シーグラスのドロップス

ウヅキサク

シーグラスのドロップス

「あのな、これ、舐めたら甘いねん」

 ゆき姉ちゃんがそう言いながら綺麗な青のシーグラスを僕に差し出してきたのは、僕が小学校に入ってすぐの頃だったか。

「なぁに、これ」

「これな、シーグラス言うんよ。割れたガラスが海を泳いでここまで遙々やってきたんや」

「ゆき姉ちゃんのウソつき。われたガラスはチクチクしてキケンなんだよ。先生言ってたもん」

 今思えば何一つ間違ってない僕の言葉に、ゆき姉ちゃんは呆れた顔で溜息をつき、

「アンタ、アホやなぁ。見てみいこれ。どこがチクチクしてんねん」

「……だって先生言ってたもん」

「チクチクで危ないのは陸で割れたガラスだけや。海で割れたガラスはつるつるで危なくないねん」

 大人びた表情でゆき姉ちゃんは得意げにふふんと鼻を鳴らし、当時の純粋無垢な僕はガラスってふしぎだなぁとゆき姉ちゃんの掌の上に乗った青いシーグラスをしげしげと眺め回した。

「ゆき姉ちゃん、なんかこれ、少し白くなってるよ」

「ん? 白く?」

 濡れてつやつやと透き通っていたシーグラスの表面は、ゆき姉ちゃんの掌の上で転がされる内に乾燥していき段々と白みを帯びてくる。

「ああ、ほんまや。そろそろ食べ時やね」

 言うやいなや、ゆき姉ちゃんはぽいとシーグラスを口に放り込み、大袈裟なほどに顔をくちゃくちゃにし、ん~! と大きな声を上げた。

「甘ぁい! シーグラスはやっぱ、この世で一番甘いわぁ!」

「ゆき姉ちゃんガラス食べちゃったの!」

「アホ。食べてる訳ちゃうねん。舐めて味わってるんや。呑み込んだりせんわ」

 ベッとゆき姉ちゃんは舌の上に澄んだシーグラスを乗せて突き出す。

「透明なシーグラスを拾ってな、白くなるまで待つんや。そんで白くなったの舐めるとな、これがごっつ甘くて美味いねん。これはほんまは内緒なんやけど、アンタだから特別に教えたげてるんやで。みんながこれ知ってもうたら、シーグラスなんてあっちゅうまに無うなってまうんやから」

 ゆき姉ちゃんは、絶対人に言ったらあかんで、と怖い顔で僕を睨み、首を何度も縦に振る僕を満足げに見下ろした。

「ね、ねえ」

「なんや」

「ぼくもそれなめたい!」

「そんならあっち探し行ったらええわ。なるべくきれーで甘そうなの探すんやで」

 うん! と元気よく返事をし、波打ち際に駆けていった当時の僕は随分とピュアだった。びしょびしょに服を濡らしながら綺麗なグリーンの、大きなシーグラスを拾ってきて、

「ゆき姉ちゃんより大きいの見つけた! いいでしょ、いいでしょ!」

「大きさと味は関係ないねん。舐めてみたらわかるわ」

 若干不機嫌そうに言ったゆき姉ちゃんは、シーグラスを口に含んだ僕が顔をしわしわにするのを見てすぐに満面の笑みを浮かべた。

「……しょっぱい!」

「そりゃそうや! 海の中にずっとあったんやから!」

「……しょっぱくなくなった」

「そうやろ?」

「でも、甘くもないよ?」

「そりゃ運が悪かったな。きっと無糖のシーグラス拾ってもうたんや」

 ゆき姉ちゃんは可笑しそうに笑いながら、僕の頭をぺしぺしとはたく。

「可哀想やから特別に姉ちゃんのあげるわ」

 言いながらゆき姉ちゃんは握っていた手を広げ、赤のシーグラス――今思えばそれによく似たドロップ――を僕に差し出す。多分きっと、僕が必死に波打ち際でシーグラスを探している間に自分の父親からドロップを貰いに行って何食わぬ顔を戻り、僕が騙されるのを楽しみに待っていたのだろう。

「ありがとう! 甘い!」

 ドロップを口に含み、甘さに跳ね回る僕を、可笑しそうに見ていた、あの時のゆき姉ちゃんの事をやけに鮮明に覚えている。

 ゆき姉ちゃんと僕、正確にはママのいないゆき姉ちゃんのパパと、パパのいない僕のママは少し複雑な関係だった、と僕がぼんやり理解したのは中学に上がって少しした最近のこと。いつからかゆき姉ちゃんと会うことはなくなり、ゆき姉ちゃんの事を言うとママが辛そうな顔をするから、僕が家でゆき姉ちゃんの事を口にすることはなくなった。

 棚の奥からあの時持って帰っていた緑の大きなシーグラスを発見し、懐かしさに襲われたのが昨日のこと。どうせ夏休みで暇してるし、と電車を乗り継いであの時の海辺へと僕は足を運んでいた。

 ボーッと海岸に座り、海風に吹かれながら海を眺める。突然、後ろをはしゃぎながら通り過ぎる女子高生らしい集団の中に混じる、弾けるような関西弁を耳が拾った。

「ゆき姉ちゃん!」

 懐かしさに浸っていたせいで、反射的に声が出た。叫びながら振り向き、視界に入った年上の女子三人組にサッと血の気が引く。しかし、

「あんた、まさか」

 一人が妙に懐かしい顔立ちで、懐かしい関西弁で呟く様に言う。

「……これやるわ!」

 いたずらっぽい笑顔と共に投げられた何かを慌ててキャッチして視線を上げれば、三人組はもう僕に背を向けて去って行くところだった。

 手を開くと、そこには拾ったばかりのような小さなシーグラス。口に含むと、苦しい程の甘さがじわりと広がった。

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