第2話 橘平、金髪と美形に出会う

  時間の感覚も体の感覚も、思考もない。体だけ、ただひたすら動く。


 橘平の視界を自らの白い息が覆うが、体は冷気を感じるだけの体温も残っていなかった。


 どれだけ走っただろう。5分か一時間か。100mか10キロか。


 時間も距離も感じない世界を、橘平は必死に駆け抜けた。


 視界から生い茂る木々が消え、一面の銀世界が現れた。二人は森の外に出られたのだ。


 橘平の意識はふわふわしているが、走った後の激しい鼓動で生きていることは実感できた。途中、枝などに当たったが、ダウンコートのおかげでケガもほとんどないようだった。桜をゆっくりと降ろした。


 ちゃんと家に帰ったほうがいい、とでも言おうとした瞬間、橘平の視界は雪よりも真っ白になった。


「八神さん!?」


 突如、橘平は前のめりにばこんと倒れ、雪にはまってしまった。


 桜はそれをよいしょ、うんしょとひっくり返し、体を思い切りゆすった。


「八神さん、八神さん!」


 目の前で倒れてしまった少年同様、桜も心身が疲れ切っている。この状況にどう対処すればよいか、考える余力も思考の隙間もなかった。泣きたくても涙を出す力もない。


 橘平の顔は真っ白で真っ青だ。おそらく疲れと寒さ、緊張と、いろいろなものが一気に噴き出してしまったのだろう。


 桜は焦り始めた。まだちらちらと降り続く雪の中、このままだと最悪、死んでしまうかもしれない。


「私のせいで、また誰か犠牲になるのは…イヤ…」


 失礼な態度をとってしまったけれど、橘平に手を取られた瞬間、桜は体の内側が温かくなった。母親に愛されているような安心感があった。


 橘平がいなければ、あのバケモノに食われていたことだろう。命の恩人であるこの少年をどうしても助けたかった。


 桜の大き目のメガネがずれてきた。かけ直す気力も湧かなかったが、ふと気が付いた。


「あ……」


 桜はメガネをはずし、橘平の瞼にそっと手を添えた。




◇◇◇◇◇




 橘平が目を覚ますと、桜の顔が間近にあった。鼻先が触れそうな距離で、じっと橘平の目を覗き込んでいる。


「わあああ!?」叫び声をあげると、桜は急いで体を起こし、メガネをかけた。


「大丈夫ですか八神さん!?」


 森を出たところまでは覚えている。しかし橘平にはそれ以降、白い記憶しかなかった。


「森を出てすぐ、お倒れになってしまわれて。私を担いで走ったので、だいぶお疲れになったのかと」


「あー…すんません」


 なぜ顔が近かったのか橘平にはよくわからなかったが、彼女を心配して付いてきたはずなのに情けない姿をさらしてしまい、恥ずかしくなった。


「立ち上がれそうでしょうか?すぐそこに、うちの小屋のようなものがありまして」


「え?じゃあここって北側?」


 八神家は村の南、一宮家は北地域にある。橘平はとりあえず森から出ようと必死に走ったが、まさか自宅の反対側にでるとは思わなかった。雪の中、家までどうやって帰ればいいだろうと考えながら、橘平は寝返りをうち、雪にざくっと手をついた。


 体を起こしてみると、橘平は倒れる前より体が楽な気がした。


「肩貸します」


 そう言って桜は橘平の左腕をとり、自分の肩に載せた。


「…ありがとう、一宮さんも疲れてるのに…」


「いえ、八神さんほどでは」


 肩を借り、橘平はのそりと立ち上がる。桜はとても小柄で、立ち上がってみれば、肩に手を乗せるだけになった。


「…私、何のお役にも立ちませんね…」


「い、いやいやそんなことないですよ!起きるまで見守ってくれてありがとうございます!」


 先ほどまで、強気だった女の子とは思えないほど、今の桜は弱弱しく見えた。もしかしたら、桜自身も森は怖く、橘平に対して強がっていただけなのかもしれない。


 さくっ、ざくっ、と歩き始めてみると、やはり橘平の体はだいぶマシな状態に戻っているようだった。


 ここまで楽だということは、いったい、自分はあの場で何時間倒れていたのだろうか。その疑問が橘平の頭をよぎった。


「あの、俺はどのくらい気を失ってました?」


「え…そうですね…ご、5分?…以内だったと思います」


「5分…ご、5分以内?何時間も眠って起きた感じ…」


「何時間も眠ってらしたら、すっかり朝でございますよ」


 桜は腕時計を橘平に見せた。


「夜中の3時……つまり、今までのことって家から出て3時間…?はあ、なんかもう百年分疲れた」


「愉快な方ですね、八神さん」と、桜がくすくす笑った。


 


「こんなに雪積もったことあったかな」「私の記憶にはありませんね」などと、二人はぽつりぽつりと話しながら歩いた。


 10分ほどで古い小屋のような建物に着いた。真っ暗で外観はよく見えないが、窓からほのかに明かりが見えた。


 桜が引き戸をがらりと開ける。


「桜です、戻りましたー」


 彼女が玄関をくぐった途端、誰かが勢いよく現れた。


 現れたのは金髪の女性とメガネの男性。どちらも背が高く、村ではちょっと目立つタイプの二人だ。


 女性の方は飛ぶように三和土に降り立ち、その勢いで桜をがばりと抱きしめた。桜は「くるしー」と訴えるが、聞き入れてもらえず、よりぎゅうぎゅうにされる。


「さっちゅんお帰り!やばーもう、生きててよかったー!!ってか誰その子ー?!」


 村中に響きそうな声で桜を迎えた明るい調子の女性が、桜を抱きしめたまま、その後ろに立つ橘平の顔をずいっとのぞく。


「あれ君、八神の?きっぺー君じゃない?」


 金髪ロング、ゆるパーマの女性。


 橘平は彼女に見覚えがあった。というよりも、金髪の村人なんて彼女一人。忘れられないともいえる。


「あ、はい…にのみ」


「二宮向日葵だよ~!ってか二人ともめっちゃやばそうじゃん、死ぬ?!早く入って!ほら、靴脱げ!」


 無理矢理に手をひっぱられ、二人そろって入って左の部屋に連れていかれた。


 その力の強さに橘平は恐怖を感じた。腕がすっぽりと引っ込抜かれそうだった。


 通された部屋には二人掛けのソファと一人用の椅子が二つ、それと木製のローテーブルが置いてあった。二人はソファの方に押し込まれた。随分と乱暴に座らされはしたが、やっと落ち着けたという安心感はあった。


 そのあとから、向日葵と一緒にいたメガネの男性が入って来た。こちらも村唯一、と言うより、都会でもあまりいない容姿だ。


 小学校の頃に女子がよく話題にしていた人物なので、橘平も顔はよく知っている。久し振りに彼を見た橘平だが、相変わらずの二枚目だと感じた。


「えー三宮の…」


「桜さん。何があって、どうしてそこの男子と一緒に帰ってきたんだ。無関係だろう」


 穏やかなのに冷たい無表情な彼の言葉には、刀で切りつけるような鋭さがあった。その刃を、向日葵がふわっと跳ねのける。


「ちょ、葵!どう見たって二人ともお疲れじゃん、休んでからでよくない!?」


「大丈夫。大切なことだから今話すわ」


 向日葵は眉をきゅっとハの字にし、「え、でも」と困っていた。しかし、桜の「今話すから」という強い決意をしぶしぶ、受け入れた。


「とりあえず、あったか~いお茶淹れてくるから、それまで休んでて!」どう言い、台所と思われる方へぱたぱたと消えた。


 部屋の中は電気ストーブのおかげでだいぶ暖かい。橘平と桜は寒さでマヒしていた体が徐々にだが解けてきた。


 ちらと、橘平は葵を盗み見た。


 刀よりも本が似合うような。争いとは無縁の雰囲気でありながら、真っ黒な瞳には強烈な攻撃性も感じる。


 怖い人なのだろうかと橘平が内心びくびくしていると、メガネの青年は橘平に使い捨てカイロを2つ、丁寧に手渡した。桜にはブランケットも併せて。「靴下とか手袋、濡れてるならストーブの近くで乾かせばいい」などと薦めてくれもした。


 意外にいい人なのだろうか。橘平の評価は定まらなかった。


 確か二宮と三宮はお伝え様と親戚のような関係だと、橘平は思い出した。彼らもその関係で、ここで桜を待っていたのだろう。桜は葵を「葵兄さん」、向日葵を「ひま姉さん」と呼んでいた。


 向日葵がお盆に湯呑を載せて戻って来た。「お代わり何百回でも言って!」と下手なウィンクをしながら、二人の前に湯呑を置く。橘平は早速、口にする。飲みやすい温度だった。


 桜はほうじ茶を一口すすると、先ほどの出来事を二人に聞かせた。


 その口調は、先ほどは打って変わって、同級生たちとそう変わりはなかった。


「……ということがあって」


「そうか。わかった、じゃあ今日はこれで解散だ」


「え?葵兄さん、早速次の対策を立てるのでは」


「桜さん、かなり疲れてるだろう。顔を見ればわかる。良い考えなんて浮かぶわけない。それに橘平君は俺らと関係ないのに巻き込んでしまったんだ。早く家に帰してあげないと」


 葵は軽く頭を下げ「本当に申し訳ない」と謝罪するとともに、「今日のこと、そして桜さんと会ったことは忘れてほしい」と頼み込む。


 忘れてほしい。


 橘平はその一言に引っかかる。衝撃的な出来事を忘れることができるだろうか。いや、できない。


「じゃ、私の車で送るよ。さて、帰ろか橘平君」


 向日葵は橘平を送ろうと椅子から立ったが、彼に立つ様子はない。葵の方をじーっと見続けている。


「ありゃ、動けないかな?じゃあおんぶして」


「…忘れられないです」


「え?まあさ、疲れてるだろうから、今日ははとりあえず帰ろうねえ」


 まるで向日葵はぐずる幼児を扱っているようだ。


 ここまで橘平はハッキリ感じて、見て、記憶しているというのに。立とうとしない少年は、無かったことにしようとしている目の前の人たちに、怒りのようなものを感じていた。


「とりあえず?」


 橘平は立ち上がり、3人に向けて一気にまくし立てる。


「忘れろってことは、後で何か聞いても教えてくれないってことですよね?確かに俺は部外者だけど、あんなバケモノ見たら、知らない女の子に会ったら、気になるじゃないですか。みんなは何をしようとしてるんですか?あの森に満開の桜?鬼?妖怪?忘れられるわけない!」


 大人しい少年だと思っていた橘平の激しい態度に、3人は沈黙した。


 彼らの計画に部外者が入ってくることは、全く予想していなかったことだ。


 この少年にどう対処するのが正解なのか。葵は厳しいまなざしで深く考えていた。反対に、向日葵は橘平の瞳に不思議なものを感じていた。


 やや長い沈黙ののち、葵が口を開く。


「ごめん、橘平君、無理かもしれないが」


「葵」


 向日葵が鋭く彼の名を発する。先ほどの陽気さからは一変して、冷静なまなざしで語る。


「私たちにとってすっごく大事な桜を助けてくれたんだよ、橘平くんは。普通なら一人で逃げちゃうような状況なのに」


 彼女は葵に近づき、椅子に座る彼を見下ろす。


「いきなり見たこともないバケモンに出会ってさ、その辺の中高生男子が女の子助けられる?」


 葵はじっと彼女の語る瞳をみつめる。


「無理だよね。すっごい勇気ある子だよ!そしたらさ、適当にあしらうわけにもいかなくない?一応、私らオトナなんだからさ」 


 とにかく無関係の人間を排除することしか考えていなかった葵は、「桜を助けてくれた」という事実を突きつけられ、次の言葉が浮かばなかった。


「お話しましょうよ、葵兄さん」桜がぎゅっと握った葵の拳の上に、自身の柔らかな手を重ねた。「ここまで巻き込んでしまって忘れろというのも、本当に無理な話よ。私が八神さんの立場でも同じことを思うもの」


 桜は橘平に向き直り、頭を下げた。


「本日は大変失礼いたしました」


「え」


「助けていただいたにも関わらず、一貫して不躾な態度を取ってしまいました。お許しいただけないとは思いますが、心からお詫び申し上げとうございます」


「ちょっとちょっと、気にしてないから、もっとこう、楽にしてよ一宮さん。俺なんかにそんな、丁寧にしなくても」


「いえ、初対面の方にそういう訳には」


 すると、向日葵があははと明るい声で笑い出した。


「もう初対面じゃなくね?少年漫画ならさ、共に死線潜り抜けたら仲間でファミリーじゃん。さくっちは昔からオカタイよ~同じくらいの年頃なんだし、もっと気楽にさ!」


「き、きらく…」


「ま、今すぐにはむりでしょーけど、じょじょに、ね」


 向日葵はまたも下手なウィンクを桜に飛ばす。気楽にできる状況ではないと桜は思いつつ、またしっかりと橘平と向き合う。


「八神さん、このたびのことに関すること、すべてお話します」言ってから桜はさっと目を伏せ、数秒考えてから話を続けた。「申し訳ございません、本当にすべてはお話しできないと思います。けれど、今日は葵兄さんが言うように解散いたしましょう。後日改めてお会いしませんか。お約束します」


 桜の深々としたお辞儀に、橘平はそれ以上の反論はできなかった。


「…わかりました」


 そしてこの場はお開きとなった。




◇◇◇◇◇


 


 橘平は向日葵の軽自動車に乗せてもらい、電話番号とメッセージアプリの友達登録をした。


「落ち着いたら連絡すっから!」


「は、はい、よろしくお願いします」


 今日のことを車の中でも少し質問したいと思った橘平だったが、限界になった眠気は言うことをきかず。助手席で眠ってしまった。


 橘平がすやすやしている間に、八神家の前に着いた。


 向日葵が「きっぺーくん、おうちついたよー?ここだよねー?」と声をかけるが目覚めない。


 体をゆすっても、軽く頬を叩いても反応がない。


 耳を思いっきり引っ張り、鼓膜を破るつもりで「起きろー!!!」と叫んで、


「わわ!?」


 とやっと起きた。それでもぼーっとしている橘平は、前を見ているのかいないのか、ふわふわした足取りで家に戻っていった。


「あの子、自分の部屋にちゃんと戻れるかな?玄関で寝ちゃったりしないかな?」


 家に入ってからのことは助けてあげられないが、玄関に入るところまでは見届けた向日葵であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る