第3話 希望への第一歩
僕ははやとに対し、得意げにそう言葉を返した。そして昨晩あったとある出来事を、自分でもわかるほど高いテンションではやとに話し始める。
――昨晩のこと――
「おつかれでーす。…先輩は今日も居残りですか?」
「まぁね」
「恋人さんのためなんですっけ?だとしてもよくそこまでできるなぁ…」
「好きでやってるから、なんてことはないさ」
「熱々ですねぇ~。おつかれで~す」
「おつかれー」
今僕と会話をしていたのは、僕の部下である遠山仁だ。ついこの間入ってきたばかりの新人だけれど、なかなか明るい好青年気質だから職場ではそれなりに人気者だ。時刻はたった今、18時を過ぎたところ。この会社はかなり実力主義で、仕事が早い人間なら16時には上がったりすることもできるけれど、なかなかそうではない人間は19時や20時まで残ったりする。
そして僕は、15時までにノルマを終わらせてそこから自分の研究に時間を充てるというのが日課だった。居残りをする時間は日にもよるけれど、それでも19時には退社する。
…なぜもっと残って研究に充てないのか、と聞かれたなら、僕はこう答えたい。家に帰ったら最愛のさやかに会えるというのに、そのもっともかけがえのない時間を短くして何の意味があるのか、とね。
「…さて、昨日の続きから始めようか…」
使って良いと言われた実験室は小さなものだけれど、僕にとっては余計なノイズを耳にすることなく研究をやれるのだからむしろ勝手が良かった。
部屋の明かりをつけ、測定機器の電源を入れ、試薬や実験用器具の準備を始めていく。机の上にはフラスコやビーカーが散乱しており、なかなか散らかっている。…こいつらもちゃんと整理しないとなとは思いつつも、結局そのままだ。
「えーっと…。実験ノート実験ノート…」
実験を行う上で絶対に記録しなければならないのが、実験ノートだ。実験を行った日付、実験を開始した時刻、どんな手順を行ったか、なんの薬品や細胞を使ったか、それらはどのメーカーのなんというロットであったかまで事細かに記録しておく必要がある。反対に言えば、これがきちんと書かれていなければどんな実験結果も意味を持つことはなく、またほかの研究者からの支持を得られることもない。ゆえに実験ノートは、研究者にとって必要不可欠なものなのだ。
「昨日の続きはっと…」
机の上に散乱しているフラスコやビーカーを手で簡単に払いのけ、生み出された空間に実験ノートを広げる。昨日から続く反応試験があるため、該当ページを開いて実験の続きをしようと考えた。
「さて、昨日仕込んでおいた反応の結果を見てみるか……」
記録用のノートの準備も整ったところで、昨日仕込んでおいた反応物たちをチェックしていく。いくつもの実験器具とにらめっこしていっては、なにか変化が起きていないかどうかをチェックする。
「これも無色、これも無色、これも無色………。うーん、なにも変化ないなぁ…」
通常、化学反応や生物反応の結果なんて、人間の目でとらえられるほどわかりやすいものではない。小さな変化を観測できる専門の検出器や測定器を用いて反応結果を評価するのが普通だ。
そこで僕は、目で見て簡単にわかるある仕掛けを組み込んだ。僕が狙った反応が起こった場合、蛍光色素が生成されて鮮やかな青色を放つよう化学反応を設計したのだ。つまり、フラスコ内が反応後無色なままなら目的の物は生成されておらず、一方でフラスコ内が青色に輝いていたのなら、そこには僕が求める物質が生成されているということになる。これならいちいち測定器の力を借りる手間もなく、スムーズに実験結果を評価することができる。
ちなみに発生する色素の色を青色に設計したのは、さやかが好きな色だからだ!
「無色、無色、これも無色…。今日もだめか…………っ!?」
その時だった。たった一つだけ、他とは明らかに違う色を放つフラスコが存在していた。その色は言葉であえて形容するならば、夜明けを示す瑠璃色のような色調であり、それはそれは美しく光り輝いていた。
「こ、これは……!!」
一瞬のうちに僕は確信した。…さやかに音をプレゼントすると誓ったあの日から、長きに渡って追い求め続けてきた物質が、目の前に現れたことを…!
「よ、よし……!このまま次は人工細胞と反応させて見て、そこでも有効な効果があればさらに次の段階へ………そして将来は製剤化だって夢じゃない…!!」
生み出された物質の開発コードはR926。実験を始めた時に最初に生成された物質の開発コードがA1であったから、こいつに出会うまでいったいどれほどの時間をかけてきたかが身に染みる…。
自分以外誰もいない研究室の中で、僕は確かな達成感を感じながら、小さく一言つぶやいた。
「…明日は、軽く祝杯を上げたいな…♪」
――――
「なんだよなんだよ、そんなことになってるなら先に言えよ!お前はいつももったいぶりすぎなんだよ!」
僕の話を聞いたはやとは、僕以上にテンションを上げて喜んでいるように感じられた。僕はそれがまた一段とうれしくて、照れからくる気持ちをごまかすかのように再びビールを体に流し込む。
「それで、さやかちゃんの耳が治るのはいつだ!?目的の物ができたんなら、もうすぐのことなんだろ!?」
酒のおかげもあってか、なかなか興奮を隠せない様子のはやと。そこまで僕たちの事を思ってくれていることは本当にうれしいのだけれど、だからこそ僕は冷静にはやとに言葉を返した。
「いやいや、まだまだ最初の一歩を踏み出しただけなんだよ。これから人工細胞を使って、彼女の耳の状態を仮想的に研究室の中で再現して、本当に機能不全になった細胞を蘇らせるだけの活性をもつ物質なのかどうかを慎重に見極めなていかないといけない。なにか予期せぬ事象が起こるかもしれないし、副作用の評価だってあるからね」
「道のりはなげぇなぁ…」
「確かに長い。けど、絶対に走破してみせるさ。どんな険しい道のりだったとしてもね」
「熱々~♪」
「う、うるさいっ!!」
互いに冷やかし冷やかされながら、結局僕たち二人は夜が明けるまで飲み明かしたのだった。
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