第18話 変化

「こちらで大丈夫ですか」

「は、はい」


 ベッドの上に、そっと静かに降ろされて、背中が柔らかな感触に包まれた。

 場所は私の自宅、祖母から受け継いだ家屋を手放し移り住んだ、1LDKのアパートの一室だ。

 普段は私だけの空間に、工藤店長がいるのがとても不思議に思える。


「湿布剤はここに置いておきますね。あと少し、台所をお借りしてもいいですか?」

「え、はい。構いませんけど……」


 そう返事をした私ににっこり笑いかけてから、工藤店長は玄関前にある小さな台所に移動し、この部屋に入った時に置いておいた白いビニール袋へ手を掛けていた。

 そういえば、私の部屋に来る途中で買い物していたみたいだけど……。


 彼の足下に、窓から夕暮れの光が差している。フローリングを染める茜と影のコントラストが美しく、その風景が妙に視界に馴染んでいる気がして、私は内心慌てて頭を振っていた。なんだか同棲している恋人みたいだ、とか思ったのは勿論口が裂けても言えない。


 って、あ。


 がさがさと、彼が袋から取り出した物を見て目が点になった。

 確かにドラッグストアと並列して、スーパーもある場所に寄っていたけれど、まさかそのつもりだったとは。

 工藤店長の大きな手には、お惣菜コーナーでよく見る白いご飯だけのパックがあり、その上ネギと卵と、鶏肉が台所に並べられている。


 ま、まさか……料理するつもりなの? 彼が? 私の家の台所で?


 正直、あの惨状となる家に住んでいて、炊事ごとができるとは思えなかった。むしろ背中の打撲だけなのになぜ、そんな事までしてくれようとしているのか、意味がわからない。


「あ、あああの店長……っ?」

「何ですか?」


 声を掛けると、なんだか嬉しそうな顔で振り向かれる。しかも手だけはちゃんと動いていて、この人仕事が出来るだけじゃなくて実は器用なんだな、なんて事も思う。


「その……今ってもしかして、料理なさろうとしてますか?」

「はい。お粥なのですぐにできますから。広瀬さんはのんびりしていて下さい」


 いや、そうでは無く。

 熱が出ているわけでも無いのに、なぜお粥を作ろうとしているのか。


 だというのに、彼は私に返事をしてから再び手を動かしていた。調理器具をかりていいかと聞かれOKすると、慣れた仕草で下準備をしていく。それを見て、私の頭に疑問符が浮かんだ。

 もしかして……単に原稿でいっぱいになっているだけで、彼は本当は身の回りのことも、全部自分で出来るんじゃ無いだろうか。


 鼻歌でも歌い始めそうな、上機嫌な彼を見てそう思う。

 よくよく考えてみると、工藤店長は二足の草鞋生活を送っているのだ。昼は書店オーナー兼店長として、夜は作家として過ごしているのを思えば、家事まで手が回らなくとも、当たり前ではないだろうか。

 ただでさえ、折笠慧という作家は最近特に話題にもなっているし。

 ……なのにいつも、この人は笑顔で、そんなこと全く感じさせない顔でお店に出ていた。

 今になって、私はやっとその事に思い当たった。むしろどうして気付かなかったのかと思う位だ。


「あの」

「何でしょう?」

「大変では、ないですか」

「……え?」


 ふと思った事が、口から滑り出ていたのに気付かなかった。


 ぱっと振り向いた彼の茶色い瞳と目が合ってはっとする。言うつもりは無かったのに、なぜ言葉にしてしまったのか。

 後悔しても、もう遅い。


「いえ、あの。その……二足の草鞋と、倉澤さんが仰っていたので……大変、なんじゃないかと……」

「っ……そうですね」


苦し紛れで続けた私に、工藤店長は一瞬不思議そうな顔をして、それからなぜかふにゃりと緩んだように、嬉しそうに破顔した。踏み込んだ質問を、嫌がられるかと思ったのに、予想外の反応をされて目を開く。

ついでに、向けられる柔らかい視線に胸がきゅんと反応した気がした。


「……少しだけ、僕の話を聞いていただけますか?」

「は、はい」


 言って、工藤店長がいつの間にかコトコト音を立てていた小鍋の火を消した。それから私の方に静かに歩いてくると、絨毯の上に膝をつく。彼の茶色い双眸が、ベッドの上で半身を起こしている私と同じ高さになった。


「二年前に、祖父が亡くなったのと僕の作家デビューが重なったことはお話したと思いますが……あのお店を手放せなかったのは、祖父の遺言や従業員の方達の事もありますが、もう一つ理由があるんです」

「もう一つ……?」

「はい。ここからは、その、僕の身の上話になってしまいますが……」


 そこまで言って、彼は一瞬だけ形の良い眉を下げた。どこか諦観を含んだ表情に、視線が惹き付けられる。


「嫌な言い方になりますが、工藤の家は僕以外は皆、社会的地位の高い職種についているものが多いんです。職業に貴賎はありませんが、僕の『実家』ではそういう考えでして。そんな中、一人だけ別の道に進もうとしていた僕を支えてくれたのが……祖父でした。ちょうど高校生くらいからでしょうか。実家に居るのが嫌で、よく祖父の家や、お店に来ていたのは。だから余計に……僕にとっては、あの店は失いたくない、無くてはならない居場所なんです」

「居場所……」

「はい。それに……大切な人と出会うことが出来たのも、あのお店だったので」


 大切な、人。

 その言葉を口にするとき、彼の口調がなんとも言えない柔らかさを帯びた。初めて耳にする声音に、胸の鼓動がどきりと跳ねる。直感で、それが女性であるとわかる。

 もしかすると、工藤店長には想い人がいるのかもしれない。

 ……いや、きっとそうなのだろう。だからこそ、あんなにも切ない話を書くことができるのだ。胸に恋い焦がれる 相手がいるからこそ、それを文字として綴ることが出来るのだと。

 なんだか、私の頭の中で何かのパズルが綺麗に合わさった気がした。


「そう、だったんですか……」

「ええ。ですから、どれだけ大変でも、辛くとも、続けていきたいんです。あの場所で毎日過ごせる事が、僕にとってはとても大切なんです」


 ふわりと、まるで花が綻ぶみたいに彼が笑う。男の人なのに、綺麗だなとぼんやり思いながら、この表情が自分では無い誰かに向けられていることに気付いて、どうしてかつきりと胸が痛んだ。


「っ……」

「痛みますか? すみません長々と話してしまって。今、食事の用意をします」

「大丈夫です。ありがとう、ございます……」


 心配げな表情で私を覗き込んだ後、いそいそと台所に向かう彼の背中に、不思議な感覚を覚えた。

 離れてしまうのが、なぜか寂しい気がして、何を考えているんだろうかと、内心自分を叱咤する。


 ……やっぱり、私は工藤店長の事が、苦手なままなのかもしれない。


 だってこの間からずっと、この人の事で心が揺さぶられている気がする。

 ずっと平穏だった日々が、少しずつ変わっていくような。

 そんな小さな怖さが、ある気がして。


「お待たせしました。広瀬さんのように上手ではないので、心苦しいですが」

「い、いえ……」


 もどかしい気持ちに、ぎゅっと手を握りしめていると、照れ笑いを浮かべた彼がお盆を手に戻ってきた。

 小さな一人用テーブルの上に置いてから、小皿にお粥を少し取り分けてくれる。

 その横顔を見ながら、私は自分の中に湧き始めたこの気持ちがなんなのかを考えていた。


 嫌では無い。そんな風には思えない。

 苦手……だと思いたいけれど、それも少し違うような気もする。


 答えの出ない疑問は、彼が「あーん」をさせようとしたことで掻き消えてしまったけれど、しっかりと私の胸の内に、変化の痕を残していた。


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