第19話黒帯に恋焦がれる
「昇段試験、緊張するなぁ」
中学三年生の十二月、黒帯(初段)になるための昇段試験を迎えました。
カツアゲで自身の未熟さを痛感してから、僕とまっつんは心を入れ替えました。服装を正して、昇段試験へ向けて真面目に練習に励んできました。
特にまっつんの変化は著しく、生徒会に立候補して副会長になり、髪型も七三分けになっていました。
「黒帯に俺はなる!」
まっつんの黒帯への熱量は一番でした。入部当時から空手経験者の父親に「黒帯になるまで絶対やめるな!」とプレッシャーをかけられていました。
有段者になると履歴書の特技に書けるので、黒帯を目標に頑張る人は多いです。僕も少林寺拳法部での目標の一つとして、常に頭の片隅にありました。
会場の大学に着くと、小学生から親の世代まで様々な受験者がいました。
「筆記試験不安だなぁ・・・」
少林寺拳法の昇段試験には、実技試験に加えて筆記試験があります。そのため、少林寺拳法の理念などを地道に勉強しないと合格できません。試験直前には、三人で集まって試験対策の勉強会もやりました。
例えば、『力愛不ニ(りきあいふに)』についての問題では「力の無い愛は無力であり愛無き力は暴力である」と解答します。覚えることが多いので、実技試験よりも筆記試験が不安でした。
試験前日、先輩から「もし落ちたら少林寺拳法部の恥だからな!」と釘を刺されていました。さらに僕たちには「不合格なら後輩の金田に恰好がつかない」というプライドもありました。
「まっつん何見てるの?」
試験開始まで少し時間あったので、三人で大学の中庭で時間をつぶしていました。すると、まっつんが手のひらに収まる小さな紙を熱心に見ています。
「これ?秘密兵器(リーサルウエポン)」
まっつんの手のひらの紙にはびっしりと文字が書かれています。なんと、カンニングペーパーを用意していたのです。青少年の育成を目指す少林寺拳法の教えに中指を立てるかのような行為です。とても学校の秩序を守る副生徒会長のすることとは思えません。
カンニングペーパーには「真の平和の達成は、慈悲心と勇気と正義感の強い人間を一人でも多く作る以外にない」などと書かれています。どんな精神状態でこれを書いたのでしょうか。彼のメンタリティに驚嘆しました。
少林寺拳法の開祖も、まさか自分の死後の二十一世紀にこんな怪物が現れるとは思わなかったことでしょう。
”ビリビリ!”
チュピくんがまっつんのカンニングペーパーを破りました。
「おい!なにすんだよ!?」
まっつんは慌てています。
「もし人の作った"罰"からは逃れられても、自分の犯した"罪"からは逃げられないから止めておけ」
チュピくんはドストエフスキーの「罪と罰」という小説が大好きでした。主人公のラスコーリニコフのように、まっつんが後に苦しむ姿を見たくなかったのでしょう。
「わかったよ…もともと本気で使う気はなかったしな…」
まっつんは止めてもらってホッとしたように見えました。
こうして、未来の警察官によってカンニングは紙一重で防がれたのです。この紙一枚を踏み越えるかどうかで人の運命は変わっていくのかもしれません。僕はまっつんのことを、カンニングするような人じゃないと信じていました。
「筆記試験を開始します」
筆記試験は午前、実技試験は午後に実施され、当日に合否が発表されるスケジュールでした。
初めて入る大学の教室は大人っぽく感じました。受験生が一斉に問題に取り掛かる様は、学校の試験と変わりません。ただ、試験官の少林寺拳法連盟の人たちは異様に厳つい風貌でした。
中学校の試験中は、高齢の先生や女性の先生が見回りをしていることも多あります。しかし、昇段試験ではスーツを着た屈強な二人の男性が見回りをしていて威圧感がありました。おそらく、少林寺拳法の鍛錬を長くやっている人たちなのでしょう。カンニングでもしようものなら、その場で拳立てをさせられそうでした。
「俺…筆記試験落ちたかも…」
筆記試験が終わり昼食休憩に入ると、まっつんは弱気な言葉を口にしました。事前に対策していなかった問題も出題されたので手応えがイマイチだったようです。
「全部できたぜ!100点超えたらどうしよう!」
チュピくんは不思議な心配をしていました。僕は、自信と不安が半々といった気持ちです。
休憩中は、大好物のから揚げ弁当を食べながら、午後の実技試験のことを考えて過ごしました。
「実技試験、乱取りを行います」
午後の実技試験は、初段で習得する技の試験に加えて『乱取り(らんどり)』がありました。乱取りとは、空手でいう組手のことです。ヘッドギアや胴などの防具をつけたうえで、攻守交替の殴り合いを行います。
少林寺拳法は護身術なので基本的に直接殴り合いません。しかし、乱取りは別です。技の試験は練習通りにできていたので、乱取りが最後の関門でした。
防具をつけると、チュピくんと向き合います。相変わらず、その大きさに圧倒されます。僕が先に攻撃側でした。合掌礼をすると、チュピくんへ突きや蹴りを繰り出します。
「あっ!」
身長差があったので、腹部を狙った中段蹴りが、誤ってチュピくんの股間へ向かってしました。大会でのオカマ演武から、金的蹴りは彼のトラウマになっていました。厳しい少林寺拳法部でも、金的蹴りはタブーとされています。
蹴りを出した瞬間に、このまま当たったらヤバイと直感しました。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
突然、蹴りを出した僕の股間に激痛が走りました。一瞬の出来事で、自分の身に何が起こったのかわかりませんでした。『金的膝受波返』というカウンター技を決められたようです。
少林寺拳法には、金的蹴りを受ける技があります。脚を上げながら僕の蹴りを膝で受けると、受けた足でそのまま股間を攻撃したのです。自分の急所を守りながら、相手の急所を攻撃する技ですが、実践的ではないと思っていました。
チュピくんは大会でまっつんに蹴られてから、金的蹴り対策を入念に練習していました。どうやら、彼は金的のエキスパートになっていたようです。金的の魔術師と言ってもよいかもしれません。
防具をつけていましたが、股間から腹部周辺にかけて激しい痛みに襲われました。吐き気がして、その場にうずくまると試験中に半泣きになりながら悶絶しました。「危機を迎えた我が身を救いたまえ」と、金的の神様に祈りました。
「攻守交替して!」
金的蹴りのダメージが抜け切れないまま、チュピくんの攻撃の番になりました。彼は、野獣のように殺気立った攻撃を容赦なく繰り出してきます。僕がわざと金的を狙ったと思ったのでしょうか。変なスイッチが入っているようで、普段の優しい彼とは別人のようです。防具をつけていますが、興奮しているチュピくんを前にすると心許なく感じます。
「うおおおおおおおおッッ!!」
チュピくんは片足を軸に回ると、僕に背を向けながら遠心力を使って蹴りこんできました。テコンドーなどで使われる『バックスピンキック(後ろ回し蹴り)』です。全く想定しておらず、軌道も読めなかったので、腹部にまともにもらって吹き飛びました。胴の上からでしたが、衝撃で一瞬呼吸が止まりました。あやうく、昼食のから揚げをリバースするところです。
チュピくんは審査員から「少林寺拳法以外の技を使わないように!」と注意されました。彼は"ふしゅー、ふしゅー"と臨戦態勢の息遣いです。そのまま乱取り終了までボコボコにされました。
彼のトラウマは絶対に刺激してはいけないのです。
「試験落ちたかも・・・」
実技試験が終了すると、結果発表まで待機でした。僕は、乱取りでチュピくんにボコボコされたので実技試験が不安でした。金的を蹴られて悶え、バックスピンキックで吹き飛び、散々でした。まっつんは、実技試験よりも筆記試験の結果を心配しています。
チュピくんは「他にもやりたい技があったのにな~」とマイペースないつもの彼に戻っていました。彼は護身術よりも格闘技の方が向いているかもしれません。
試験結果が発表される時間になると、顧問の先生が険しい顔でやってきました。その表情を見ると不安が膨らんできます。
「結果は・・・」
「なんと・・・」
「全員合格だ!がはは!」
顧問の先生は、僕たちを弄ぶようにしばらくためてから、結果を発表しました。乱取りはヒドいものでしたが、合格出来てホッとしました。まっつんも嬉しそうにガッツポーズしていました。
三人とも無事に昇段試験に合格することができたのです。まっつんは「ムダな演出いらないだろ!」と陰で顧問に怒っていました。
「そうだ、筆記試験で"不活殺人"と書いたやつがいたそうだ!人を殺すのはだめだぞ!」
顧問の先生がチュピくんを見ながら言いました。チュピくんは『不殺活人(ふさつかつじん)』という言葉を『不活殺人(ふかつさつじん)』と書き間違えていました。不殺活人とは、「誰かを傷つけるためではなく、自分や他人を守り、活かす」という少林寺拳法の教えです。
警察官を目指す男が人を活かさずに殺すという、非常に物騒なことを書いていました。笑い話ですが、乱取りでの彼の殺気を思い出すと、笑えない部分がありました。
「黒帯かっけーな!!」
試験から三週間後に黒帯と有段者バッヂが届きました。茶帯の時も嬉しかったですが、それ以上の喜びでした。黒帯を身に纏うと世界最強の男になったような錯覚に陥りました。まっつんは「これで親父に胸張れるよ!」と誇らしげでした。
一年生の頃は、ここまで続けられる自信がありませんでした。鏡に映る黒帯姿の自分を見ると、あらゆる苦悩が洗い流され、辞めずに続けたことを素直に褒めようと思いました。
思い返せば、先輩に怯え、練習でボロボロになり、チュピくんとまっつんに支えられ、なんとか生き抜く日々でした。頑張ったことが形になるのは嬉しいことだとしみじみと思いました。
「じゃ!俺パトロール行くから!」
チュピくんは有段者バッヂを制服につけると、電車でのパトロールに向かったのでした。
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