明保野舞と紙の束
「最近、スイミング始めたんですか?」
明保野は、僕のカードケースを漁りつつスイミングの会員証を見てそう言った。
「体力づくりにな。それはそうと、人のものをあさるのはやめような」
「いえ、これ落とし物を見つけたのでどなたのものかを確認するために、やむを得ず。
人命救助の際の人工呼吸はキスではないのと同様、落とし物を正確に持ち主に届けるために精査するのもノーカウントでしょう」
「………もう僕のだってわかったから返してもらっていいかな」
ここ、科学準備室に置いてあったものなのだから、僕か、松谷先生くらいしか候補がないはずなのだ。落とし物というには無理がありすぎる。
「それで、水泳、楽しいですか?」
「そんなことで話をそらせると思うな。でも案外楽しいんだなこれが」
「ほうほう、何するんです? バタフライとかですか?」
「いや、水中を歩くくだけでだいぶ体にきてな……体力がなくて仕方がない」
本当に体力が落ちて仕方がない。年々、ひどく厳しいのだ。今や体育館の2階部分に上がる階段すら、膝が悲鳴を上げる始末。この前の入学式の時は2階の当番だったがどうにか、上下運動の回数を減らせないか計算ばかりしていた。
「なんだか先生らしいですね。派手さとか求めないあたり」
「それは誉め言葉か?」
「私から出る言葉はすべて先生への賛辞です。好意の現れです。間違いはありません」
「なんというか、過剰だな……返してくれるか?」
怖い言葉を吐きながらも、カードケースは奪われたままであった。改めてみると多くのカードが詰まっている。どこでも会員証を作ってきた結果だと思うと、少しばかり気をつけようかと思う。
「これ、なんですか?」
澄んだ瞳、というには少し怒気があるような声。
「いえ、知っていますよ。適当な『さしすせそ』で応答されて殿方がお楽しみになられる場所なのでしょう?」
怒気、というか、冷え切っていた。なにかと思えば、水商売関連の名刺。背筋が冷える。嫌な予感が、びしばしと音を立ててやってきつつあった。
「ち、ちがうぞ」
我ながら、なんと怪しい言葉であろうか。
「さあ、どうですかね。先生はこういう遊び、なさらないと思っていたのですが」
嫌な汗が背中を流れる。それと同時に、嫌な予想が脳裏を過る。例えば、噂が立とうものなら、即座に各所から詰められる。教頭も、PTAもこの手の話題には敏感なのだ。
無論、そういう遊びに手を付けたことはない。松谷先生から誘われることはあるが、丁重にお断りしている。遊び歩いているというのは誤解だ。誤解なのだから、誤りを正せばそれは解になるはずだ。
「あ、それは生徒の親御さんが経営しているところだ。ほら、家庭訪問があるだろ、その時にもらったんだよ」
いらないとは言ったのだが、押し切られてしまった。まさかこんなところで裏目に出るとは。やはり弱さも気をつけねばと、ほっと一息ついたところで。
「知りませんでした。で、この二枚目は何ですか?」
また別の水商売の支配人の名刺が投げ込まれる。ガールズバーという文字が躍っていた。これには心当たりがある。
「ああ、それは」
「すみませんね。あまり殿方の御趣味まで聞かないほうがよろしいですね」
「ちげえよ!! 前にこっそりバイトしてたやつがいてな、その指導の時に連絡を取ったんだよ。厄介なお客さんとトラブルを抱えていたらしくてな……」
だからバイト禁止だというのに、ことあるごとにこういう惨事は起きる。
「生理的に無理ですね」
「お、おう。そうだな」
何が生理的に無理なのか曖昧ではあったが、雰囲気にのまれて頷いてしまった。すると、最後通牒のように、彼女はこちらに問いかける。
「それで。結局、何が言いたいんですか?」
しゃんと背筋を伸ばし、まっすぐ目を見つめて。できる限りの誠意を態度に示して、答える。
「すべて誤解だ。決してやましいところはない。教育委員会に誓って」
目を閉じて、誓う。
本当に、やめてほしい。噂なんて流さないでほしい。ストレスで、ただでさえ弱めな胃がすりきれてしまう。だから、どうにかこの場で鎮火できないかと祈って、目を開けると。
彼女はにんまりと笑っていた。
「あんまりにも焦っているので楽しくなってしまって」
「お前なあ、あんまり人をからかうなよ」
どっと疲れが押し寄せてきた。ともかく、危機は去ったようだ。教頭の小言を聞く時間の数百倍は寿命が縮んだ気がした。
彼女は楽しみ終えたらしく、この部屋から出る支度を始めた。
「ここに来てそんなに楽しいか?」
正直、そう楽しい部屋でもないと思う。が。
「『さしすせそ』で応対するのも、案外楽しいものですね」
くすくすと笑いながら返してくる。妙にわざとらしい応答はどうやらそういうことだったらしい。
「お前の応答は断じてまともな『さしすせそ』じゃないぞ」
「まともなのがお好みですか?」
「知るか。そういう相手もいねぇし、そういう場所に行ったこともねぇよ」
「行けばスイミングの話とかもっと懇切丁寧に聞いてくださいますよ」
「行ってまで話したいものでもねえよ!!」
体力づくりに通っているものを掘り下げても何も出てこないにきまっているじゃないか。
「あら、そうなんですか? てっきりとても好きなのかと思ったんですが」
出ていきがてら、ドアに手を開けながら、後ろ向きに彼女はそう言う。
「今までの話のどこにそんな要素があったんだよ」
とぼやくと、彼女はダイスのイヤリングを揺らしながら振り返る。
その口はくすりと笑っているようであり、その指は正確にこちらの目を指していた。
「先生のそこ、ずっと泳ぎ続けていたじゃないですか」
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