映画のようには

朝本箍

第一話

 黒い背景に白い文字が下から流れていくのに合わせ脳内に流れるのは、今まで観ていた映画じゃなく、昨日まで恋人と呼んでいたじゅんの色々な表情だった。好きなところはいくつもあったけれど、何よりもまず最初に挙げていたのは顔だ。

 滑らかな額から意思を感じさせる上がり眉、そして明るい茶の瞳はひと筋縄ではいかない、そんな強かさを持っていた。高さのある鼻筋も、薄い唇も、純の顔にあるものはすべて唇で触れ、その形や温度を感じたことがある。そして昨日、そのすべてが宇宙で瞬く星よりも遠ざかった。

 スクリーンから離れた席のせいで、ただでさえぼやけがちなスタッフクレジットが、ぼわぼわと白いもやのよう揺らめく。目元が熱い。端から見るとマイナーで、しかもやけに尖ったサイコホラー映画で泣いている変わったヤツだろう。

 どうにもならない笑いがこみ上げ、頬が持ち上がった瞬間涙が流れ落ちる。一度道が出来てしまえばあとはそこを辿るだけ、あとからあとから生ぬるい液体が頬を滑っていく。せめて嗚咽だけは、息を詰めると小さく鼻が鳴った。

 人を愛するということ。男性同士で付き合うということ。思っていることは言葉にしないと伝わらないこと。純と一緒にいた二年とちょっと、教わったり教えたりしたことは数限りない。

 大学の入学式で始まった関係は一度も友達になることなく、昨日の話し合いで元恋人となった。これという原因がある訳じゃないと純は言っていたが、それが何よりも辛い。二年とちょっとが「何となく」終わるなんて。

 それでも互いに目の前で連絡先を消してからカフェを出、反対方向へ歩き出せた自分を褒めたい。切り出した純は最初から最後まで申し訳なさそうで、おれは泣かないようにするのが精一杯で、そんな顔すんなよ、その一言も言えなかった。

 気づけば場内が明るくなっている。ちらほら前方にいた観客の姿も消えていた。涙は落ち着いてきたものの、鼻の方へ流れた分がしつこく留まっている。早く出ないと。そう思いながらも、あと少し落ち着くまで、そんな気持ちで場内を見渡せばカラフルな椅子と大きくはないスクリーンが、懐かしさを呼び起こす。

 純は映画、特にホラー映画が嫌いだったので何となく足が遠のいていた映画館に朝イチで駆け込んだのはどちらに対してかわからなかったものの、確実に復讐だった。別に、行くなと言われていた訳じゃない。それでも一度だけふたりで来た時の何とも言えない表情が、行こうと思うたび浮かんでは足を止めさせていた。

 今日はレイトショーまで居よう。この映画館にはカフェが併設され、外へ出なくとも時間を潰す手段には困らなかったし、何より内容にこだわらなければスクリーンは四つはあるので映画を観続けることも出来るはず。

「何か、ありましたか?」

 鼻をぐずぐず鳴らしながら考えていると心配そうな声がすぐ横から聞こえた。咄嗟に鼻を覆って振り向けば、スタッフの男性が気遣わしげな視線を向けている。やば。

 こんな顔の説得力は不明だが取りあえず、大丈夫ですと席から離れようとしたおれを、

「……あっ、鍵井かぎいさん?」

 意外な言葉が引き止めた。おれの名前。

「え、はい。ん?」

 間の抜けた声を出しながら改めて向き合うと、スタッフは平均身長ぎりぎりのおれよりも更に小柄で、やや見上げるようにこちらを見ている。艶のあるパーマの下からのぞく大きな丸い瞳、そしてベタだけれどそうとしか例えようのない、林檎のように赤い唇は簡単に忘れられるほど印象の薄いものじゃなかった。

阿那田あなださん、あれ、カフェじゃ……? いやでも、うわ、お久しぶりっす」

「やっぱり! えー久しぶりですねぇ。引っ越しちゃったのかと思ってました」

「はは、急に来なくなりましたもんね、おれ」

 綺麗な言葉で飾られるのが似合う人、阿那田さんは足繁く通っていた頃は併設のカフェスタッフだった。映画を観て、コーヒーを飲むのが定番だった頃、プレッツェルとの組み合わせが美味しいと教えてくれたのがきっかけでぽつぽつと会話をするようになったのだ。大体は上映している映画の話だった気がする。

 当時も制服のギャルソンエプロンがよく似合っていたが、映画館スタッフのダークトーンシャツも、こんなにオシャレな制服だったかと思わせるほど着こなしていた。やっぱり顔がいいな、この人。

 眩しさと懐かしさへ目を細めそうになりながらも、

「にしても、また会えて嬉しいです。阿那田さんいつから映画館に?」

「去年末かな。応援は前からやってたんだけど、こっちの方にも興味が出てきて変えてもらったんですよ。運営一緒なので」

 会話を始めてすぐ、阿那田さんの視線がどうにも定まらず動き回っていることには気づいていた。いつまでも居座ってたら上映の邪魔だよな、と思い当たった瞬間、上映後の場内に残っていた理由も合わせて思い出す。おれの顔、ヤバいんだった。

 今更でも慌てて、いつの間にか外していた手で顔を覆うとまた泣き出したように見えたのか、阿那田さんは優しく微笑み、

「あ、これ、良かったら」

 ポケットティッシュを差し出した。道端で配られる宣伝入のぺらぺらしたものではなくしっかりと厚みのあるタイプで、素敵な人ってのはポケットティッシュも買うもんなんだと感心してしまう。

「すんません、ありがとうございます……っ、」

 一気に何枚かを取り出して鼻へ押し当てると、恥ずかしさや消えたはずの悲しさがこみ上げ、止まっていた涙が滲むのがわかった。鼻がまた鳴る。阿那田さんにしてみれば、久しぶりに映画館へやって来てサイコホラー映画で号泣する迷惑な男ってところだろうか。

 それは、ちょっと、かなり、嫌だ。

 遂に流れてきた鼻水を堪らえようと俯いた時、控えめに腕へ添えられた手の温度を感じた。もう触れられない純の顔がまた浮かぶ。

「……おれ、振られた、んです」

 他の言い方は出来なかった。

「大学入ってから付き合ってたんですけど、昨日別れようってなって。で、気分転換みたいな感じで映画観に来たんすけど……全然、まだ、傷が生々しいとか、そんな感じでエンドロール観てたら、つい」

 言葉にしたのは今が初めてで、改めて自分で傷をのぞき込むような行為に胸が痛む。それでも久しぶりに再会した阿那田さんに「訳がわからない迷惑男」として見られるのだけは御免だった。迷惑の部分は現在進行系だが、先程のサイコホラーでなおかつ残虐描写が盛り沢山な上にバッドエンドな映画で泣いていると思われるのは回避したい。

 真っ赤な顔でまだ格好をつけようとしている、そんなところも良くなかったのかも。阿那田さんは俯いたままのおれへ手を添えたまま言い訳を聞いていたが、言葉が途切れた瞬間、

「よし! ご飯行こう!」

 力強く宣言した。

「はい! ……はい?」

「オレ今日早番だから、あと映画一本分位で上がれるんですよ。なんで、ご飯食べに行きましょ。出しますよ。単純ですけど美味しいものって最強ですから。肉と魚、鍵井さんはどっち派です?」

 伝えたかったこと以上のことが伝わってしまった気がする。恐る恐る顔を上げると柔和な笑顔がそこにあった。

「いやっ、でもそんなっ」

「いやいや。ほらほら、どっちが気分ですか? 予約しておきますから、十四時半にロビーで待ち合わせしましょう」

 ここもそろそろ片付けないと。有無を言わせない口調に、

「うぅ、じゃあ魚で! 最近食べてないんで! ありがとうございますっ、出しますから!」

「気にしないでいいですよ、美味しいものを食べる口実に利用させてもらったんですから。魚いいですねぇ。美味しい海鮮居酒屋あるんで任せてください」

「あ、ありがとうございます」

 花開く唇が気にしないで、ともう一度同じ形を作り、じゃあまた後で、と手を振ったところで深く頭を下げ、場内を後にする。日の差し込む明るいロビーを通り抜け、トイレの鏡に映った赤い目元と頬、そして泣きぼくろに厚めの唇と自分の顔を確認したところでやっと、今までの出来事がエンドロール後のオマケじゃないんだと実感した。涙は跡形もない。阿那田さんのお陰で次の映画では泣かなくて済みそうだ。

 もらったポケットティッシュをポケットへしまい込み、用を済ませ、諸々身支度を整えてから次のシアターへ駆け込む。時間帯で購入した次の映画はバチバチのアクションで、観客にはふたり組も多かったがおれの脳内はさっき見た林檎らしい赤さと、久しぶりの鮮魚が大部分を占有していたので案外大丈夫だった。爆発の閃光に照らされたカラフルな椅子が変わり身の早さを笑っていたとしても。

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