06 夜の逢瀬

 この屋敷はどうやら、サイラス様がわたしを住まわせるために購入したもののようだった。

 ご自身は普段、官舎で暮らしているから家なんて不要なはずなのに、だ。使用人に調度品、何もかもを揃えたこの完璧な住宅はわたしが何不自由なく過ごせるように行き届いた配慮がなされている。サイラス様のあまりの徹底ぶりに、ずんと肩に重たいものが圧し掛かって来るような気がした。


「……帰ってこないな、サイラス様」


 夕食は先に済ませてください、と言われていたので帰りが遅いのだろうとは思っていたのだが一向に帰宅する気配がなかった。近衛騎士の仕事が忙しいのは当然だろうが、拍子抜けしてしまったのも事実だ。

 この不可思議な状況から脱するためにも、顔を合わせて今度こそきちんとサイラス様と話をしなければならないだろう。そのためにも眠らずに待っていよう、とわたしは決意したのだった。


「とはいえ限度がある……」


 ふあ、と欠伸をしながら窓からわたしは外のようすを窺う。

 とっぷりと暮れた夜闇の中には仔猫の気配さえしなかった。まだ当分帰ってこないのだろうとは察したが、ここで諦めるのも惜しい。彼は忙しいひとなのだから、捕まえられそうなときに捕まえなければ。


 と、思ってはいたのだが――睡魔には勝てなかった。


 ころんとベッドの上に横たわり、寝息を立てるまで数秒もかからなかっただろう。わけのわからない状況が続いていることもあって、わたしの緊張もピークに達していた。どっと溜まった疲労を癒そうと頭が睡眠を欲している。


 わたしが眠ってしばらくたった頃、ぎい、と部屋のドアが開いたのがわかった。ノックの音が聞こえたような気もするが身じろぎする気も起きない。浅瀬を泳ぐようにゆらゆらと浮上した意識が音を拾ったが、起きあがることは出来なかった。瞼は重く、目を開くことも難しそうだ。

 でも誰かが近づいて来る気配だけはわかる。


「リーリエ」


 優しく紡がれた声音にびくっと身体が揺れそうになった。

 甘く優しく、羽根の先でくすぐるような柔らかな囁きがそっと落ちてくる。

 起きなければ、と思うのにこれが夢なのではという気がして身体がひどく抵抗した。頭のてっぺんからつま先まですべてが砂の詰まった袋に変えられてしまったかのように、重だるい。


「可愛いリーリエ」


 ふわりと香る清涼感のある香りに、ささくれだった意識がなめらかに変えられてしまった。誰、あなたは誰。


 優しくわたしの髪にくちづけるあなたは、誰……?


「俺は今度こそ、君を失わない。必ず守ってみせるから」


 決意を秘めた声に胸が震えた。

 どうして、このひとはそんなに切なそうな声で話すのだろう。聞いているだけで息が苦しくなりそうだ。ようやく瞼を持ち上げると、瞳は沈んだ表情の男性を捉えた。世界の終わる瞬間を見てきたような顔つきで、ベッドに横たわるわたしを見つめている。


「サイラス、さま……」


 わたしがつぶやくと、静かにと告げる代わりに唇に指が触れた。絹の手袋のさらさらとした感触が唇をそっと愛おしむように撫でていく。


「リーリエ――」


 これは夢だ、とサイラス様は言った。

 甘く優しく蕩かすような声音で告げられると本当にそんな気がしてくる。眠って、と促されるうちにすぐにまた瞼が重くなってきた。これは現実、それとも――。


「さあ、いまはすべて忘れて」


 深い水底に引き込むような囁きと共に、わたしの意識は深く沈んでいったのだった。

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