第6話 終転の魔女と新緑の丘2
晴れた空の下、魔女は日傘をくるりくるりと回しながら森の中に敷かれた遊歩道を進む。
すぐ隣には宿で用意してもらった昼食の入ったバスケットを持った侍従がいる。
筋肉逞しい男の腕に収まるにはやや可愛らしすぎるバスケットだが、その対比がまた面白い。
傘を不規則に揺らして、魔女は声を潜めて笑う。
「楽しい?」
いつになく浮かれた彼女の様子に、侍従はわずかに口の端を緩めて尋ねる。
「もちろん。一分一秒全部」
照れもせずに魔女は答える。
普段客と会う時には無粋なベールで隠されているその美貌が、陽の光を受けてより一層輝く。
その姿を見つめる侍従の瞳が柔らかく細まる。愛情あふれるその表情に魔女の頬が赤らんだ。
「あそこよ」
誤魔化すように、魔女はほっそりした指を小道の先にある木に向ける。
かつては小高い丘だったこの場所は、周囲の土地が盛り上がったことでさほど目立たなくなった。ぐるりと湖を囲う遊歩道の途中にある休憩場所に過ぎない。
だが魔女にとってそこは特別な場所だ。
「久しぶり」
木の元へと駆け寄って、魔女は長らく会っていなかった旧友に挨拶するようにその木に抱きついた。それに答える声はなくとも、魔女は満足そうに木を見上げて頷く。
広がった葉と枝もまだ若々しい。時折湖から吹いてくる風に葉が揺れ、さわさわと軽やかな音を立てる。
魔女がしばらく木の幹に手を触れてぼうっとしている間に、侍従は木の足元にブランケットを敷き、その上にバスケットの中身を広げていく。朝食はすでに宿で食べたので、これは朝と昼の間の軽食だ。
水筒からぬるくなった茶をカップへと注ぎ、侍従は木のそばに立ち尽くしたままの魔女へと差し出す。
「喉が渇いただろ」
「うん。ありがとう」
礼を言い、魔女は茶で喉を潤しながらくるりと木に背を向ける。
ここから見えるのは美しく澄んだ湖。底が赤いのは地質のせいだと読んだことがある。
「ここは、一人の時間が長くなった時に来るの」
ポツリと魔女は視線を湖に向けたまま呟く。
一人の時間。いつまた戻って来るか分からない存在を待ち続けることは苦しい。
孤独の中、訪れる客の話を聞き、生を放棄して清々しい顔をして去っていく彼らを見送る。
その姿を見るたび、終転の魔女と呼ばれる自分が最愛の存在を何度も巡る生に縛り付けていることに嫌悪感を覚える。それは魔女の心を蝕み、最愛の存在への飢餓感を募らせた。
そんな時、この場所を知った。そしてこの木と出逢った。
「変わっていくのは周りばかりで、自分だけが取り残されたと思う時、ここに来ると心が晴れる気がする」
ここへ足を運ぶ際に通る街道や街の様子は止まることなく変わっていく。
それでも変わらない存在がいる。
この木が、幸福と絶望を知るこの場所が、迎えてくれるのだ。
さわさわと丘に吹く風に、葉が鳥の囁きのような音を立てる。
丘から見える景色は変わらない。木の元を訪れる街の人々の幸せな姿を見守る日々は永遠に続くかと思われた。
だが、絶望が訪れる。
それは天から降る赤い星。
昼間の太陽よりも強く輝くそれは、夜空を彩る全ての星を退けた。
美しすぎる絶望。
逃げる場所も時間もない。
哀れな人間は振り下ろされるその槌を受け止めるしかなかった。
一夜で全てが消え失せた。
街も、家も、人も、土地も幸福も希望も平穏な営みも未来も何もかもが、蒸発し吹き飛ばされ粉々に散った。
灼熱に焼かれた地面と空気。
丘の上でそれを浴びた木も無事ではいられなかった。ただほんの僅かな時間、枝と根の大半を失った姿でその場に留まった。
朽ちて土に戻るまでの間、生き残った誰かがここに来るのではないかという希望にしがみついた。
そんな日は来ないまま、木はその生を終えた。
そして木はまた新たな芽吹きを迎えた。
それから何度も、何度も、その場所に根を下ろした。
荒れ果てた地を見つめ続けた。
かつて街があったその窪みに水が溜まり、湖が出来上がる。
どこから運ばれて来たのか、周囲に草木が広がり始めた。
木が生を終えてまた目覚めるたびに、ゆっくりと周囲が変わっていくのを見ていた。
そして人が戻り始めた。
誰もが恐れたこの場所の美しさが広まったのだ。
一人、また一人と湖を見て幸せな笑みを浮かべるようになった。
さわさわと木は風に枝葉を揺らす。
巡り続ける生がもたらす絶望と、そして僅かな希望を木は受け止め続けている。
周囲が変わり、同じ景色ではいられなくとも、同じ幸福を味わうことが二度とないと分かっていても、ここに在り続ける。
魔女は何人、何百人という客から巡る時がもたらす痛みを聞かされた。
幸福な終わりを望む客もいれば、疲弊し切って眠りを望む客もいた。
誰もが、転生からの救いを求めていた。
だから何度でも確かめるように、彼に同じ確認をする。
「あなたが、生を終わらせたいのなら、いつでも言って」
魔女は旧友である木を見上げるように、永遠に続く魔女のそばに寄り添い続ける侍従の顔を見上げた。
転生する彼の魂は同じでも、その器はいつも違う。
教養深い彼もいれば、闘争の世界を生きた彼もいる。
万華鏡の中身は同じでも、転がった先で現れる模様が異なるように、彼という魂が作り出す人格はいつも異なっている。
だから魔女は不安になるのだ。
いつまで自分の元へ戻ってきてくれるのかと。
いつか、この繰り返す生に飽きて魔女の手で生を終わらせて欲しいと願う日が来るのではないかと。
「覚悟は、あまりできていないけど。でもレゾルがそうねが、ふきゃ!?」
所在なく指先を擦り合わせながら早口で話す魔女は、突然鼻を摘まれ尻尾を踏まれた猫のように飛び上がる。
「ひゃ!? ひょ、ひょっと、にゃ、に!?」
何度もリズムをつけるように太い指が魔女の形の良い鼻を潰す。
どんどん強くなるその指の力に、魔女はバタバタと両手を小鳥のように羽ばたかせた。
「阿呆」
ポツリと届いた低い声に魔女は動きを止める。
いまだに鼻を摘んだままの指が邪魔で、侍従の顔はよく見えない。ただ藍の瞳が昏く沈んでいる気がした。
「シア、お前を巻き込んだのは俺だ。あの檻の中で何も知らずにいればお前は幸せでいられた。暗闇の外を見ることが許されない世界でも、お前は残りの数十年を過ごして最期を迎えれば良かったはずだ」
最後に小さくキュッと魔女の鼻を摘んで侍従の指が離れる。
悪戯なその指は今度は魔女の額に触れ、ゆっくりと銀の髪を掬う。地肌を撫でる指の感触に魔女はふるりと体を震わせた。
「あの生を終えて、次は与えられた役目など何もない自由な生を過ごしていられたかもしれない」
指は今度は形の良い魔女の耳をなぞる。
背筋をザワザワと駆け上がる衝動に魔女は瞼を堅く閉じた。
「俺の願いを覚えているか?」
耳を辿って今度は頬をくすぐる指先に、魔女は唇から熱のこもった息を吐き出す。
願いーーレゾルの願い。
――あなたの髪があの日のように腰まで伸びて、あなたの目尻に私よりも深い皺ができたら、お願いするとしましょう。
「忘れない」
無理な願いだと笑った。
でもその願いの意味を知っているからこそ、忘れることはなかった。
「いつか、歳をとって私もあなたと生を終えたい」
瞼が上がり、金の瞳が揺れる。
口元に微笑みを浮かべ、そして手を伸ばして魔女は従者の意志の強そうな眉を指で辿る。
藍の瞳は疲れた体を休める夜のとばりのように深く優しい。
「シアが俺を覚えている限り、何度過去を失ってもシアの元に来るだろう。それは俺の望みだ」
強く抱きしめる彼の腕の中で、魔女は小さく頷いた。
木の下で美しい景色を堪能して宿に戻ろうと歩き始めた時、侍従がふと魔女に問いかけた。
「また、寂しくなったらここに来るのか?」
足を止めて魔女は彼を仰ぎ見ながら素直に首を縦に振る。
ここは魔女のとっておきの場所。
一人でいる時間を乗り越える覚悟を決めるための場所だ。
そんな彼女を見て従者が呟く。
「妬けるな」
「はい?」
言葉の意味を理解しても、何のことかわからず魔女は聞き返す。
侍従の厚い唇が曲がり、同じ言葉を繰り返す。
「妬けると言ったんだ」
「な、にが?」
この場所に来ると言ったことと、その言葉と何の関係があるのか。
驚きに目を見開く猫のように、魔女は大きな目で侍従を凝視した。
「寂しい時間なら、俺が慰めてやる。そう言いたいのに、俺がいない。だからここに来るなとは言わないが、だがせめてあの木に抱きつくのだけはやめてくれ」
「は……」
魔女の口から返事とも呆れともつかない音が漏れる。
確かに、この場所に着いた時、魔女は喜びから木に抱きついた。
だが、相手、というか、対象は木だ。植物だ。
悋気するものではないだろう。
「ふふっ」
魔女の口から抑えきれない笑いが漏れた。
いつも自分だけが恋焦がれているのかと思った。だがどうやら違ったらしい。
数百年という時を共に過ごしても見えていなかった相手の思いに、魔女は笑みだけではなく熱い何かがこぼれそうになる。
忙しなく瞬きを繰り返し、揶揄うように侍従の腕に自分の腕を絡ませた。
「それで?」
侍従の声に、魔女は彼を見上げる。
奥歯に力を入れたのか、彼の太い首の付け根がピクリと動く。
「もうあれに抱きつかないと約束するか」
「ふふっ、良いわよ。約束する」
「なら、いい」
満足したように深く頷く彼に、魔女はたまらず笑い声をあげる。
きっと再びこの場所に来る時には、この幸せな時間を思い出すはずだ。
そしてあの木も、魔女と侍従の姿を思うのだろう。
時間の中に取り残された、一人の魔女と一本の木の友情が続く限り。
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