第五章:目が開いてしまう夜

 宇宙船の廊下というのは、えてして静かなものだ。


 ……と、言ってみたはいいが、何度こういう廊下を歩いただろう。初めて来たときは確かに緊張感もあったが、慣れてくるとこの静けさがかえって妙に気味が悪い。やけに広いし、照明の色も“落ち着いてますよ”みたいな顔をして、逆に不安を煽ってくる。


 今日もやはり、静かだった。


 というか、静かすぎた。いつもの“静か”に、なにかこう、“意味深さ”が混じっている。静けさの奥で、何かがこちらをじっと見ているような気配。


 そして、それは――現れた。


 目の前の部屋から、ひとりの男が足早に現れた。少し背を丸め、目の焦点が合っていない。足取りはまっすぐなようで、どこかぐらついている。彼は、こちらに気づいた。その目が、ほんの一瞬だけ、私の目と合う。


 何か言いたげに、唇が動いた。


 だが、その言葉は発せられなかった。


 男は、息を飲み込むようにして、目を逸らし、通り過ぎていった。まるで自分自身から逃げているかのように――音もなく。


「え……?」


 彼はたしか……。なぜ、あんな顔で――


 立ち止まったまま、足が動かなくなっていた。が、ドアの自動開閉音が背中を押す。


「サイカンシツ」


 音声ガイドが無感情に鳴り、再感室のドアが開いた。


 中はやわらかな光に満ち、空中に浮いた白いソファ、そして饅頭の山。奇妙な風景のはずなのに、さっきの男の顔が脳裏にこびりついて離れない。


「いらっしゃいませなの」


 そのなにかが、喋った。


 まんじゅうだ。いや、やはり違う。目と口があり、手足らしき突起もある。何より、言葉を話している。饅頭が喋ったらそれは饅頭ではない――が、ここではその定義も怪しい。体表はつややかな乳白色で、全体的にふにふにしてそうな弾力。額には、手書き風の「ヤ」の文字。全宇宙の郷土菓子を融合させ、そこに魂を入れたようなビジュアル。


「わたし、モチ・ヤバミって言うの。ここ、“再感室”の案内をしてるの。あなた、今日が初めてなのね?」


 私は、一歩うしろに下がった。


「……あなたは?」


「あなたのそういう警戒する目、好きよ。なにか“ありそう”って気づいてる人の目。きっと面白い体験になるの」


 ぞわり、と首筋に何かが這った。モチ・ヤバミは勝手にこちらを気に入り、勝手に進行しようとしているようだった。


「あの……さっき出ていった彼、大丈夫なんですか? あんな顔……見てたら、ちょっと怖くて」


 モチ・ヤバミは、もちっとした両肩をすくめて、ふにゃりと笑った。


「ああ、ホサカ・エイジさんね。……そうね、彼は“見えすぎちゃった”のかもしれないわね」


「……ホサカ・エイジ」


 私は、初めてその名を聞いた。


「気にしなくていいの。あなたは“あなたの番”をちゃんとやればいいの」


“彼”という曖昧な影が、いま、名前を持って、胸の奥に居座る気配を帯び始める。名前があるということは、どこかでまた出会うかもしれない、ということなのだ。


「でね、再感室っていうのは、あなたが“過去を思い出す時に勝手にかけちゃうナレーション”を一回オフにする部屋なの。解説とか、言い訳とか、“あのとき自分は本当はこうだった”とか。そういうの、今のあなたが勝手につけちゃうの、わかる?」


「まあ……たしかに」


「その全部を取っ払って、五感と情動だけで記憶を再生するの。編集なしの実写ノーカット版。わたしそういうの、すごく好きなの」


 この「なの」の圧が強い。可愛げがあるように見えて、圧倒的にこちらの同意を待たない語り口。


「でも不思議よね。どうして人って、思い出すたびに過去をちょっとずつ変えちゃうんだろうね。“自分が見た現実”なのに、どうしてこんなにも曖昧になれるのか。あなた、気にならない? “本当のあなた”って、どこにいるのか」


 私は眉をひそめた。


「その“あなた”っての、私のことですよね?」


「そうよ。でも、あなたって誰なの?」


 饅頭に詰め寄られている構図がどうにも理不尽だ。だが、話の内容は妙に的を射ていて、すぐには否定しづらい。


「では、装置へどうぞなの。あなたの“本当の記憶”を一緒に覗いてみましょう」


 部屋の一角にあるドーム型装置が、まるでこちらの心を見透かすようにぬめりと光っている。内側にはクッションのようなものが詰まっていた。色は、あいまいな桜色。血色と安らぎの中間のような色。


「ちなみに、再生されるのは“あなたが最も忘れていた過去”よ。忘れたというより、“思い出したくなかった”のかもしれないけど」


 モチ・ヤバミの声が、すこしだけ沈んだ。だが、すぐに元の調子に戻る。


「それじゃ、はじめましょう。はい、横になって……あ、緊張してる? いいのよ、わたしが全部見ててあげるから」


 やめてほしい。


 だが、私はすでに装置に体を預けていた。柔らかいクッションが身体を包み込む。桜色の天井がゆっくりと閉じていく。


 私は目を閉じた。直前のモチ・ヤバミの声が、まだ頭の中に残っている。


「さて、“あなた”は、どこにいるのかしらね……」




 まぶたの裏に、音がない。形も、色も、呼び名さえも持たないものが、遠くで揺れていた。


 それは、まだ記憶ではなかった。ただ、ひとつの温度だった。


 すう。息の音だけが、自分のものとして続いていた。


 足元に、湿りが降りてくる。ざらりとした地面。冷たい。その冷たさは、靴を通じて足裏から背骨へと伝わる。


 闇。曇り。水たまりが静かにゆれて、街灯の光をひそやかに反射する。


 手の中には何もない。ポケットに差し込んだ手が、そこにあることだけが自明だった。風。すこし寒い。首筋に触れる布の動きが、時間を測る。


 声はない。音もない。気配だけが、沈んでいる。


 ひとり。柵のむこうに、黒く眠る川。沈黙が、世界のかたちをしている。


 立ち尽くしていた。ただ、それだけ。


 意味がない。でも、そこに在る。


 感情が、あとからついてくる。理由のない胸の疼き。喉の奥の、静かな圧。


 視界の端に、もうひとつの影。名もなく、輪郭だけが人間の形をしている。うつむいたその姿に、近づくことはできなかった。


 涙が一粒、こぼれる。頬に沿って流れ、落ちる前に溶けて消える。


 あの夜を、私は知らなかった。知ろうともしなかった。


 そうして、場面がゆるやかに滲みはじめる。風が止まり、空が褪せ、すべてが静かにほどけていく。


 巻き戻すでも、進むでもない、ただの“還り”。


 何も持たず、言葉もなく、私は、ひとつの夜の中から抜け出していった。


 装置の蓋が静かに開いた。


 桜色の天井が視界の端から引いていき、再びやわらかな部屋の光が戻ってくる。私はクッションに身を沈めたまま、しばらく目を開けられなかった。


 身体は温かかったが、内側はすこし冷えていた。どこかに風穴があいたような、妙な空洞感が残っている。


「おかえりなさい、なの」


 開いた目に最初に飛び込んできたのは、あの饅頭だった。相変わらずふっくらとしていて、つややかな額の「ヤ」の字がなぜか先ほどよりもくっきりと見える。


「どうだった? ほら、なんというか、“ご自身でもびっくりな空虚感”、味わえたんじゃない?」


「……どっちかというと、空っぽだったことに驚いたよ」


「でしょう? 人間って、自分の“なにがなかったか”をちゃんと見る機会って、あんまりないのよ。つい“あったもの”ばっかり見ちゃうからね」


 モチ・ヤバミはふにゃりと笑ったような雰囲気をまとった。思っていたよりも、残すものが何もないってことのほうが、ずっと怖かった。


「ところで、ひとつ聞いてもいいかしら?」


「なんだよ、今さら」


「“自分の感情って、誰の責任?”って訊かれたら、どう答える?」


 唐突な問いだった。だが、先ほどの記憶の渦から抜け出したばかりの私には、考える隙間もなかった。


「……自分じゃないの?」


「ふふ、すぐにそう言えるの、すごくいいと思うの。大正解ってわけじゃないけど、悪くないわ。けど、他の星のひとたちだとね、“母親”って言ったり、“恋人”だったり、“天気”のせいにすることもあるのよ。面白いでしょう?」


「つまり、“外側のせい”ってことか」


「そうなの。でも、それが完全に間違いってわけでもないの。だってあなたが今日、寂しい気分になったのは、空が曇ってたせいかもしれないし、コンビニで好きな味のプリンが売ってなかったからかもしれないの」


 私は軽く頭を振った。


「おい、それは極端すぎるだろ」


「でも、それくらい些細なことで人の“気分”はできてるの。そして、“気分”がそのままあなたの“人となり”を作っていくの。だってほら、“気分屋”って言葉、あるじゃない?」


 私は口をつぐんだ。妙に説得力があった。饅頭のくせに。


 モチ・ヤバミはくるりと一回転し、空中でポンと跳ねた。


「でね、あなたが“あの夜”を忘れていたのは、自分が“空っぽだったこと”を認めたくなかったからなの。違う?」


「……ああ。たぶん、そのとおりだ」


「でもさ、空っぽって悪いことじゃないのよ。“空いてる”ってことは、そこに何かが入る余地があるってことなの」


 モチの語りは、どこか独り言のようで、しかししっかりとこちらを試すような熱を帯びている。


「わたしがね、昔、“わたしはどこにいるの?”って聞かれて困ったことがあるの。“ここ”って答えたら、相手が泣き出しちゃって。“ここ”じゃない場所に自分を探してたんだって。でも、自分って本当に、“外からの音”でできてるのよ。あなたが見たもの、聞いたもの、感じたこと。それがあなたを“あなた”にしてるの」


「……あんた、何者なんだ」


「え? モチ・ヤバミよ?」


 笑ってやがる。というか、それ以外の名乗り方を持っていないという意味で、あれはたぶん本名なんだろう。いや、なんでもいい。


「そろそろ時間みたい。部屋の換気もしなきゃだし。あ、最後にもうひとつ」


「なに?」


 モチ・ヤバミは、少しだけ顔――らしき部分を近づけて言った。


「もし、次にあなたが何かを感じたとき、それが“あなた自身”なのか、“誰かの残り香”なのか、ちょっとだけ考えてみるといいの。ね?」


 ふにゃりと、意味のありそうでなさそうな笑みを残して、モチ・ヤバミはドアの向こうへ跳ねていった。


 残された私は、ソファに腰を下ろし、軽く頭を抱える。


 哲学とは、こんなにもモチモチしていたものだっただろうか。


***


 空気が、また違っていた。


 再感室を出て、船内のデッキスペースに出ると、目の前に広がっていたのは宇宙ではなかった。いや、正確には宇宙なのだが、目に映るそれはまるで絵画のようだった。濃紺の背景に、白と紫の星がばら撒かれ、ところどころに歪んだ渦が巻いている。


 誰かが意図的に“宇宙っぽい何か”を描いたとしたら、たぶんこうなる。自然のようで、どこか人工的な整いすぎた美しさ。


 私は手すりに肘をつき、ゆっくりと息を吐いた。


 さっきの記憶の再体験で、何かが変わったわけではない。だが、確かに“知らなかった自分”に触れた気がした。それは感動ではなかった。ただ、ほこりをかぶっていた棚の奥に、うっかり大事な箱を見つけてしまったような――そんな感触。


「よう、考えてる顔してるな」


 その声に、思わず肩が跳ねた。


 振り返ると、そこにはトモエ・ケレスが立っていた。相変わらず何をしているのか不明な男だが、どこか“船に馴染んでいる”のが腹立たしい。手に持っていたのは、紫色の缶コーヒー。たぶん人工重力のせいで中身はこぼれていない。


「……ケレスさん、また唐突ですね」


「唐突なのは人生だ。お前もそう思うだろ?」


「まあ、否定はしませんけど」


「なーんかさあ、俺たちの人生ってさ、寝起きのラジオ体操みたいなもんだったんじゃね?」


 私はうっかり缶コーヒーを取り落としそうになる心持ちで、ケレスの横に並んだ。


「どういう意味です?」


「決まってんのよ。動かす部位も、順番も、テンポも、音楽も。首回して、腕振って、深呼吸して、“はい、終わりです”って、誰かが言うの。で、何が残ると思う? “生きてた感”だけよ」


「……」


「疲れるよな。“自分の意思”で生きてたつもりだったけど、全部“決まってた”んじゃないかって、ふと我に返る瞬間がさ」


「わかるのが腹立つんですよ、それ」


「だろ?」


 ケレスは口角をほんの少し上げて、缶を一口すすった。


「でもね、だからこそ面白いのよ。“決まってた”なかで、“俺が選んだ”って錯覚できる瞬間があったら、それだけで奇跡なんだわ」


「錯覚でも、奇跡ですか」


「そう。“錯覚”って字、いいよね。“あやまりを感じる”って書くんだよ? でもその“あやまり”の中でしか感じられないものが、きっとあるの」


 私は言葉に詰まった。いつの間にかケレスのたとえ話が、私の内側の深いところに爪を立てている。


「たとえば、“自分の顔”って、実際には鏡越しにしか見たことないんだぜ? でも、誰もそれを疑わない。自分の顔なんだから当然わかってるって、信じ込んでる。ほんとは誰にも、“自分”なんて見えてないのに」


 ケレスの声は、いつの間にか静かになっていた。


「じゃあ、自分ってなんなんでしょうね」


「知らん。知らんけど、そう考える時間を持ってるってことが、たぶん“お前”なんだと思うぜ」


 私はふっと笑ってしまった。そうか、そういう雑さでいいのか。


「……ケレスさんって、ちゃんと意味のあること言ってるのに、なぜか全部酒の席で聞いたような気がするんですよ」


「そりゃあ、俺の言葉にはアルコールが混じってんのよ。発酵してんの、経験と感傷で」


 言ってるようで、やっぱり言ってない。だが、それがいいのかもしれない。


 遠くの星が、ゆっくりとまたたいた。あるいは、まばたきしたのは私の方だったのかもしれない。


 自室に戻る廊下は、またしても静かだった。


 静かなのは当たり前なのに、どうしてこんなにも気になるのか。足音だけが、自分の存在を確かめるように床を叩いている。その音がなかったら、自分がここにいることすら信じられなくなりそうだった。


 廊下の端に、小さな鏡があった。非常用の整備チェックに使うものらしい。普段なら気にもとめないそれが、妙に気になって足を止めた。


 ふと、覗き込む。


 そこには、私がいた。


 いや、正確には“私のような誰か”がいた。


 顔は私のものだ。年齢も、髪の具合も、表情の筋肉の位置も知っている。でも、ほんのわずかに、何かが違った。目元か、頬の影か、あるいは口角の上がり方か――説明のつかない違和感が、じわりと広がる。


 その顔は、どこか“自分っぽくない”。


 けれど、嫌ではなかった。


 むしろ、「ああ、これはこれで“私”だな」と思える不思議な納得感があった。思えば、あの夜――川沿いで立ち尽くしていたとき――私はあの顔をしていたのかもしれない。けれど、見ていなかったのだ。鏡も、誰の視線もなかった。だから気づかなかっただけ。


 今、その顔をようやく見た。


 そして思う。


 あの夜の“私”も、たぶん――


「……こんな顔をしてたんだな」


 ポツリと呟いた自分の声が、意外なほど穏やかだった。


 私は目を閉じる。


 何かに包まれているような感覚があった。眠気ではない。体温でもない。どこかの、誰かの、視線のようなもの。遠くから、そっと見守るような、名前のつかない温もり。


 夢は見なかった。


 けれど、目を覚ましたとき、私は――誰かに見られていた気がした。

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