃい」


 入り口ドアのインターフォンを押すと、細い黒フレームの眼鏡を掛けた宏樹が笑顔で出迎えてくれる。スーツのジャケットを脱いでベストにネクタイを締めた義弟の姿は、百戦錬磨のやり手の経営コンサルタントという雰囲気を醸し出していた。普段の穏やかな宏樹しか見たことがなかったから、少しギャップを感じる。そう言えば、仕事中に会うのは初めてだ。改めて、義弟のことをそこまでよく知らないのを実感する。親しくしていたつもりだったけれど、きっと夫の弟というのはそんなものなのだろう。


「眼、悪かったんだ?」


 視力に自信ありの大輝と同じ感覚で、弟の宏樹も眼は良いと勝手に思い込んでいた。普段はコンタクトだったのかな、と驚いていると、宏樹は笑いながら首を横に振って否定する。


「全然。うちの家系、視力だけはいいから。今、PCで伝票入力してて、これはブルーライトカット専用。優香ちゃんも眼が疲れやすかったら、用意しておくといいかもね」


 へーと感心しながら、優香はオフィスの中を見渡した。簡易キッチン付きの20畳ほどのワンルームを、商談コーナーと事務スペースとにパーテーションで仕切られている。事務スペースの壁面の棚には色分けされたファイルが並び、床には段ボールが天井近くまで積み上げられ、向かい合って設置された2台のデスクの上にも、書類がいまにも雪崩そうなくらい重ねて置かれている。正直言って、かなりごちゃついていた。


「ひどいもんだろ? 前の事務所から持って来た書類も整理してる暇も無くてさ……まずはそういうのをお願いしたいんだけど」


 開業してから誰も雇ってこなかったから、雑務中の雑務まで手が回せなかったのだと照れたように笑う。


「了解。まずは何から始めればいい?」

「そこの段ボールの中身を顧客別にファイルし直して、棚に並べてって欲しい。新しいファイルはその段ボールの山のどっかに入ってるはずなんだけど……」


 首を傾げながら、宏樹は積み上げられている箱の中を覗き込んでいく。まずは中身を確認して貰ってからだね、と言いながら、さりげなく上の箱を下ろして優香が探しやすいようにしてくれていた。


 山積みになっていた荷物を開封し、所定の場所へ整理していく。とにかくその作業が全て終わらないことには、フロアの掃除すらままならない状態。


「ごめんね、初日から肉体労働みたいなのばかりで」

「あれ、あと二日はかかりそうだね……」


 紙の帳簿も束になればかなりの重量だ。分厚いファイルを上げ下げしているだけで、両腕はパンパンに疲れてしまった。間違いなく、明日か明後日には筋肉痛が待っている。毎日0歳児を抱っこしているから腕に筋肉がついたと思っていたけれど、正直それ以上。


「大輝なら、良い筋トレになるって喜んでるとこだね」

「あー、兄貴は筋肉バカだったからなぁ」


 事あるごとに「筋肉は裏切らない」と言い続けていた夫のことを思い出して笑いかけたかと思ったが、優香はふっと表情を無くした。こうして何かある度に話題にしても、夫はもう二度と帰ってはこないのだ。楽しかった思い出も全て虚しさに引きずられてしまう。


 そんな義姉の様子に気付いたのか、宏樹は椅子に掛けていた自分のジャケットを手に取り、デスクの下に置きっぱなしのビジネスバッグを抱えた。


「俺も今日は上がるから、車で送ってくよ。そのまま保育園に迎えに行くんだよね?」

「……うん」


 夫と死別してからまだ半年も経っていない。できるだけ明るく振舞うようにしているが、優香が現実を受け入れ切るには全然時間が足りない。無理して笑えば笑うほど、優香を傍で見ている人間にもその痛々しさが伝染する。それは悪循環以外の何物でもない。


 家の前で宏樹の車の後部座席から降りると、優香は開いたままのドアに向かって声を掛ける。車の振動が心地よかったのか、抱っこされたまま陽太は眠ってしまっていた。

 降りる際に、ご近所の奥様達がお隣の家の門の前で集まっているのが視界に入る。この辺りにはお喋り好きな小学生ママが固まっていて、石橋家の左隣に住む佐伯夫人はそのリーダー格だ。いつも何をそんなに喋ることがあるんだろうと不思議だが、仲間に入れて貰いたいと思ったことはない。ママ付き合いにも向き不向きがあるのだ。


「送ってくれて、ありがとう」

「じゃあ、明日もよろしく」


 陽太を抱っこして二人分の荷物を持っているせいで、ドアを閉めるのにもたついていると、宏樹がすっと運転席から出てくる。優香の代わりに後ろのドアを閉めてくれているのを、遠巻きからの視線が露骨に追ってきているのに気付く。

 さっと振り返ると、隣家前の奥様達が一斉にこちらの方を見て、怪訝な顔でヒソヒソ話を始めた。


「お隣って確か、こないだ旦那さんが亡くなったばかりよねぇ?」

「子供はまだ生まれたばかりでしょう? いくら独身になったとはいえ、ちょっと不謹慎じゃないかしら」

「まあ、まだお若いからいろいろあるんじゃないの? でもねぇ……」


 口元を隠し、聞こえないよう言っているつもりかもしれないが、ほんの数メートルの距離では丸聞こえだ。興味本位と非難の色をした視線が、優香と宏樹に直撃する。

 優香自身はあまりご近所付き合いはしていなかったので、勝手な噂を流されてもあまり気にはならない。けれど、宏樹の方はそうとも限らない。噂が回りに回って顧客に伝わることだってあるかもしれないのだ。客商売なのだから、世間の評判は過剰なくらい気にした方がいい。


 否定しようと、優香が一歩前に出掛けようとした時、宏樹がそれよりも先に井戸端会議中のご近所さんの方へズカズカと近付いていく。

 てっきり文句を言いに行くのかと思った優香は、義弟を慌てて止めようと声を掛けかけたが、どうも雰囲気が違った。


「こんにちは。兄の生前中は大変お世話になりました。姉と甥の二人では何かとご迷惑をお掛けすることもあるかと思いますが、今後ともよろしくお願いします」


 先ほどの彼女らの失礼極まりない会話なんて、聞こえていなかったかのように宏樹が奥様達に向かって平然と挨拶を始める。そして、胸ポケットから名刺入れを出すと、それぞれに自分の名刺を差し出していく。とても穏やかな営業スマイルを浮かべている。


「えっと、確か佐伯さんのご主人は駅前で中古車屋さんをされてるとか?」

「え、ええ。そうです」

「ああ、やっぱり! 兄からも希少な車種を取り扱った良いお店だと聞いてたんで、ご挨拶に伺いたいなと思ってたんです。経営上のご相談があれば是非ご連絡をいただければと、ご主人様にお伝え下さい」

「は、はぁ……」


 勢いで受け取った名刺を見た一同は、宏樹の名刺に書かれた苗字を見て、自分達の誤解だとすぐに納得したようで黙り込んでしまう。優香と同じ苗字の名刺は、何よりも説得力がある。「それでは失礼いたします」と隣家の前から戻ってきた宏樹は、何事もなかったかのように「じゃあね、陽太」と甥っ子の頬を指で突いてから、エンジンが掛かったままの車へと乗り込む。


 走り去っていく車を見送ってから、優香も自宅へと戻る。お隣の門前ではご近所さん達が気まずそうに苦笑いしている。再就職初日も、宏樹に助けられっぱなしだった。

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