第13話 暗闇の聖女と鋼の騎士2



 教会の使用人は相変わらず聖女の世話を最低限しかしていない。

 いや、騎士から見たら最低限以下、あくまで聖女と言う存在が生きていればいいという程度だ。

 教会を一歩出れば聖女という存在を利用し、金や栄光を欲しいままにしているというのに。

 その中心にいるはずの聖女。

 それなのに彼女にたどり着く前に全ては抜け落ち、掠め取られ、奪い去られる。

 献上された贅沢品も嗜好品も必需品も、何もかもが。



 カチャリと鳴る微かな金属音。

 重々しい鎧を纏っているはずなのに足音なく現れた騎士の存在に、侍女は青白い顔を震わせた。


「騎士、様……」


 鼻先に突きつけられた剣先を見つめたまま、喉奥から微かな声を絞り出す。

 力が抜けた侍女の枯れた手から、乾いた音を立てて絹のドレスが滑り落ちる。


「それは王族から聖女様に献上されたもの。お前のような卑しい者に与えられたのではない」


 剣先が鼻先からわずかに離れる。

 侍女が止めていた息を吐こうとした瞬間、その切っ先が皺の目立つ喉へと押し当てられた。

 薄い皮が一枚、プツリと切れる。

 ひいっと笛の音のような細い悲鳴をあげ、侍女はその場に崩れ落ちた。

 女の体が、石の床に広がった繊細な絹のドレスの上を這う。ビリビリと細密なレースが、女が床を無様に動こうとするたびに無惨な布切れと化す。


「あああああ!」


 今更、何を足掻こうというのか。

 騎士に背中をむけ、床を這い回る姿は忌み嫌われる害虫よりも醜い。

 騎士がたった一歩踏み出しただけで、侍女は壁へと追い詰められる。じわりと股の間から広がる染みが、侍女の分不相応に上等なお仕着せと床、そしてドレスを濡らす。


 騎士の藍の瞳が細められた。

 聖女の前では相手には見えないにも関わらず終始細く笑みの形を描いているその瞳。

 今はそれが酷く恐ろしい光を放つ。


「た、たす、け」


 屠殺前の家畜のようなか細い声で侍女は懇願する。

 だがそれが騎士を止めることはない。


「聖女様はこの国の宝、どんな貴族よりも高く尊いお方。その髪一筋とも傷つけられるべきではない」


 温度も感情も乗らない低い声が響いた。

 侍女の顔からは色が抜け、見開いた両目からこぼれ落ちた涙が両頬を伝う。


 ――ガリッ!


 一歩、騎士が踏み出した足が石床に傷をつけた。

 侍女の視線がそこに吸い寄せられた刹那、銀の一閃が彼女の体を横断する。

 女の体が一度大きく跳ね上がる。そして力を失い、残骸となったドレスの上に横たわった。

 どろりと赤い液体が白いドレスを染める。

 それに冷たい視線を向けながら、騎士は剣についた血を侍女の体になすり付けた。

 その表面を目で確認した後、剣を鞘に戻し、部屋の入り口へと体の向きを変える。


「――片付けておけ」


 誰ともなしに呟いた声。

 直後、誰もいないはずの小部屋に数人の気配が現れる。

 騎士は振り返ることもせず、真っ直ぐに人のいない廊下を歩き出した。





 目の前に差し出されたであろう料理を迎えるため、シアは口をぱかりと開ける。

 すぐに入って来たのは期待していた甘味ではなく、やたらと青臭い野菜。自然とシアは両目を覆う厚い布の下で眉を顰めた。


「何、これ」

「野菜です」

「それは分かる。何て野菜?」

「キュウリです。新鮮でないと食べられないものですよ」

「好きじゃない」

「分かりました。今度は違う形で出しましょう」

「出さないでと言ってるの」

「大丈夫です。聖女様の体に悪いものではないですから」


 期待した答えが返ってこず、シアは唇を尖らせる。

 なんだかんだ言ってこの騎士は押しが強い。

 この騎士が聖女付きとなってすでに三年の月日が経った。

 シアの前では柔らかな雰囲気を崩さないようにしているようだが、裏で何をしているのか――いつの間にかシアを取り巻く環境が変化しているのにシア本人も気づいている。

 例えば、暗く陽のささない部屋から温かく整えられた部屋に変わった。

 毎日食事が届くようになった。一日中同じ服でいたのに、寝巻きだけでなく外出着や外套もクローゼットに追加された。風呂に入るようになり、髪の毛も丁寧に手入れされるようになった。

 

 数え上げればキリがない。

 見えないシアでも気づくことだ。

 見えていたらもっと多くの変化を見つけていただろう。


「新しい侍女が来週来ます。聖女様のご年齢に近い若いものになるでしょう」

「そう。あなたを送り込んできた貴族と同じところから?」

「どう、いう意味でしょう?」


 唇に食べ物が当たる直前で、ピクリとフォークの動きが止まる。

 シアは首を伸ばしてフォークにかぶりつく。今度は何かの肉だったようだ。じゅわりと口の中に濃厚な脂が広がる。


「あ」


 小さな騎士の呟き。

 シアはもくもくと口を動かし、喉を鳴らして肉を嚥下した。

 そして首を傾げる。


「私はあなたに恋した方がいいの?」

「は?」


 気の抜けた音が正面の騎士の口から漏れた。

 普段から慇懃で丁寧すぎる態度を崩さない彼にしては珍しい。

 シアは唇をぐにゃりと曲げる。溜飲が下がるとはこのことか。いつもやられてばかりだったが胸の奥がスッとする。


「聖女の資格を失った方がいいの? あなたと恋人同士というか、そういう関係になればいい?」

「ちょ、ちょっと待ってくださいね? そう、そういうことは望んでは」


 シアの顔に何かが迫った気配がする。

 わずかな鉄の匂いは、騎士の手だろうか。

 待てというのでしばらく待ってみる。

 シアには時間がたっぷりある。

 聖女として教会に連れられて来た頃はあちこち引き摺り回されていたが、最近は教会の大掛かりな祭事くらいにしか呼び出されない。

 その中で変わりゆく環境について考えないわけがない。


「私は、そういう目的でここにいるわけではありません」


 たっぷりと時間をかけて騎士が答えた。

 先ほどの焦りは抜け、いつもの柔らかさも抜けた事務的な声音だ。

 ぎしりと騎士の座る椅子が軋む音がする。

 鎧を着込んだ騎士はいつも所作に気をつかっているのか、乱暴な音を出すことはない。

 今も背もたれに全部体重を預けたりはしていないのだろう。だが彼がそうやって音を出して自分の場所を知らせる時は、シアの意識を向けさせたい時だ。


「教会に忠誠を誓っているわけではなさそうだけど」


 シアが顔をまっすぐに正面の彼へと向ける。

 三年かけてシアとの信頼関係を築こうとしてきた騎士。聖女付きといえば名誉だが、教会の中では弱い立場の聖女から得られるものは少ない。いや、全くないと言っていいだろう。


「そうですね。教会には、忠誠は誓ってません」


 微妙に“教会には“という言葉に力がこもる。

 誰か他に忠誠を誓った相手がいるということだ。

 それを知らせる気はあるのか。それをシアが尋ねてもいいのか。

 そんなシアの迷いを騎士はすぐに感じ取って、彼は目の前にいるシアにだけ届く声で告げた。


「私はあなたの騎士です。私が忠誠を誓うのは教会ではなく、あなたです。聖女様」


 ピクリとシアの膝に置いた手が揺れる。

 指先が細かく震えた。

 それは恐れか、喜びか。

 騎士から隠せるとは思えないが、シアは両手を重ねて動揺を誤魔化す。


「私は欲しくない」

「そうでしょうね」


 キッパリと断ったシアの言葉を騎士はいつものようにするりと流す。

 騎士が剣に触れたのか、カチャリと微かな金属音がした。

 その剣が守るのは聖女、ただ一人。


「あなたは、教会をどう思いますか?」

「嫌いよ」


 即座に鼻で笑って答えるシアに、騎士が声もなく笑う。

 それから騎士は押し黙った。

 すぐに口を開くだろうと思っていたシアは長いその沈黙に内心首を傾げる。

 言い淀んでいるのか、それとも何か心のうちに葛藤でもあるのか。

 言い表せない緊張が伝わり、シアは手に力を込める。


「では、あなたにその力を与えた存在のことは?」

「――大っ嫌い」


 一度も、誰にも聞かれたことのない問い。

 だがその答えは一つしかない。

 教会に来る遥か前から、それこそシアが自身の力を悟った瞬間から、神を憎んでいる。


 ふっと騎士が息を吐く。

 それはどこか温かく、きっと騎士の顔には笑みが浮かんでいるのだろうと容易に想像できた。

 だから、シアはサラリと綺麗に手入れされた髪を揺らして彼に問うた。


「あなたは神を信じているの?」


 体温が、近づく。

 シアの右耳に寄せられた騎士の口が動いた。


「神などいません。いない存在に対して何の感情を抱けば良いのでしょう」


 浅く息を吸い込み、シアは顔を上げる。

 おそらくそこにいるであろう騎士を、閉ざされた視界の中に探す。

 今この瞬間、騎士がどんな表情をしているのか、知りたいと思った。

 それは忌々しい瞳を失ってから初めて持った感情だった。


「ふふっ、それ、素敵ね」


 肩を震わせ、声に出してシアは笑う。

 おそらく十八年生きた中で初めてのこと。

 こんなにも清々しいほどに神の存在を否定する騎士がいるとは思わなかった。

 いや、神を憎む聖女シアがいるのであれば、彼のような騎士がいてもおかしくないのかもしれない。

 手を口に当てて心底楽しそうに笑うシアに、騎士は見えないと分かっていても肩をすくめて見せる。


「じゃぁ、あなたのとっておきの秘密を聞いちゃったから、私もいいこと教えてあげる」


 シアは薄い唇を左右に広げ、騎士に向かって微笑んだ。




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