失われた君の音を取り戻す、その日まで

大舟

第1話 音のない世界

「さっきね、すっごくかわいい猫ちゃんを見つけたの!体が小さくて丸っこくて!」

「なるほど、それで今日は一段と顔色が明るいんだね。じゃあその猫ちゃんには感謝しないとな~」

「まぁ、それってどういう意味??」

「いやいや別に。そのままの意味だよ?」


 窓から差し込む心地よい日差しに包まれながら、僕とさやかは恋人らしいごく普通の会話を行う。年齢は現在僕が23歳で、彼女は20歳。付き合い始めたのは中学生の時だったから、もう10年ほど前になるだろうか?


「ねぇねぇ、今度の休みは一緒に動物園に行かない??ペンギンとのふれあいイベントがあるらしいの!」

「まーた動物園?前も行ったじゃない。別の所の方がよくない?」

「ええーー行こうよ行こうよ!一緒に行きたいの!」

「うんうんわかったわかった、行こう行こう(笑)」


 こんな会話はきっと第三者の人から見れば、何の面白みも特徴もない日常的な会話。”普通”という言葉がこれ以上ないくらい似合うことだろう。だけれど、この会話にはたったひとつだけ普通の人とは全く違うことがある。


 僕も彼女も、ひとつも声を発していないという事だ。


――――


 僕、高野つかさの彼女である朝霧さやかは、生まれた時から音の存在しない世界を生きていた。外見上では、彼女の両耳は確かに存在しているけれど、それはあくまで形だけ。その耳が音をとらえるという耳本来の役割を果たすことはなく、ゆえに彼女は生まれて一度も”音”というものを聞いたことがないのだ。

 そんな彼女と僕が会話をする方法は、筆記による会話か、手話かの二つだ。普段は基本的には手話を使って会話を行っていて、先ほどの会話も手話でのやりとりだ。そこに”音”を介したやり取りは一切ない。けれど、僕は十分なくらい満ち足りた心地よさを彼女との時間の中で感じていた。そしてそれは彼女も同じようで、耳が聞こえないことなど感じさせないほど、明るく活き活きとした可愛らしい表情を毎日見せてくれた。

 周りは彼女の事、ひいては僕たちの事をどう思うかは分からないけれど、少なくとも僕たちは有り余るほど幸せな気持ちを感じ、穏やかな毎日を送っていた。


 そして、彼女自身は自分の生まれを不幸だと思ったことは一度もないらしい。それはおそらく、彼女の場合は生まれた時からすでに何も聞こえなかったからだと思う。     

 彼女の中ではずっとずっと何も聞こえない状態が当たり前だったから、そこになにか特別なやるせなさを感じたり、悔しさを感じることはなかったのだと思う。

 確かに、これまで彼女がそのことを気にしていたリ、落ち込んでいるような姿を見たことは一度もなかった。だからそれが彼女の本心からの言葉なのだろうと、僕はずっとそう思っていた。



…彼女の家に遊びに行った、あの日までは。




――今から5年ほど前の事――


「いつもさやかの相手してくれてありがとうね、つかさ君」

「いえいえ、僕は好きにやってるだけですから!」

「あらまぁ、熱々ねぇ~♪」


 この日、僕はさやかの家に遊びに来ていた。僕と彼女が付き合っていることは彼女の両親はすでに知っており、自分で言うのもなんだけれど、僕たちはほぼほぼご両親公認の仲だった。

 ちなみにこの場にはさやかはおらず、僕と彼女のお母様の二人だけ。さやかの部屋は二階にあって、僕は今トイレに行こうとして彼女の部屋を出て一階に降りてきたら、彼女のお母様につかまったというわけだ。

 恋人の家に遊びに行って、廊下で相手の親と鉢合わせるなんて、普通なら気まずい状況なのかもしれないけれど、僕は全くそうではなかった。彼女の両親は二人とも心から優しい人物で、さやかの事はもちろん、僕の事も本当の家族のように接してくれていた。僕はそれが本当にうれしく、ますます彼女の家族の事が好きになっていた。

 …そんなときの事だった。普段は明るく楽し気なお母様が、突然シリアスな表情を浮かべ、低い口調で言葉を発したのは…。


「…ねぇつかさ君。これから話す話は、私から聞いたってことは秘密にしてほしいんだけど…」


 お母様が僕にそんな様子を見せることは、今まで一度もなかった。…いったい何を言われるのか分からず、一瞬心が硬直してしまったものの、すぐに覚悟を決めて首を縦に振ってこたえた。


「…実は昨日ね、部屋でさやかがテレビを見ていたの。もちろんさやかは音が聞こえないから、いつものように字幕を表示してドラマを見ていたみたいなんだけど、どこかその様子が悲しそうでね…」

「ド、ドラマですか?」

「えぇ。それも、特に感動するシーンとかじゃないのよ?なんでもない恋人どうしが、なんでもない会話をするシーンなの。スキップして見たって構わないくらいのシーンだと思うけれど、それを見てたさやか、なんだか寂しそうな、せつなそうな表情を浮かべていて……。なにか、それがずっと気にかかってね…」

「さ、さやかが…」


 正直、信じられなかった。さやかは明るく天真爛漫な性格で、寂しさとは無縁な性格にさえ感じていた。なにをしても、どこにいてもずっと明るい彼女が見せたその様子には、なにか理由があったのだろうか…?


「もちろん、ただの余計な心配かもしれないけれど、でもなにか引っかかって……。さやかの恋人であるあなたには、知っておいてもらったほうがいいんじゃないかと思ったの」

「わ、わかりました…」


 …その時は正直、大げさじゃないだろうかと思った。いくら性格の明るい人だって、24時間ずっと明るいわけじゃない。少しくらい暗くなる時だってあることだろう。もちろんさやかだって例外じゃないと思った。

 …けれど、お母様が本能的に違和感を感じたさやかのその様子は、もしかしたら気のせいなんかじゃなく、なにか理由があっての事なのではないかとも思った。僕は過去にさやかと話した時のある記憶を思い出す。


 僕は前に一度だけ、「もしも耳が聞こえるようになったら、最初に何を聞きたい?」とさやかに質問したことがある。別に深い意味があって聞いたわけじゃなく、会話の中で自然と浮かび上がってきた、何気ない疑問でしかなかった。

 彼女は少しだけ考えるしぐさを見せると、いつもの笑顔ではあるのだけれどどこか切なそうな、寂しそうな表情でこう答えた。


『あなたの声が聞きたいな』


…お母様の言ったさやかの表情は、あの時彼女が僕に一瞬だけ見せたものと同じなんじゃないだろうか?

…もしかしたら彼女は、ずっとずっとその本心を隠してきたんじゃないだろうか?


――――


「…つかさ??なにぼーーっとしてるの??」

「…あぁ、ごめんごめん、ちょっと昔を思い出しててさ」

「なになに?やっぱりペンギンアレルギーなの?だから行きたくないの??」

「ち、違うってば!!」


 にこにこと笑う彼女の表情を見ながら、僕は改めて心の中で過去の決意を再確認した。

 彼女の本心に気づいたあの瞬間、僕は自分のやるべきことを確信したんだ。僕がこの世界で最も愛する存在であるさやかに、音のあふれる世界をプレゼントしようと。

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