第4話 夏の日の思い出

 暑い夏の日に、セミの鳴き声と風に揺られて鳴る風鈴の音を耳にすると、あの時の事を思い出す。私が唯一体験した不思議な体験。誰にも言っていない私だけの夏の出来事を。 




 私が夏休みに入って4日目の朝、お父さんの実家である田舎に来た。おじいちゃんとおばあちゃんの家は古い木造建築の家で、ドアや窓の代わりに障子があった。夏の暑さを凌ぐ為にエアコンを使うのではなく、大きめの器に氷で冷えた水を入れ、そこに足を突っ込む。インターネットを通じて知人と会うのではなく、実際に家へ訪ねてくる。


 ここはどこまで歩いても続く建物や、ひっきりなしに車が通っていく道や、インターネットによって繋がる都会とは違う。静かで、自然で、人との繋がりが確かに感じられる。心を病んだ人が傷心旅行で田舎に行くという話も、今となっては信じられる話だ。便利になりすぎた今、不便が必要なんだ。


 そして今、私は細い田んぼ道を歩いている。理由も目的も無く、ただ歩いているだけだ。でも歩く度に、私の心は不思議と透き通っていく。このままずっと歩き続けていけば、風や木や地面といった自然に溶けていくような気さえした。


 しばらく歩き進んでいくと、古い鳥居が立つ山の前に辿り着いた。鳥居を潜った先には石の階段が上へと続いており、どこか神秘的なものを感じる。後ろへ振り返り、まだ陽が昇っている事を確認してから、私は鳥居を潜って階段を上り始めた。


 階段を上っていく道中、周囲からセミの鳴き声が聞こえ、今が夏の季節だと思い知らされる。服の襟を引っ張り、蒸した体の熱を外に放出するが、同時に熱い空気が襟から入り込んでしまう。夏の暑さで流れる汗を拭いながら、家の冷蔵庫に入っていた氷アイスを思い出した。


 夏の暑さに悩みながらも、私は階段を上り切った。そこで見たのは、不自然に開けた場所であった。まるで家があった場所が何処かへ消えてしまったかのように、眼前に広がる開けた場所は不自然だ。でも、不自然なだけで何も無い。別に何か凄い物を期待してた訳ではないが、少しガッカリとした。


 家に帰ろうと私が階段の方へ振り返った矢先、後ろから風鈴の音が鳴り響いた。振り向くと、さっきまで何も無かったはずの開けた場所に、古い家が建っていた。おじいちゃんとおばあちゃんが住んでいる家よりも古く、でも妙に整えられていて、今でも誰かが住んでいる雰囲気がある。その家を眺めていると、縁側に風鈴が吊り下げられているのを目にした。


 何故か私は、その風鈴に惹き付けられた。気付けば、私は縁側の前に立っており、さっきよりも近い場所で風鈴を眺めていた。風鈴には銀色の花の模様が描かれている。


 そして、風鈴から視線を左に移すと、縁側に着物を着た女性が座っているのを目にした。暑い夏だというのに汗一つ流さず、背筋は少しも曲がっておらず、ただジッと私を見ている。雪のように白い肌と白い髪。描かれたような美しさと、気品漂う雰囲気。常人とは思えない銀色の瞳でありながら、僅かに微笑む口元を見れば恐ろしさは消えた。


 女性はもちろん、私も口を開く事は無かった。何も言わず、まるで当たり前かのように、私は女性の隣に座る。そして女性も当たり前のように私が隣に座る事を受け入れてくれた。すぐ傍から感じる心地よい冷えた空気に身を委ねられ、女性から香る匂いに私の頭の中は一杯になっていく。


 きっと、この女性は妖怪か神様の類だろう。でも怖さは感じられない。むしろ、この居心地の良さに心を奪われている。


 しばらくジッと座ったままでいると、女性が私の頭に手を回し、そのまま抱き寄せるように私の顔を胸元へ引き寄せてきた。着物の上からでも感じる女性の冷たい体温と、私の背中を撫でる肌の柔らかさ。体も意識も、女性の中へと溶けていくようだ。真夏のはずなのに、もう夏の暑さは感じられない。聞こえてくるセミの鳴き声で辛うじて今が夏だと実感できる。


 女性の目的は何なのか。私はどうなってしまうのか。そんなのは考えたくない。ただ今は、この心地良さに身を包まれながら時を過ごしたい。 




 その後、私はどうやってか家に帰っていた。あの山の中で起きた事をおじいちゃんとおばあちゃんに話そうとも思ったけど、結局今も話さないままだ。次の日も、あの女性に会いに行こうとしたが、田んぼ道の先に鳥居が立つ山は無かった。あの女性に再び会う事も無く、帰りの電車に乗って都会に戻った私の心には穴が出来た。その穴こそ、あれが紛れも無い現実の出来事だったと証拠づける。 


 暑い夏の日に、私はあの出来事を思い出す。セミの鳴き声と風鈴の音を耳にしながら、彼女に包まれた夏の日を。

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