『トマス・ハーディ短編小説集』より 第7話 "Anna, Lady Baxby"

書籍版の文章は以下のリンクどれからも読めます。

https://www.darlynthomas.com/baxby.htm

https://archive.org/details/groupofnobledame00hard/page/207/mode/1up

https://www.gutenberg.org/cache/epub/3049/pg3049-images.html

雑誌版(検閲済)のテキストは見つかりませんでした。興味ある人だけ頑張って探してください。


 以下に掲載するレポートは、大学の課題で提出したものをほとんどそのまま流用しています。本文に入る前に予備知識をいくつか。19世紀のイギリスにおいては、黙読ではなく、家族団らんの場で音読するの方式が主流な本の楽しみ方でした。なので、当時の出版界においては、家長である父親が、子供や妻に向けて音読をするに相応しい内容であるかどうかが、作品を世に送り出せるかどうか決めていました。つまり検閲が厳しかったのです。そして、トマス・ハーディは出版社の検閲に抗った作家として有名なのです。どう抗っているのか、その読解の一端をここでお見せいたします。


 このレポートは、19世紀イギリスの小説家、Thomas Hardy の短編小説である Anna, Lady Baxby の雑誌版と書籍版を校合して、19世紀末のイギリスにおいて小説の検閲システムに何が引っかかったのかを分析する。


 雑誌版と書籍版に見られる最大の異同は、バクスビー夫人が “the shadow of the wall in the west terrace” にて耳にした声の主である。続く段落にて夫人は、雑誌版では議会派軍の作戦会議を盗み聞きしているのだが、書籍版では夫を尋ねて部屋のドアをノックする若い浮気相手の女の声を聞いている。しかし続く場面では、夫人が王党派の人間として城に残る決断を下している点が共通している。


 雑誌版でも書籍版でも、夫人が最終的に議会派である兄のウィルソンに付いていく選択を捨て、王党派であるバクスビー卿の側に残ることを決心している点が共通している。そして、異なっているのはその決断をする動機についての記述である。


 雑誌版の方では、バクスビー卿の浮気相手であるという設定の女工作員を送り込んで、いち早く夫人を城から連れ出し、その隙に城に攻勢をかけるという議会派軍の作戦を盗み聞いてしまった夫人が、議会派の不倫理性を非難し、揺らぎつつあった王党派としての心を一層固め、城に残ることを決めた、という流れになっている。


‘How the wench loves him!' she said to herself, reasoning from the tones of the voice, which were plaintive and sweet and tender as a bird's. She changed from the home-hating truant to the strategic wife in one moment.


 書籍版での夫人は、夫の浮気相手らしい女の声を聞いて「推測」 “reasoning” したことで、「夫や家庭を裏切ろうとしていた不届き者」 “the home-hating truant” から「戦略的な夫人」 “the strategic wife” に変身しているが、 “reasoning” によって夫人が得た結論が何なのかは明記されて居ない。しかし、工作員もしくは夫の浮気相手である女性の発言が、夫人の変身のトリガーになっていることは間違いない。


 I should have stuck to my lover in the Parliament troops if it had not been for thee, my dear lord!


 上の引用は [工作員または浮気相手である女性] のセリフであるが、この文の “I” や “my dear lord” をバクスビー夫人として、 “thee” をその女性のこととして読みかえると、その女性さえ存在しなければバクスビー夫人は議会派の元に行っていたのに、という雑誌版の状況と一致する。恐らくハーディは変更前の内容とのリンクを意識していて、夫人が推測によって辿り着いた結論の1つに、ドア向こうの浮気相手は議会派が送り込んだ工作員である、という可能性を含ませていると考えられる。


 バクスビー卿が浮気しておらず、夫人が議会派の陰謀に気付いた場合、書籍版は終盤の字面だけを変えた、雑誌版と全く同じ内容の物語であることになるが、書籍版では終盤の語りの中でバクスビー卿が実際に不倫をしていたことを明言しているので、この可能性は否定される。


 しかし、バクスビー卿が実際に浮気していた場合、夫人は勝手に浮気を嘘だと勘違いしたまま、実の兄を侮辱してまで不徳の夫の元に残る選択をしてしまったことになる。


 Her wicked husband, whom till this very moment she had ever deemed the soul of good faith--how could he!


、その瞬間まで夫人が良心そのものだと思い込んでいた夫に、どうしてそんなことができよう!」


 上の文のハイライト部分から、バクスビー夫人は夫が浮気をしている可能性に推測を巡らせていると読み取れる。しかし、この場面の後では議会派の軍勢に対して侮辱の言葉を浴びせ、夫の元に留まることを選んでいるので、意志決定の基本には、夫が不倫をしていないという前提があると考えられる。しかし、それではバクスビー夫人が自分のコルセットを用いて、夫の髪をベッドの柱に結びつけた行為の説明が付かない。


 かといって、夫人がバクスビー卿の浮気を確信しているとすれば、夫人が議会派の元へ去り行かず、城に残る決断をしたことを説明できない。しかし、夫の髪を縛り付けた時点での夫人は、既に「戦略的な夫人」に変身していたので、この行為にも何か戦略的な理由があると考えられる。


 まずバクスビー夫人は、夫が浮気をしていないという確証を得ていない。かといって浮気していると断言できる証拠も持っていない。夫に浮気をしているか問い質したところで、もし彼が本当に浮気をしていなかったとしたら、不当な容疑を向けられた夫は怒り、せっかく城に残ったにも関わらず、今後の夫婦関係にヒビが入ってしまう恐れがある。しかし、夫は善良な魂を持っているのだと自分に言い聞かせて黙り込んだとして、もし夫が本当に浮気をしていたとしたら、それは夫の不貞に気付かない非戦略的な夫人と同じ状況になってしまう。


 翌朝に目覚めたバクスビー卿は、自分の髪の毛をベッドの柱に縛り付けた犯人が自分の妻であることに気付く。しかし、もし彼が浮気をしていた場合には、妻が自分を柱に縛り付ける理由が思い当たるので、気まずくなって何も言えなくなる。仮に夫が浮気をしていなかった場合でも、この程度であれば無邪気な悪戯として言い逃れができてしまう。しかし夫人はバクスビー卿の浮気に対して、彼の髪の束を柱に結びつける以上のアクションを起こしていない。夫人は夫の浮気に感づきながらも戦略的に見逃しているのだ。そして夫人の行動は「戦略的な」無知の姿勢を取ることを夫に宣告する、無言のメッセージでもあると考えられる。


 雑誌版の小説は夫人の浮気未遂を描いているのに対し、書籍版はバクスビー卿の不倫が見逃される様子を描いている。雑誌に連載されている小説が、父親によって家族に読み聞かせされる物語であることを考えると、浮気・不倫という不徳を働く輩を懲らしめたり、改心させたりすることなく、不実の夫との安定した関係を維持するために「戦略的」に悪事を見逃している物語は、明らかに教育上よろしくない。これが雑誌版と書籍版の大きな違いを生み出している原因であると考えられる。

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