無能の娘に生じた変化
第1話 異変はある朝、突然に……
明莉の誕生日パーティーから戻ると、澄香はどこかにしまい込んだままのスケッチブック――やはり絵が趣味であった明莉の“お下がり”である――を必死に探した。
無事これを見つけ出すと、少女は自分を救ってくれた“麗しの君”を忘れたくないとばかりに、一心不乱に青年の姿を描き始めた。
(美しい黒髪は、耳から肩にかけて流れるようなラインを描いていたわ。そして
青年の姿を思い起こしながら絵にしていくのは、澄香にとって、とても幸せな時間だった。
(もう一度お会いできたなら、ぜったいにお名前をお尋ねしよう)
再会の日を夢見ながら、澄香は夢心地で鉛筆を走らせるのだった――。
「ちょっと、いつまで寝てんのよッ! さっさと
翌朝、明莉の金切り声で澄香はハッと目を覚ました。昨夜、どうやら青年の絵を描きながら眠ってしまったようだった。
「も、申し訳ございません! ただ今すぐに!」
大急ぎで台所に向かうと、使用人のタキが冷たい視線を投げかけてきた。
(――ったく、無能のくせに朝寝坊するだなんて! おかげで私の仕事が増えちゃったじゃないの!)
タキの心の声が、波のように澄香に押し寄せてきた。
「……え……」
その場に凍りつく澄香。
「――いえ、昨晩のパーティーでお疲れでしたよね」
タキは口角を上げて微笑むように答えるも、その目はまったく笑っていない。
(無能の役立たずが明莉お嬢様のパーティーに参列したって、橘花家の恥をさらすだけなのに! だったら床の雑巾がけでもしておいてもらいたかったわ!)
「あ……」
タキから発せられる悪意の波が次々と押し寄せてきて、澄香はめまいを起こし、その場にしゃがみ込んでしまった。
タキはすぐに駆け寄り、大丈夫かい? と顔を覗きこんできた。その声には優しさがこもっているように感じられた。
「すみません、ちょっと立ち
澄香はそう言って、タキに微笑みかけた。しかし、その瞬間――。
(おいおいおい、余計な仕事を増やさないでおくれよ~! これだから、無能は……)
再びタキから悪意に満ちた感情が流れてきた。
(これは……一体どういうこと……?)
澄香は恐ろしくなり、タキを手の平で押し返すと
頭から布団をかぶりガタガタ震えていると、ドンドンと乱暴に床を踏みつける足音が近付いてきた。
「ちょっと! 朝餉の支度をしないばかりか、女学校まで欠席するつもりかい! そんなズル休みをするくらいなら、学校なんて
ヒステリックに叫ぶ継母――
(……このまま家にいるよりは、外の空気を吸った方がマシね)
澄香は観念してゆっくりと起き上がると、髪をひとつに束ね、色褪せた着物に袖を通した。
澄香は、皇都では指折りの
ところが、澄香は霊力をもたずに生まれてきた。実母はたいそう責任を感じ、しまいには心を病んでしまい、澄香が2歳を迎える少し前に自ら命を絶ってしまったのだった。
父は妻を亡くした悲しみに暮れるどころか即座に明美を
霊力をもたずに生まれた澄香は、今日まで父からも、継母の明美からも、そして異母妹の明莉からも『無能』と蔑まれ、虐げられてきた。
明莉の誕生日には毎年、豪奢な洋館を貸し切って盛大なパーティーが開催されるが、澄香の誕生日にはパーティーはおろか、「おめでとう」の一言が贈られたこともない。
それどころか、事あるごとに『なぜこんな無能が我が橘花家に生まれてきたのか! ええい、忌々しい!』と両親から折檻されることも少なくなかった。
明莉も明莉で、6歳になると『無能と一緒に食事をすると、無能が伝染する!』と騒ぎ出し、澄香は8歳の頃から自室でひっそりと食事をするしかなくなった。
そして澄香が10歳になると『明日からは毎日、おタキと一緒に家族の朝餉と夕餉をこしらえてちょうだい!』と明美から命じられた。
「おタキもいい歳だからねぇ。まったくあんたって子は気が利かないね! 無能なんだから、せめて食事の準備くらい手伝うと自分から言いだしたっていいようなものなのに! まぁ、無能だから、仕方ないか」
明美はそう言うと、毒々しい色で塗られた指先を満足そうに眺め、夜の街へと出かけていった。
「何の役にも立たない無能なんだから、せいぜい学校の勉強くらいまともにやって、生きていて恥ずかしくない程度の人間にはなりなさいよね」
初登校の朝、玄関で
明莉も澄香と同じ女学校に通っているが、その通学手段や装いには大きな格差がある。
明莉はその日の天候や気分に合わせて、人力車か自転車を選ぶことができる。
老舗呉服店の娘らしく、明莉は薔薇やチューリップ、スイートピーなどの西洋の花が描かれた最先端の着物をたくさん所有している。こういった高価な着物で華やかに装いたい日には、明莉は人力車を選択する。
そして、女学生たちのあいだで大流行中のコーディネイト――
一方の澄香にあてがわれているものはといえば、店に展示しているうちに色褪せたり汚れがついてしまった着物や、時代遅れになったデザインの着物ばかりである。
両親からは人力車どころか自転車すら用意してもらえず、雨の日も強風の日も澄香は片道30分以上かけて歩いて通学している。
「着物を着て自転車になんか乗ったら、それこそ裾がめくれてしまってみっともない姿になるわ。だから徒歩でいいの」
今も澄香は、そう自分に言い聞かせるようにして歩みを進めている。
ただ、今朝の台所での出来事にショックを受けたためか、頭に鈍い痛みを感じていた。
少しだけ立ち止まり息を整えていると――。
「ちょっと、邪魔よ! どいてくださる?」
後方から高飛車な声が聞こえてきた。
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