禁忌の魔法遣いと悪役王子の十三回目の再演~初恋を叶えて「すろうらいふ」したいだけなんです

ななか

第1章 禁忌の魔法遣いのテンセイ

 春の嵐の今日、第二王子ユーリィの初恋相手であるエドゥアルド公爵が、馬車ごと滑落して落命した。

 彼の遺体を回収した洞窟管理役たちによると、王宮目指してかなり馬を急がせていたという。

 王宮はフセスラウ国を貫く山脈の頂上に建つ。平地が少ないぶん、王宮の周りを縦に掘って政務や儀式の場を確保している。

 そのひとつ、葬儀用の洞にて、黒い式服ローブ姿のユーリィは未だ信じられない気持ちでつぶやいた。

「雨期の盛りに、何をそんなに急がれたのです……?」

 もちろん答えはない。夜が来ても止まない雨音が、頭上の通気口から聞こえるのみ。

 土肌が剥き出しの洞の真ん中に、彫刻木の寝台がある。そこに横たえられたエドゥアルドの長身痩躯は、いつもと同じ漆黒の、しかし湿ってぼろぼろの礼服チョハに包まれている。

 胸もとが逆三角形に空いた襟なし上衣と、中の立ち襟の襯衣シャツを突き破る、深い掻き傷があった。これが致命傷になったのだろう。長く広がった上衣の裾から覗く右脚は、あらぬ方向に曲がっている。こめかみは赤紫色に腫れる一方、肌に生気はなく、悪魔的なまでと謳われる美貌は見る影もない。

 二歳上の兄コンスタンティネにはとても見せられない。王太子として帝王学を叩き込まれてきた彼も、婚約者の死の報にはさすがに倒れてしまった。雨期が終わり次第婚儀を行う予定だった。

 ユーリィには倒れる権利も、ましてや涙を流す権利もない。十年間、兄の婚約者に密かに横恋慕していたのだ。

 懐の万年筆に手を当て、奥歯を噛み締める。

(公爵のお身体に触れるのを許してください、兄上)

 胸の裡で断りを入れてから、想い人の手を取った。ユーリィの指よりさらに冷たい掌に、粉上の雲母マイカを塗る。枕もとの燭台の灯にちらちら反射した。

(この長く美しい指も、もう二度と動かないなんて。本当にあっけない……)

 怜悧な印象の唇をゴムノキの葉で覆い、下腹部に置いた器に羊の乳を注ぐ。

 すべて王族に伝わる手順だ。ユーリィは葬儀士である。

 王族の血縁が亡くなった場合、同じく王族が葬送の儀式を行うべし、と四十四年前に定められた。忌み事なので好まれないが、ユーリィは第二王子の自分にも貢献できることがあるなら、と自ら引き受けた。

(閣下を葬送する日はずっと先だと思っていましたが)

 エドゥアルドはユーリィにとって九歳上のはとこに当たる。それぞれの祖父が双子の兄弟だった。現在は王族の一人として直轄領ミロシュを治めている――いた。

 とはいえまだ二十七歳の彼を送る心の準備は、これっぽっちもできていなかった。

 でも、もしかしたら「始まりの魔法遣いたち」が、国を統べる使命もないユーリィを憐れみ、許されぬ恋と訣別できるよう与えてくれた時間かもしれない。

 などと不謹慎な言い訳をしながら、エドゥアルドの肩下まである黒髪に手を伸ばす。血が固まって絡まった部分を、震える指で解いた。想像したより柔らかい手触りだ。

『私に気安く触れるな』

 早春、ユーリィの十八度目の誕生日と成人を祝う折。髪に糸くずがついている、と下心で手を伸ばした夫人を、エドゥアルドはぴしゃりと退けた。

 王族の血縁にして将来の王婿。黒髪の長身痩躯、隙の無い装い。孤高を越えて非情ですらある言動により、彼はときに周囲を凍りつかせる。でもユーリィには、この一件は婚約中のコンスタンティネを気遣ってのことだとちゃんとわかった。

 生前ならユーリィも手を払われただろうか。何者でもない第二王子。この十年、親しく話し掛けられたことはない。

 蝋燭の火が、不意に揺れた。ぴくりとエドゥアルドの睫毛が戦慄く。

「ここ、は――」

 薄闇の中でも蠱惑的にきらめく紅眼が、ユーリィを捉えた。

「天使みたいな銀の巻き毛と碧い目、貴い佇まい。僕の推し、ユーリィ」

 唇に載せた葉がずれた。つまり空耳でも、洞に入ってきた他人の声でもない。

(い、今、何と? なぜ……)

 亡骸が目を開けて言葉まで発した衝撃で、ユーリィは固まってしまった。それをよいことに、エドゥアルドが起き上がってユーリィを抱き寄せる。

 平均以上の背丈のユーリィだが、彼の長い腕にすっぽり包み込まれた。その手は熱く、あえかに震えている。

 そう、熱い。血が通っている。強く押しつけられた胸は、掻き傷の感触がない。脈拍が聞こえる。右脚もきちんと彼の長身を支えていた。

 先の儀式で下腹部に載せた器が落ち、硬い音を立てる――夢ではない。

(何が、起きたのでしょう?)

 エドゥアルドの腕の力が少しだけゆるむ。至近距離で目が合った。常に威厳ある彼らしくなく切実で、溢れる愛を抑えきれず、どこか怖がっているようでもあり、諦念も垣間見える表情に、息を呑む。

 まったく別人に出会ったみたいに錯覚した。

「君は九割二分の確率で一年以内に死ぬ。でも私が君を守ろう」

 続く台詞にますます面食らう。

 第一声は柄にもなく気弱だったが、今度は普段と同じ低く鋭い声だ。

(わたしが……死ぬ?)

 どういう意味だろう。九割二分という半端な数字が妙に具体的に感じる。

 ユーリィが死ぬ。断言された。でもそれを言ったら。

 エドゥアルドこそ、確かに死んでいた。発見者も、侍医も、ユーリィも見た。彼がいま生きているのがいちばん信じられない。

 可能性として考えられるのはたったひとつ。

「……禁忌を、犯したのですか」

 死者蘇生。すなわちフセスラウでは禁じられている魔法を遣ったとしか思えない。

 いつの間に、どうやって、魔力の封印を解いたのか? 何のために?

 想い人が蘇生しても無邪気に喜べず、全身強張らせたまま答えを待つ。

「そういうことにしておこう。今回も無事、童貞公僕から悪役公爵に転生できた。それも禁忌の魔法遣いに」

 エドゥアルドはというと、回りくどく認め、口角を片側だけ上げて笑った。顏の腫れは引き、生気と色気まで取り戻している。

 ユーリィは今にして赤面した。まだエドゥアルドと密着している。煩いほどの拍動が伝わってしまう。離れようともぞもぞ身じろぐも、逆に抱き込まれる。

 真剣な視線に射竦められた。

「すべてユーリィのためだ。ゲ……原作では接点のない私たちが、こうして話しているのは奇跡だと、頭の隅に留めておいてほしい」

(わたしのため?)

 ミロシュ領に留まらず国を治める意気に満ちたエドゥアルドは、第二王子のユーリィには興味がないはず。そうして余所見せず使命に邁進する姿にこそ惹かれたのだ。

 それに「オシ」とか――一人称も違った、「テンセイ」とか、ときおり意味不明な単語を口走る。「悪役」や「原作」も何を指すのだろう。

 何より、ユーリィが死ぬとは? 持病はないし、第二王子を暗殺しても仕方ない。疑問ばかりが浮かぶ。

 それはそうと、彼は動けても怪我がすべて消えたわけではなく、服もぼろぼろのままで、痛々しかった。心配が遅れて湧いてくる。

 魔法を使うのは禁忌だが、そもそも魔力を封印されて以来使えない前提であり、使った際の罰は定められていない。ならば。

「ともかく、侍医を呼びましょうか」

 くぐもった声で提案すれば、エドゥアルドは一転、声を出して笑った。

「君は本当に、ずっと、変わらない。優しく無垢な弟王子だ」

 笑っているのに、どこか泣いているようにも見える。

 こんなふうに笑うエドゥアルド自体、一度も見たことがなかった。基本、にこりともしないのだ。禁忌魔法の後遺症があるのではないか。心配が募る。

 しかしエドゥアルド本人は、

「それより自分が禁忌の共犯と見做される心配でもしたらどうだ、葬儀士よ」

 と嘯いた。やっとユーリィを解放してくれる。手を離すとき名残惜しげに巻き毛を撫でた……と感じたのは、ユーリィの思い込みに違いない。

「私の遺品は客間だな」

 エドゥアルドは自ら寝台を下り、葬儀しつと王宮廊下をつなぐ扉を、颯爽と出ていった。

(わたしが禁忌の共犯なんて大それたことをすると思う者は、いないと思いますが)

 取り残されたユーリィは、ひとまず不要になった羊の乳とゴムノキの葉を拾い、片付ける。式服ローブも脱ぐと、エドゥアルドの手の跡が目についた。

(雲母の粉を塗っていたとはいえ、こんなにくっきり跡がつくほど力を込めて……)

 想い人が生き返ったことにようやく実感が追いつき、安堵の息を吐く。同時に抱き締められた事実も認識して、へたり込んだ。

 奇跡、はユーリィの台詞である。十年分の視線と言葉を浴びせられ、心臓が持たない。しかも、「殿下」でなく名前で呼ばれた。呼んでくれた。

(禁忌ゆえ蘇生を素直に喜んではいけないとしても、今ここにはわたしひとりだから)

 上衣に忍ばせた万年筆を取り出し、見つめる。黒檀エボニーに銀のペン先の、使い込まれたもの。

 エドゥアルドに名前を呼ばれたのは、この万年筆をもらった十年前の一度きりだ。彼だけがユーリィのさみしさを埋めてくれた。あの日のことは生涯忘れない。

『私が君を守ろう』

 先ほどのエドゥアルドの台詞が耳に蘇る。低く、潔く、ほのかに甘さも滲む声が、今日彼とともに葬送するはずだったユーリィの恋心をくすぐる。

 ――それもあって、九割二分という数字の意味のほうはあまり深く考えなかった。



 翌日、王宮最上部に位置する王族用の区画は、露台バルコニーから雨上がりの山林を望む暇もない。

 ユーリィが起きてすぐ、王妃――母が忙しなく私室を訪ねてきた。

「ユーリィ。昨夜のミロシュ公は、仮死状態だった。そうですね?」

 自慢の長い銀髪をひとつに括ったのみで、必死さが窺われる。

 これは問答ではない。証拠づくりだ。エドゥアルドは禁忌を犯したのではない、と。

「母上のおっしゃるとおりです」

 ユーリィは次期王の弟として模範的な回答をした。途端、長椅子に腰掛けた母が満足そうに微笑む。

「あなたの証言があって何より。とはいえ今後何があるかわからないゆえ、コンスタンティネとエドゥアルドの婚儀を、来月執り行うことにします」

 ユーリィは寝癖をつけたまま目を見開いた。

 六月はまだ雨期だが、婚儀の時期を早めたらしい。父王も対外への根回しに奔走しているところか。それだけ後ろ盾を逃したくないのだ。

 フセスラウは、山脈を挟んだ隣国パルラディとの魔法戦争の爪痕が今なお残る。さらに四十四年前の魔力封印もあり、王族の力は強いとは言えない。魔法なしでも――実は使っていたのか?――有能なエドゥアルドが政務の中心となってくれれば、この上ない助けになる。

 一方で、ついにきたか、という気持ちもある。エドゥアルドと王太子である兄の婚約は、十年に及ぶ。

 エドゥアルドが生き返って嬉しいものの、彼が生きている限り、兄と添い遂げる運命だ。

 かと言って、コンスタンティネがいなければとは思わない。ふたりきりの兄弟だ。彼より先に生まれていれば、とも思わない。弟としてしっかり支えたい。兄は身内から見ても次期王に相応しい清廉な人だから。

『せっかく王ぞくに生まれたのに、魔力をつかえず残念ですね、兄上。あと五十年はやく生まれていれば、この書物のように、みなを楽しませたりできました』

『魔法は何かを奪ってしまうこともある。だから封印してよかったんだ。おじいさまは賢明な判断をなさったよ』

 幼い頃、忍び込んだ書庫しつでそんな会話を交わした。

 魔法戦争は長きにわたり、失うものしかなかった。よって、二代前の両君主――「始まりの魔法遣いたちの再来」と名高い――が四十四年前、両国とも王族一門のみが持つ魔力を封印して、休戦協定を結んだ。

 封印は子孫にも及ぶ。二代前の王たちは解き方を口外せず、ユーリィが生まれるのと前後して亡くなった。それを解こうとするのは、戦争を呼び込み国を破滅させるも同然なのだ。

 秘めた力に誘惑されないコンスタンティネなら、エドゥアルドにもお似合いだ。恋心との訣別という建前でエドゥアルドに触れたユーリィとは違う。

 父が決めた相手ながら、フセスラウを背負う能力と意気を併せ持ち、非情ささえ装飾品に替えてしまう美貌のエドゥアルドを、コンスタンティネもまた慕っている。ユーリィは誰よりよく知っていた。

 青と薄灰色を基調とした寝具を握り込み、幾度となく味わった胸の痛みをやり過ごす。

「侍医によれば、エドゥアルドの怪我は今週中には全快が見込まれるとのこと。よって婚儀の手順は省かず、前だっての舞踏会も行います」

「わかりました。これという令嬢がいらしたら一曲踊りますので、教えてください」

「まあ。あなたも結婚に興味が出たの? 三月に成人してようやく」

 母はユーリィの胸中を知る由もなく、華やかに笑った。もう婚儀が奏功した気になっているらしい。

「社交界では『戯曲が恋人』なんて言われて、気掛かりだったのですよ」

「それは言い過ぎですが。わたしもフセスラウの役に立ちたいだけです」

 戯曲、という単語にどきりとしたのを隠すのも兼ねて、背筋を伸ばしてみせる。

 これまで、エドゥアルドを想いながら令嬢たちと仲を深める器用さはなく、婚約者は未定だった、が。

「ならば相応しいお相手を吟味しましょう」

 いずれエドゥアルドのように直轄領を継ぎ、次期王の統治を補佐し、国の安寧に寄与する。それが第二王子であるユーリィの最善の人生。結婚も国に資する家の令嬢とで構わない。恋心はエドゥアルドにのみ捧げて終えよう。

『僕の推し、ユーリィ』

 エドゥアルドの声が、またも耳に蘇った。

(……オシ、とは何でしょうか)


 コンスタンティネはエドゥアルドの死と蘇生によってめまぐるしく変わる状況に対応すべく、健気にも政務に戻ったという。白い襯衣シャツと薄灰の上衣に着替えたユーリィは、兄を補佐しようと石造りの階段を下りていく。

 王宮は塔の形で、下階部分は半ば地に埋まり、地下――標高は高いが――の洞窟につながる。延びた廊下の壁や天井は日々固められ、花や置物で飾られ、蝋燭も切らさず管理されている。

「……昨日お身体を引っ張り上げたときにゃ、間違いなく息してなかった」

「馬車の残骸を片付けたが、あんなに壊れてたのに。馬も気の毒だったよ」

「やっぱり禁忌の魔法を遣ったって、ニコも思わないか?」

 洞窟管理役が日課作業の傍ら、ひそひそ言い合う。ユーリィの姿を見つけてそそくさと散っていったが、聞こえている。ユーリィは落ち着かず、彼らの背を目で追った。

 管理役の一人、「ニコ」と呼ばれた無造作な茶髪の青年は、見ない顔だ。

(昨日の事故の対応に当たらなかった者まで一緒になって……)

 いくらユーリィと両親が「仮死だった」と言い張っても、エドゥアルドの死の報は一度王宮を駆け巡った。居合わせた者は禁忌を疑い続け、王宮の外にも噂が広がっていくだろう。

 実際、政務の間の扉のそばで、宰相子息シメオンが貴族数名と立ち話している。きっちり分けた濃金髪ダークブロンドの下、切れ長の目は鼻眼鏡越しに各人の思惑を見抜かんばかりた。洞窟管理役と同じく、ユーリィが横を通るときは口を噤む。

(禁忌を犯した者がゆくゆく王婿の座に就くのは、歓迎されまい)

 中へ入ると、近衛騎士でコンスタンティネ専属の護衛であるペトルが、ひときわ大柄な身体で圧を発していた。精悍な日焼け顏を顰めているが、ユーリィと目が合うや、ぱっと表情が明るくなる。渦中のエドゥアルド本人は客間で回復に努めているので、普段は頼りない第二王子の手でも借りたいといったところか。

 長卓につくコンスタンティネを見やる。

 同じ銀色だがまっすぐで艶があり、顎の長さで切り揃えられた髪。知性を宿した菫色の瞳。ユーリィより繊細なつくりの骨格――美女もはじらう、フセスラウきっての華。

 白い襯衣シャツと純白の上衣は、婚儀の衣装のようだ。

(たとえ禁忌を犯しても、公爵以上に将来の王婿が務まる方はいらっしゃいません)

 兄コンスタンティネのために、エドゥアルドとの婚儀の準備を進める。それがユーリィの望む国の安寧につながる。

 ユーリィはさまざまな葛藤を呑み込み、兄の隣に座った。


 婚儀に向けて各所と調整したり必要なものを手配したりと、ユーリィは精力的に動き回った。再び雨が降り出した夜に私室へ戻り、葡萄酒片手にやっとひと息吐く。

(エドゥアルド閣下を葬送したのが、昨日の今頃でなく遠い昔のようです。……そう言えば)

 やり残したことを思い出し、側面に象形モザイク彫刻を施した執務机に歩み寄った。

 抽斗の二段目のみ、職人に特注した鍵を取りつけてある。いつも身に着けている万年筆の、背側の飾り部分を挿し込めば開く。

 中には、薄水色の織物の書皮カバーを掛けた手記――と見せかけた、自作の戯曲がある。

 古典から流行まで戯曲を研究した上で、十年に渡って書き溜めた。ただし他人には絶対に見せられない。

 なぜなら、筋書きが「もしエドゥアルド公爵との恋が叶ったら」という夢物語だからだ。想像の中の想い人は、ユーリィに優しく甘い言葉も掛けてくれる。

 いい歳にもなって、と自嘲の笑みが漏れる。だが紙に発散することで、恋心を押し込め第二王子の務めを果たしてこられたのも否定できない。

(やはり戯曲はみなを楽しませるだけでなく、わたしのさみしさも埋めてくれる)

 ――十年前、コンスタンティネとエドゥアルドの婚約式の折。

 立会人が続々と集まってくる王宮にて、薄灰色の礼服を着た八歳のユーリィは、図らずもエドゥアルド本人を迎えた。

『かっか。ようこそいらっしゃいました』

 十代の時点ですらりと長い彼の腕を引き、上演しつへと連れ込む。婚約式が始まるのは夕方で、まだ猶予はあった。

『今日のおしばいは、魔法でむすばれる恋人のおはなしです。どうぞ』

 日頃から空想するのが好きで、考えた台詞を兄に言ってもらって楽しんだ。今日は一念発起して自分が舞台に立ち、大好きな兄の婚約を祝えたらと思った。

 しかし、天井が高く反響のよい洞内にせっせと並べた椅子は、すべて空いている。

 エドゥアルドも、子守りしてはいられないという顔で言う。

『私はこれから貴殿の両親と話さねばならない。他の者に相手をしてもらえ』

『かっかも、おいそがしいのですね。だれもわたしの創ったおしばいを観てくれず、さみしいです……』

 誘いを断られたユーリィの碧眼に、じわじわ涙が滲む。さすがのエドゥアルドも居心地が悪かったのだろう、なめらかな羊毛の礼服の裾を翻してしまいはしない。

『戯曲があれば預かろう』

『ええと……ここにしかありません』

 ユーリィはエドゥアルドの手を取り、巻き毛の頭にぽふんと載せた。エドゥアルドは溜め息を噛み殺す様子で、もう片方の手で懐の万年筆を抜き出す。

 黒檀に銀のペン先の万年筆を。

『では、これを使ってしたためよ』

『書いたら、どうなるのです?』

 ユーリィはまっすぐな期待の視線を向けた。

『書けばわかる』

 素直に万年筆を受け取り、誰かが置いていった楽譜の裏に台詞を綴り始める。

『その形なら、今日都合のつかなかった者たちが後で見ることができる。自分で読み返すこともな』

 傍らのエドゥアルドが、戯曲の完成前に説明してくれる。だが、ユーリィはそれよりもっと大きな発見をした。

『あれ? 紙だけでなくさみしさまで、いつの間にか埋まっています。……もしかして、かっか』

 絶大な効果に、ある可能性に思い至った。

 二十人も入ればいっぱいの小さな洞ながら、念のため声をひそめる。

『これは魔法のまんねんひつですか? 実はわたしは、魔法遣いにあこがれているんです。みながしあわせになれるのなら、ふういんを解いてもいいと思います』

 かつて王族が操れた魔法は、攻撃魔法・防御魔法――林業や農業に使っていたのを応用したらしい――から解錠魔法、大掛かりなものだと死者蘇生、時間遡行などもある。

 逆にこんなささやかな、人の気持ちを明るくする魔法があったなんて。

『……。秘密にできるな? ユーリィ』

 禁忌の深刻さをまだ知らないユーリィは目を輝かせた。

『はい! 今日のことは、一生忘れません』

 第二王子の名前を憶えてくれていた喜びも相俟って、晴れやかに笑う。喜ぶあまり胸に抱き締めた万年筆を、「返せ」とは言わずにエドゥアルドは立ち去った。

 ――単に面倒だったのだと今はわかる。それでもあのとき掛かった恋の魔法は、ずっと解けないままだ。

 そのエドゥアルドが、本当に禁忌を犯すとは。驚いたが、失望はしていない。魔法遣いに憧れていた幼い自分が肯定された気もする。

 ただ、万年筆も自作の戯曲も、葬送の儀式のあと、いちばん深い洞窟より深く埋めてしまうつもりだった。エドゥアルドの蘇生によって、手放しそびれた。

 かといって、葬儀洞で聞いた『私が君を守ろう』などの台詞を書きつけてみる気にもならず、持て余している。結局、今夜も抽斗に隠し直した。



 将来王婿となるエドゥアルド公爵は、禁忌の魔法遣い――エドゥアルド本人はその噂を否定しなかった。

 そこまでしてフセスラウ国統治の片翼となる気構えだと、むしろ孤高を深める。何しろ祖父が双子の兄か弟かという僅差で、彼が次期王だったかもしれないのだ。

 エドゥアルドの怪我は順調に回復し、何やら書きつけたり、客間にシメオンを呼んで話したりしていたとか。エドゥアルドとコンスタンティネの婚儀の準備をこれまでどおり進めてよいのかという懐疑論を抑え込んだのもあり、一週間を区切りに明日ミロシュ領へ戻るとのことだ。

 コンスタンティネは心強そうだったが、ユーリィはどこか割り切れない。

(禁忌を犯したのはわたしのため、と言っておられましたが……)

 恋心がこれ以上再燃しないよう、客間に見舞いには行かなかった。エドゥアルドも、ユーリィを呼び寄せなかった。葬儀の際は名残惜しげにしたのに。

 蘇生直後の彼らしからぬ言葉、表情、行動の数々。

 やはり禁忌魔法の後遺症で、錯乱していたとみた。心身とも落ち着くとともに、ユーリィへの態度ももとに戻ったに違いない、何せ兄の婚約者だ――と、思いきや。

 なぜ私室の寝台で、エドゥアルドに組み敷かれているのだろう?

 もう蝋燭も消して眠っていた。首にくすぐったさを覚えて瞼を持ち上げれば、露台から射す月明かりに縁取られたエドゥアルドと目が合った。くすぐったいのは彼の黒髪が肌を撫でているせいだったのだ。

 象形刺繍の寝具の上から腰を跨がれ、身動きが取れない。状況を理解するとともに、心音が早まる。

「か、閣下。部屋をお間違えですよ」

「『夜這いにきたのだ』」

 夜這い? フセスラウ一の美貌を誇るコンスタンティネではなく、ユーリィを?

(もしや、政略結婚を前にご自身の本心と向き合われ……いや。揺り戻しだ)

 そんな戯曲みたいな展開はあり得ない。勘違いしかけた浅ましさに頬を赤らめつつ、労わりを込めて返す。

「禁忌の後遺症が癒えていないのですね」

「『違う。わからせてやる』」

 よく見ると、ユーリィを見下ろすエドゥアルドの紅眼には光がない。

 蝋人形のような表情を訝しむうち、骨ばった手が伸びてきて、ユーリィの寝間着の腰紐を解く。片手でも淀みない。

「閣下……! おやめください」

 たとえ片想い相手でも、過ぎた接触には戸惑う。エドゥアルドの左腕を掴もうとするも、力が入らない。

 ――「わからせてやる」というのは魔法の呪文なのか?

「ん、っ」

 愕然とする間にも唇を重ねられた。

 生まれてはじめての口づけ。十年間想い続けた人の体温に、とろけそうになる。こうするのを夢見なかったと言ったら嘘になるが、実現してはならない。

 エドゥアルドは兄の婚約者で、国の行く末を左右する婚儀を控える身。

 精一杯の抵抗として顔を逸らす。ぷはっ、と呼吸を取り戻す。

「これ、以上は、どうか……」

 しかしエドゥアルドはユーリィの相反する気持ちも知らず、あちこちに唇を降らせてきた。自分の上衣の胸もとがたわむのも構わず、舌先で臍のくぼみをつつく。

 ついにユーリィの下着の縁に指が掛かった。

「あっ、だめです……っ」

 無垢な身体をエドゥアルドに今にも暴かれるという、ユーリィ秘蔵の戯曲が上演されたかのような事態。受容限界を越え、涙が頬を伝う。

 途端、エドゥアルドがのけ反った。弾みで彼の懐から小型の書物が落ちる。

「くっ、強制力は健在か。さすがR15ブロマンス世界ゲームだ」

 悔しげな声、それでいて達観した表情。人間味が戻っていてほっとする。ただ、葬儀の夜に劣らず謎の単語を連発した。

(「キョウセイリョク」……、「げえむ」?)

 かと思うと、丁寧な仕草でユーリィの涙を拭う。

「この涙は私のせいだな。君を守りにきたのに『役』に動かされ、済まない」

 ユーリィの心臓が大きく跳ねた。「役」とは――

(まさか、公爵との想像恋愛戯曲を読まれた?)

 涙も引っ込む。戯曲を収めた執務机の抽斗には、特注の鍵をかけてある。とはいえ鍵はエドゥアルドにもらった万年筆で、同じ意匠のものをもう一本持っていてもおかしくない。しかも日中、ユーリィは私室にいなかった。

 おそるおそるエドゥアルドを見上げる。狂おしいほどの瞳に見つめられていた。

「二度と強制力には屈しない。私は必ず、今度こそ、君の死を回避してみせる。そのために死に戻った。破滅せず『スローライフエンド』に辿り着けたら、私の手を取ってくれ」

 エドゥアルドは重々しく宣言して、寝台を下りた。さっきユーリィの肌をまさぐったのとは明らかに違う手つきで寝間着を直してくれる。落とした書物もさっと拾う。

 ユーリィが思考を整理しきれず、何か言うことも訊くこともできないでいるうち、仕立て直した上衣の裾をひらめかせて私室を出ていった。

 静けさと夜闇が残るばかり。

 ユーリィはよろよろと起き上がり、絨毯を突っ切って、執務机にすがりついた。

 万年筆の飾りを、二段目の抽斗の鍵穴に差し込む。戯曲が変わらずそこにあるのを確かめ、はああと息を吐く。

 しかし安心はできない。エドゥアルドの真意も、本当にユーリィが死ぬのかもわからない。それに、混乱は未知の快楽に対するものもあった。

 唇を押さえる。エドゥアルドの温もりが忘れられない。

(「私の手を取ってくれ」などと……)

 エドゥアルドは残酷だと思う。次に会うのは来月、彼と兄との婚儀の場だ。ユーリィの恋心を徒に乱さないでほしい。

(婚儀を区切りに、この片想いも終わりにしましょう。第二王子として兄の婚儀を奏功させ、フセスラウ国のために生きていくのです)

 これ以上想いが募らないよう、ユーリィは決意を新たにした――エドゥアルドがそれより遥かに悲壮な決意を秘めているとも知らずに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る