すなおメンタルクリニック

 朝、着替え、カーテンを開け、顔を洗い、朝食を摂り、化粧をし、髪を整え、それから弁当を作る。

 きょうはメンタルクリニックへ行く日だ。メンタルクリニックは街中にあって、いつも混雑しているから平気で予約時間を何時間も過ぎる。受付に言えば外出もできるけれど、外食するほどの気力があれば何時間も待たされるメンタルクリニックになんて通うわけがない。

 きょうは、昨日焼いた食パンをサンドイッチにする。バターを塗って、その上からマヨネーズを薄く塗って、フリルレタス、ハム、マヨネーズとマスタードと和えた玉子。順番に重ねて、また最後にフリルレタスと食パン。裏返した平皿をしばらくパンの上に置いて重しにして、その間に飲料の支度をする。

 大ぶりの水筒に氷をじゃらじゃらと入れ、前日に水出ししておいたブラックコーヒーを注ぎ入れる。ガムシロップを上から二個入れて、きつく蓋を閉めて軽く振る。どうせバスや徒歩など、道中に中身は混ざって均一に甘くなるのでそれほど真剣にはやらない。

 平皿を外して、クッキングペーパーでサンドイッチを包む。外れないよう、折り紙のように独特の畳みかたをして、それからパン切り包丁で斜め半分にカットする。中身が出ないよう、勢いよくざくざくと切ると断面はまるで売り物のようにきれいに整っていた。一つずつラップに包んで、サンドイッチ専用の弁当箱に入れる。薄手のガーゼのハンカチに包んだ保冷剤を上に置いて、弁当包みで更に一つにまとめる。水筒と共に保冷機能のある小さめのトートバッグに入れ、チャックを閉めてリビングのテーブルの上に置く。

 鞄の中身を確認する。財布、ハンカチ、ティシュー、お薬手帳、診察券、マイナンバーカード、保険証。障害者手帳。いざというときの頓服。


 最後に、お守りにしているピアスを耳につけて、深呼吸をする。大丈夫。きっときょうも、無事に帰ってこられる。何も、怖いことは起きない。言い聞かせる。リュックを背負い、スマートフォンをポケットにしまって、靴を履き、家を出る。鍵を閉めたか三回確認して、それすらも自分の安心材料にする。きっと大丈夫。大丈夫。きょうも私は大丈夫だ。


 バスは全く混雑していない。午前十時半手前、街中へと向かうそれは、しかし田舎ゆえの静けさを保ち続けている。手の中には障害者手帳が隠されている。降りるときに、これを運転手に見せると料金は無料になる。

 教師をしていた、他人に物をあれこれ言う立場だった人間が、他人の税金を使いタダでバスに乗り、心の病院へと向かっている。それはただの事実でしかなくて、だけれど今の私の自尊心を傷つけるには充分すぎた。降りるときは、いつも最後になるように立ち上がる。運転手は仕方ないとして、他の人間に障害者手帳を見られたくない。金も払わずに降りる惨めさを、周囲に見られたくない。

 自意識過剰でしかない。わかっている。心を病んでしまった、働けなくなってしまった、だから社会に支えてもらっているだけのことだ。恥じることでもなんでもない。わかっている。わかっている、けれど、だからといってすんなりと飲み込めるほど大人にはなり切れなかった。だからこそ、私はこうして病院へ通い続けている。


 バスを降りたら、そこから七分ほど歩く。大きなファッションモールを通り過ぎ、巨大な本屋を横目に信号を渡り、薬局を二件過ぎたら、そこが私の通うメンタルクリニックだ。

 すなおメンタルクリニック。何度看板を見ても馬鹿みたいな名前だなと思う。馬鹿みたいな名前の病院に通うしかないのが今の私だ。ドアを通り抜け、受付を済ませる。きょうは二時間半待ちだという。

 待合室はほとんど埋まっていて、ぽつぽつと歯抜けに席が残っている程度だ。身を小さくして透き間に身体を置く。膝の上にはリュックサックと弁当箱の入ったトートバッグ。ああ、やることがないな。待合室にはテレビが天井から吊るしてあって、昔流行った子ども向けアニメーションが擦り切れるまで流され続けている。対象年齢の人間はこの部屋にいない。キンキンと耳障りなアニメ声が室内を満たし、あとは時々誰かのスマートフォンが小さく鳴る程度だ。

 皆、顔つきは違うけれど、どこか何かが足りないような目をしている。足りないものを埋めたくてここにきているんだろうか。あなたの足りないものはなんですか、と訊ねてみたら、彼らは何と答えるだろう。

 私は何と答えるだろうか。私も、何かが足りない目をしているのだろうか。膝の上の弁当の位置を直す。中で水筒がずれて倒れかけて、私はチャックを開けて元のように真っ直ぐに立てる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る