第6話 見た目と名前は結構大事


 *6



 「熱っちいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」


 ドザッ!

 ベッドから落ちた。


 「痛ってえっ!」


 熱湯に入り、熱さで苦しむ夢を見て、蒸し風呂のように暑い自室の中で、僕は飛び起き、ベッドから落ちた。


 熱湯に入って死にかけた夢だ。

 石川五右衛門よろしく、かまゆでの刑である。


 断片的にしか覚えてはいないが、そもそも、夢などは断片的なものなのだが。

 僕が熱さで、死にかけの状態で砂漠を歩いていると、目の前にオアシスが現れ、その中の池に飛び込んだ。さながら、ワルサーP38の銃を愛用している大泥棒が、女性の寝ているベッドにダイブするかのように。



 そして、飛び込んだ池が急に、ぐつぐつと煮えたぎり、池の中から出ようとしても体が動かず、死にかけた夢である。

 最悪の目覚めだ……。そもそも、全ての原因は冷房が無いせいである。冷房さえあれば、こんな最悪な夢は見なかったであろう。

 体はぐっしょりと汗まみれで、昨日の夜にお風呂に入ったのに、また汗を流すため、お風呂に入ることになってしまった。


 冷房が壊れてから毎日、三回以上は不快な汗を流すために、お風呂に入っている。ほぼ冷水のシャワーだけだが、多い時で一日に、五回以上も入る時がある。

 毎日、こんなにお風呂に入る学生は、僕か、しずかちゃんぐらいだろう。

 幸い――なのかは、分からないが。時刻は、目覚ましをセットした朝六時の三十分前に飛び起きたので、シャワーに入る時間ならある。



 早々とシャワーをすませ、僕はまた、金髪の髪の毛に、黒染めスプレーをかけ――って、黒染めスプレーの残りが少ないぞ……。

 嫌な予感がしたが、僕の嫌な予感は見事に的中した。


 髪の毛の半分を黒く染めた所で、スプレーの残りが無くなってしまったのである。


 まずいぞ……左側だけ金髪で、右側だけ黒い髪になってしまった……。

  臥龍からは、昨日、「俺の助手として来るのだから、学生服を着て、寝癖もちゃんと綺麗に整えて来い」と、言われたのだった。学生服は、真夏の沖縄に行くの でブレザーは着なくても良いと言われたのだが、こんな、半分が金髪で、半分が黒髪の姿で現れたら、臥龍から帰れと言われるのは間違いない。


 別に、沖縄に行きたいわけでは無いから、行かなくてもいいのだが、沖縄に助手として同行しないと、冷房が手に入らない。

 なんとかしなくては――なんとかしないと、僕は今年の夏休み中ずっと、最悪の目覚めを味わうことになってしまう。

 僕は様々な言い訳を考えたが、他人の話しを聞かない臥龍に、僕の言い訳が通用するとも思えないので、最終手段に打って出た。


 油性のマジックペンで、左側の金髪を黒く染めたのだ。

 はっきり言って、こんな最終手段は絶対にやりたくはないが、これも全て冷房のためである。


 油性のマジックペンで、髪を黒く染めるなんて始めてなので、かなり苦戦しながら黒く染めた。時間も大幅に費やしてしまい、おまけに手は真っ黒になってしまった。


 僕が必死に、真っ黒になった手を洗いながら時計を見ると、臥龍との待ち合わせの時刻の、十五分前になっていた。



 慌てて身支度みじたくをすませ、家を飛び出す。

 臥龍の店までは、僕の自宅から歩いて約十分。そして、走れば五分もかからない距離なのだが、結局、走って臥龍の店まで行ったので、せっかく朝に冷水のシャワーで汗を流したのが無駄になってしまった。



 息も絶え絶えになりながら走り、臥龍の店が見えて来た。

 臥龍はすでに店の前に立っていた――そして、臥龍の隣には見知らぬ女性も立っていた。


 「おい、遅いぞ。普通は待ち合わせ時間の、十五分前に来るのが常識だろ」 


 臥龍に常識なんて言葉を言われると、腑に落ちないが、今は息を整えるのに精一杯だった。


 「君に紹介しよう。私の隣にいる方は、神子蛇灰玄みこだかいげんさんと言って。フリーランスで活躍されている、神道考古学者さんだ」


 「活躍だなんて、滅相も無いです。ただの名も無い研究者に過ぎませんよ。私なんて、臥龍先生の足下にも及びません。それに、神子蛇灰玄さんだなんて、何だかこそばゆいですわ。私のことは灰玄と呼んで下さい」


 「いやいや、何を仰いますか。灰玄さんは、実に謙虚な方ですね。あはははは」


 何だか二人の会話を聞いていて、無性に苛々いらいらしてきた。

 臥龍の奴、自分のことを『私』だなんて言って格好つけやがって、偉い学者にでもなったつもりなのだろうか。


 助手の一人もいない教授のくせに――

 と言うか、そんなことよりも、臥龍の横にいる女性は学者にしては、とても若い。


 見た目は二十代半ばぐらいだろうか。

 スタイルも良く、美白で小顔の、実に整った容姿端麗である。

 つまり美人だ……つり目がちょっと怖いけれど――おまけに、つり目をより際立たせるかのような、鋭いデザインの眼鏡が、学校や塾のスパルタ教師のような印象を受ける。


 服装もシンプルで、ピッタリとした黒いスラックスに、今さっきクリーニングから帰って来たばかりのような、ピシッとした真っ白いワイシャツに、長い黒髪をシニヨンにしている。

 見るからに、どこかの生真面目な教師と言った風体だ――

 まあ、容姿と服装だけを言えばだが……。

 何と言うか、つまり、容姿や服装なんかより、とても目立つものが二つ……あるのだ。


 つまり、おっぱいだ。

 真っ白いワイシャツから、これ見よがしに一人歩きして強調された、溢れんばかりのおっぱいは、今にもワイシャツのボタンが飛びそうな程である。

 まあ、第二ボタンまで開けているから、飛ぶことは無いかもしれないのだが――


 だが、だがしかしだ。

 今は真夏なのでワイシャツ一枚という、露出が高めの服装をしているが……。

 もし、今が真冬で露出の無い服装をしていたなら、メロンかスイカを泥棒してきて、胸の中に隠しているように見えることだろう。

 いや――もしかしたら、ナメクジみたいな名前の惑星にある、ドラゴン……待て待て、それは流石に大き過ぎる。

 質量的に無理があるし、そもそも、そこまで大きかったら化物だ。

 おっぱいの化物になってしまう。


 しかし、まあ。見るからに大きな胸である――髪型がシニヨンで、胸元を髪で隠していないから、よりいっそう胸が目立つ。


 こういうのを、巨乳や爆乳と表現するのだと思うのだけれども――

 何かが違うような気がする。

 強いて言うなら、自己主張の強い『暴れん坊おっぱい』とでも、言うべきなのだろうか。

 うーん……なんだか、とても大きいのは確かなのだが、うまく表現できないな……。


 「おい。さっきから何を黙っているんだ君は」


 僕が、おっぱいに対する考察――ではなくて、外見の考察を巡らせていると、臥龍の横やりが入って来た。


 「え?」


 「『え?』じゃないだろ。ちゃんと自己紹介をしなさい」


 「あ、どうも始めまして。僕は九条鏡佑です。漢字で書くと――」


 「それなら大丈夫だ。私が前もって灰玄さんに君の名前を伝えておいた」


 だったら自己紹介しろなんて言うなよ……!


 「始めまして、九条鏡佑さん。私は神道考古学を研究している、神子蛇灰玄です」


 そう言うと、僕に名刺を渡して来た。

 名刺に書かれていた漢字名は、神子蛇灰玄だった……何だか禍々まがまがしい名前だな。


 と言うか、灰玄って――法名みたいな名前だ。

 そもそも、何でここに神道考古学者の女性がいるのだろう。

 僕はてっきり、臥龍との、むさい沖縄旅行だとばかり、思っていたのだが……。

 その謎は、臥龍があっさり解決してくれた。


 「灰玄さんはな、私の大学での講義に参加されていて、私の出版している本に書かれている哲学に興味を持たれ、沖縄のホテルで、講演会の講師として招いて下さった方なんだぞ」 


 なるほど、この灰玄とか言う女性が、昨日、臥龍が言っていた、こいつのなんの役にも立たない本に、感銘を受けた人だったのか。

 世の中とは、色々な物好きもいるものである。

 そして臥龍よ――お前は灰玄の胸を見過ぎである。

 確かに目を引く胸だが……女性の胸ばかり見ながら話すのは……とても失礼だぞ。


 「臥龍先生の本を、読ませて頂いた時には目から鱗が落ちました。驚きと、発見の連続でしたわ。私は古い蛇神信仰について研究しているのですが、臥龍先生の哲学を学ぶことで、より深い人の信仰と、その中に隠れる人の思考について、新たな研究の道が開けそうです」


  「そこまで言われると、何だか照れてしまいますよ。あ、実は私の名前には、龍と言う文字があるんですがね。蛇は古代から龍と結びつきが深くて、蛇と龍が同 じ、水神や雷神や海の神であるとされる、龍蛇神信仰まであるぐらいなんですよ。いやあ、私も蛇神には昔から興味がありましてね、蛇神を研究されている灰玄 さんとは、なんだか他人とは思えない、深い縁を感じます」


 よく言うよこいつ……確か昨日の面接の時に、信仰は外側とか――何だか、神様は信じて無いみたいな口ぶりだったくせに。


 と言うか、こいつは絶対に神様なんて信じていないだろう。

 こいつが信仰してるのはおっぱいだ。

 臥龍はお下劣なおっぱい信仰者だ――そして、哲学者ではなく、劣学者れつがくしゃだ。


 なぜなら、今の臥龍の顔は、鼻の下をのばし弛緩しかんしきっているからである。

 誰が見ても、こいつは哲学者などでは無く、ただのエロいおっさんだと言うのは、一目瞭然だろう。


 「あ、そうだ。忘れてました。この九条君はまだ高校生ですが、毎日のように、どうしても私の助手になりたいと、しつこく懇願こんがんして付きまとって来るので、今回の講演会の助手として、私が特別に同行を許可した、千五百六十人目の助手です」


 「何で昨日より数増えてんだよ! 二倍以上も数増えてんじゃん!」


 「まあ、このように。うるさい奴ですが、まだ高校生なので多めに見てあげて下さい」


 「多めなのはお前の助手の数だろ。と言うか多過ぎなんだよ、大名行列でもするつもりなのか?」


 僕と臥龍のやりとりを聞いて、灰玄はくすくすと笑い始めた。

 いったい、この下らない会話のどこに、笑える要素があるのだろう……きっと、小学生以下の会話にあきれて、笑われているのであろう。


 「学者の方は、お固い人ばかりだと思っていましたが、臥龍先生は博学多識はくがくたしきな上に、ユーモアのセンスも持ち合わせていらっしゃるんですね」


 「いやいや、それほどの――者です」


 「否定しないで肯定しちゃったよ……」


 どうして臥龍に助手が一人もいないのか、何だか分かってきた……。

 そして僕は、こんな奴の助手になりたいと思っている、可哀想な学生だと、灰玄から思われていることだろう。

 何だか灰玄の前で、昨日の臥龍との会話を、全て録音したテープがあったら聞かせたい……。



 と言うか、僕はなぜ臥龍が突然、沖縄になど行く気になったのか分かった。

 こいつは灰玄の大きな胸に釣られて、沖縄に行く気になったのは大明白だ。

 そして、こんなエロい劣学者の助手だと、灰玄から思われているのは、僕にとって大迷惑だ。


 僕が心の中で溜め息をついていると、目の前でタクシーが一台止まった。


 「やっと来たか。それでは灰玄さん、お先に乗って下さい。レディーファーストです」


 紳士らしさの欠片も無い臥龍が、紳士的な発言をしても全く意味が無いと思いながら、僕もタクシーに乗った。

 どうやら、このタクシーで空港まで行き、飛行機で沖縄に向かうようだ。

 なんだか――この、おっぱい信仰の劣学者のせいで、名ばかりの助手と言う形で真夏に、しかも熱帯の沖縄に、強引に連行されることになったのだが、全て冷房のためだ。


 一泊二日の我慢をして、臥龍に冷房を買わせ、僕が夏休み中ずっと家でだらけるためである。

 暑い沖縄になんて行きたくは無いのだが、冷房を手に入れるための少しの我慢だ、そう考えれば、安い代償だろう。

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