第7話 変心
「はぁ──ふぅ──」
まだ体の震えが止まらない。
ベッドの上で横たわり、息を荒くするセナの姿を、クロエは満足気に見下ろしていた。
七年間、セナは様々な男と体を交えてきたが、一度とて気持ちいいとは思ったことがなかった。
少しでもまとまな男を見繕おうた思ったが、体はどこまでも正直だった。
本当は分かっていた──クロエと抱き合えば、気持ちよくなれることくらい。ただ、認めたくなかっただけだ。
「終わったか?」
扉が開き、レオが入ってくる。
セナは慌てて毛布で体を包み隠すが、彼は何の興味もなさそうに鼻を鳴らすと、クロエに向き直る。
「お盛んなことで」
「それはお互い様でしょう」
クロエは「さて──」とセナを再び見下ろすと、
「セナ。休んだらもう行っていいわよ。気が向いたら、また来なさい」
「おい、行かせて大丈夫なのかよ」
「大丈夫よレオ。そうよね、セナ」
セナはよろめく体にコートを着せると、ゆっくりと立ち上がる。
その息遣いは荒く、とろんとした瞳はクロエを見つめていた。
「今日は、帰らせて、もらう」
「ええ。また来てね」
セナはこくこくと人形のように頷くと、隠れ家のドアノブを掴む。
「そうだ、セナ」
隠れ家を出る寸前、クロエに呼び止められる。
「これを、持っていきなさい」
「これは──」
彼女が差し出してきたのは、ハードカバーの本だった。
ただの本ではない。焚書対象となっていて、セナのよく知る小説だった。
寄り添う黒人女性がプリントされた、その小説は──
「──カラーパープル」
母が最期まで手放すことはなく、銃弾に胸を撃ち抜かれてなお、死んでもなお、手から離れなかった禁書。
「知っているの?」
「焚書対象だからな」
「是非、セナに読んで欲しい」
「正気か?獣の本だぞ」
いくらクロエになすがままにされたからと言って、禁書にまで手を出すつもりはない。
だが彼女は首を横に振ると、セナの胸元にまで本を突き出す。
「『カラーパープル』はね……自由と幸福のために戦った、女性の物語よ」
★
「セナ隊長、心配しましたよ」
隠れ家を抜け、森を出ると粛清者の部下が待ち構えていた。
「すまない。見逃してしまった」
「遅かったですね」
「ああ……ちょっとな……」
「なに、持ってるんですか?」
「──ッ!」
脇に抱えた『カラーパープル』を指さされる。
「奴らから、押収した本だ」
「ちょうどよかった。この後、焚書をやるのでお預かり致します」
部下の手が差し伸べられる。
「いや、後で自分で行く」
「え」
「それから、今日のところは帰らせてもらう」
「あ、ちょっとセナ隊長」
部下の静止も聞かず、つかつかと足を進める。
かえって怪しまれてしまったかもしれない。だが、セナはこれ以上は誰かと対話をしたいとも思えなかった。
幸い、明日は非番だ。
クロエのことは、明日までに答えを出してしまおう。
★
鍵を差し込み、灰色の扉を開けると、いつも通りの無機質な内装が視界に飛び込む。
手前の茶色のクローゼットを開けると、同じ黒いコートジャケットが並んでいる。上着を脱いでハンガーにかけると、息をついてよろよろとベッドに腰掛ける。
クロエから受け取った『カラーパープル』を胸元から取り出し、表紙を眺める。
焚書対象というだけではない。これは、母を狂わせた忌々しき禁書だ。
「……愛は、規範の元に」
ガンフェルノの銃口を突きつける。
そうだ。燃やしてしまえ。
犬畜生にも劣る獣の本ではないか。
──自由と幸福のために戦った、女性の物語よ。
クロエの言葉が駆け巡る。
「自由と、幸福……」
愛は規範の元に……そこに自由はない。
自由など獣の思想だと、弾圧してきた。
そこに幸福は?
セナはずっと、殺してきた。本当に殺してきたのは、自分だったのかもしれない。
幸福でない人生に、意味はあるのか。
セナは気が付けばガンフェルノを胸元に戻し、表紙を開いていた。
ふわりと仄かな木の香りが鼻腔をくすぐった。
いけない。すぐに本を閉じろ──ページのめくる手を、理性が引き止めようとする。
セナはそれを振り切り、ページをめくって活字を目で追いかけた。
ページをめくる。
最後に印刷されたのはいつなのだろうか。文字のひとつひとつは色褪せ、時と共に黒さは失われつつあった。
「──」
しかし、禁じられたその言葉たちに、セナは魅了されつつあった。
次々とページをめくった。
時折、劣化により紙と紙が張り付いてぺりっと音が鳴るが、気にすることなく物語を読み進める。
物語は、規範の元に生きる彼女には決して届くことのないもので、その禁忌が彼女を釘付けにした。
二時間ほどした後──セナは『カラーパープル』の最後の1ページを読み終え、本を閉じた。
大きく息を吐いた。身体中に火照りを感じた。
この禁書の遺した種が、芽吹き、頭の中を書き換えられていくのを肌で感じた──。
★
「闘おう。自由と幸福のために」
後日──セナは『カラーパープル』を抱きしめながら、隠れ家の前でクロエに告げた。
「ありがとう、セナ」
彼女は満足気に微笑んだ。
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