丁寧な暮らし―2

 朝、起きて肌掛けをよける。床に立ち上がり、肌掛けを丁寧に布団の上で伸ばす。無臭の除菌スプレーを取り出して、肌掛け全体にかける。それが終わったら枕、ベッドのマットレスにも同様にミストを振りかける。最後に肌掛けを半分に折りたたんで、ベッドの足元のほうに寄せて除菌スプレーを元の場所に戻す。

 パジャマとキャミソール、ナイトブラを脱いで、日常づかい用のブラジャーを装着する。もう一度キャミソールを着て、前日に準備していたアッシュ色のフレアワンピースに着替える。胸元から下着が覗いていないか全身鏡で確認して、寝癖のついた前髪を少しだけ触る。最後にすべてのカーテンを開けて、朝の眩しさに思わず顔を歪める。

 百パーセント綿の、鼻緒のついたスリッパを履いて、洗面所へ向かう。乳児でも使える肌に優しい洗顔料をしっかりと泡立てて顔を洗い、ついでにショートカットの髪の毛もざっと濡らしてやる。洗濯機を囲むように設置した棚の、籐のかごの中からフェイスタオルを一枚取り出して、顔と髪を犬のようにわしわしと拭く。少しだけ濡れてしまったワンピースの襟元を拭って、洗面所に置いてあるヘアピンで前髪を留め、環境に配慮したブランドで揃えたスキンケア用品を順番につけていく。導入美容液、化粧水は時間を置いて三回、美白美容液、クリーム、オイル。顔が終わったらもう一度髪の水滴をタオルで取って、アウトバスのミストとクリームで髪を保護し、ドライヤーをかける。温風と冷風を切り替えながら少しずつ形を作っていき、最後は弱い風を当て寝癖なんてなかったことにする。


 台所へ移動し、壁にかけてある真っ赤なエプロンを着る。冷蔵庫から食パンと、トマトケチャップと、薄切りのハムと、昨日の残りのスライス玉ねぎと、スライスチーズを取り出し、順番に重ねる。最後にマジックソルトを薄く振って、トースターに入れる。

 焼いている間に、牛乳をガラスのグラスに注ぐ。今度は野菜室を開けて、中からタッパーに入った半分だけのオレンジを取り出す。三等分にスマイルカットして、小さなガラスボウルに入れる。

 トースターがチンと音を立てて、中を見ると具合よくピザトーストが焼きあがっている。ターコイズブルーの平皿に載せて、最後に拵えた朝食を木製のトレイに並べていく。焼いたパン、オレンジ、牛乳。簡素で、でもきちんとして見える盛り付け。


 トレイのままリビングに運んで、椅子に座る。誰も見ちゃいないのに両手を合わせて、

「戴きます」

 と呟いて、ミルクを一口含む。それからトーストにふう、ふう、と息を吹きかけて、少し冷めたところを頬張る。テレビはない。代わりにスマートデバイスに音楽をかけてもらう。きょうは、気に入りの台湾のインストゥルメンタルバンドを流してもらった。ギターとピアノが、風が吹くみたいに交ざり合っている。美しい音楽の中、時間をかけて朝食を食べる。指先の、パンのカスを皿の上に下ろす。ミルクを飲む。時間に追われることはない。ただ、食べたいように食べる。


 再びトレイを持って台所へ向かい、そのまま食器をシンクに置く。一日使い捨ての食器スポンジを新しくおろして、皿とコップを洗う。冷たい水が心地よい。きょうは最高気温が二十八度にまでなるそうだ。午前中のまだ暑さの薄い時間に、買い物へ出てしまおう。そんなことを思いながら、トレイを固く絞ったさらしで拭く。


 リビングに戻り、綺麗に整えたオープンシェルフから小振りのメイクボックスと鏡を取り出す。下地とCCクリーム、フェイスパウダー、ハイライト、アイブロウペンシル、アイブロウマスカラ、アイシャドウは二重幅に薄付きのボルドーを一色、その上からラメをぽんと黒目の上あたりに。

 軽くビューラーを当ててからアイマスカラを上下に付け、二重幅を強調するように涙袋の下に薄く線を引く。最後にリップクリームを塗り、一度ティッシュで軽くオフしてから初夏の日差しによく似合うだろう橙寄りのピンクの口紅を塗って、化粧を終える。

 年不相応には薄いのかもしれないが、スーパーとドラッグストアに行くだけだ。明確な誰かに会うわけでもない、この程度がちょうどいい。


 洗面所で手を洗い、化粧品を洗い流す。それからヘアバームを取り出して、ショートカットにコンパクトさを出すように内側から薄く伸ばす。耳の辺りは念入りに、表面は撫でるだけ。毛先にだけ少し束感を出して、残ったほんの少しを前髪に。


 もう一度手を洗い、じっくりと鏡を見る。大丈夫かを確認する。きょうの、今の私は壊れているようには見えないか。大丈夫だろうか。きっと大丈夫な気がする。毎日、こうやって確認している。確認しないと、不安でたまらないのだ。壊れたものは直らないけれど、壊れた部分を隠すことはできる。今の私は、できるだけ隠して生きたい。

 無理やり口角を上げて笑ってみる。笑顔と言えばそうだし、口角と目尻に変化があるだけと言えばそうだった。それでもいい。今は、それが限界なのだから。

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