命を繋ぐ

 その日の夜、紗妃は高岡にメールで返事を送った。


「紗妃です。

昼間の件ですが……姉と話して、必要なのであれば引っ越しても良い、ということになりました」


あの後二人で話し合い、これからどうするかを決めた。


 できることなら、このまま暮らしていたい。だが、このまま東京にいても、組織の追手から逃げることは難しい。

そうなれば、まともに暮らしていくことすら危険になる。


何より、今のような暮らしは長くは続けられない。

そのことは、紗妃も沙夜も薄々わかっていたことだった。


「ただ、その前に教えてほしいこともあります。

どこに引っ越せばいいのか。

引っ越した先で、これまでのように生活できるのか。

いつ頃、どうやって引っ越せばいいのか。

最低限、これは知りたいです。

いろいろやってくれる高岡さんには、感謝していますが、私たちだって普通の生活を送りたいです」


最後の一文は、姉妹の心からの本音そのものだった。




 送信後、沙夜が暖かいココアの入ったコップを持ってきた。


「あれ?頼んだっけ」


「いや。ただ、そろそろかなって思って」


紗妃は、いつも夜の7時過ぎ頃にはココアを作って飲んでいる。

沙夜はそれをよく見ており、今日は作りに来ないなと思いつつも、気を利かせて先に作って持ってきたのだ。


「ありがとう」


 紗妃はそれを一口飲み、「……ふう」と一息ついた。

彼女にとって、これは毎日行うルーティンの一環であり、できないと焦る。

今日も、これから作ってこようと思っていたところであった。


「姉さん、やっぱり周りをよく見てるよね」


「まあ、そうかもね。……自分の周りもよく見れたら、大助かりなんだけどね」


沙夜は、自嘲気味にそう言った。


「それで、メッセは送った?」


「うん。ちょうど今送ったとこ」


「そう。……返事、早く来るといいね」


「そうだね」




 ふと、部屋の隅にあるバッグが目についた。

チャックが取れ、色あせたピンクの肩掛けバッグ。

一見ごく普通のバッグだが、紗妃にとっては愛着がある代物だ。


このバッグは、彼女が最初に騙した男の金で買ったもの。

3000円程度の、さして高くもない肩掛けバッグだったが、彼女にとっては、初めて自分で「稼いで」買ったものだった。


 それまでにも、バイトをしたことはあった。しかし、紗妃はそのほとんどを途中でバックレてしまっていた。

「普通」のことができない以上、「普通に働いて稼ぐ」こともできないのだと、彼女はやがて気づいた。


「……いいよね、もう」


初めて男から財布を盗んだ後、紗妃は一人そう思った。

少し前に自殺を図り、姉に止められたばかりだった彼女は、その時姉に言われたことを思い返していたのだ。


「ダメ……絶対に。絶対に、生きるの。どんなに嫌でも、辛くても……生きるのよ」


 今となっては、もう自殺をしようなどと考えることはない。

その代わり、何としてでも生きよう、絶対に最後まで生きよう、とだけ考えている。


自分と姉は、一心同体だ。

自分が死ねば、いずれ姉も死ぬだろう。

もちろん、逆だってそうだ。


 だが、姉はそんなことはしない。

それはつまり、生きようとしているということ。

そして……自分も一緒に生きねばならないということ。


自分は、何のために生まれてきたのか。

何のために、今を生きているのか。

生きていて、何の意味があるのか。

それは考えてもわからないが、死ぬことはきっと、それすらも考えられなくしてしまうことだ。


 そう思うからこそ、彼女たちは生きている。

懸命に、命を繋いでいる。





 部屋には、しばらく沈黙が漂った。


ストーブの弱い音と、外を走る車の気配だけが、現実をつなぎ止めている。

沙夜はカーテン越しに夜の街を見つめ、紗妃は床に座ったまま、指先を握りしめていた。


「……東京を出る、か」


 沙夜が低くつぶやく。

その声には、迷いと同時に、どこか覚悟の色が混じっていた。


「逃げるみたいで、なんか嫌だよね」


紗妃が言う。

強がるような口調だったが、視線は上がらない。自分たちが踏み込んだ世界の重さを、妹なりに理解していた。


「逃げるんじゃないわ」


沙夜は振り返り、はっきりと言った。


「生き延びるだけ……それだけよ」


 一瞬、紗妃は驚いたように姉を見る。

その目に映る沙夜は、ここ最近で一番落ち着いているように見えた。


「高岡が来たってこと自体、もう合図みたいなもん。組織は、あたしたちがここにいるってことに気づき始めてるんだよ、薄々。夢とか、偶然とかじゃなくて」


紗妃は、あの追いかけられる夢を思い出し、背筋が冷えた。

あまりよく知らないはずなのに、昔から知っていたかのように、リアルだった恐怖。


「どこに行くんだろうね」


「さあね……ただ、ヤクザに追いかけられないところならどこでもいい。それなりに人がいて、あたしたちを知ってる人間がいない場所に」


 沙夜はそう言って、机の上の現金――高岡が送ってきた5万円を見た。

決して、多くはない。でも、動くには十分な金だった。


「引っ越すなんて、初めてだけど……きっと上手くいく。高岡がいるんだし」


紗妃は小さく息を吸い、ゆっくりとうなずいた。


「姉さんにそう言われると、そんな気がする」


 その返事を聞いて、沙夜はほんの少しだけ笑った。

それは、妹を守ると決めた人間の、静かな笑みだった。


外では、また雪が降り始めていた。

だが、それは二人が足を止める理由にはならなかった。

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