#20 越えられない壁
「びー?!」
体育館が近づくや否や、夏琴は大声を上げて同級生———桜庭響希の渾名を叫びながら、彼女に向かって手を振った。
階段の陰にしゃがみ込んでいた響希は近づいてくる花音たちの存在に気がつくと、すぐに驚いた顔で立ち上がった。
「そんなところで何し……て…」
階段を降りて体育館の扉の前に到着すると、真っ先に響希と対面する。
そこで飛び込んできた光景に、花音と夏琴は目を見張った。
「先輩が……」
呆然と立ち尽くす響希の足元で、同じくフルートパートである坂下初音が、ぐったりと座り込んでいた。被服室からは響希の姿しか確認できなかったため、花音はすぐに状況が理解できなかった。
「先輩が珍しくフルートの教室来なくて、探してたんだけど、そしたらここに……」
そう言って、響希は困ったように視線を下に落とす。いつもふざけてばかりの響希のらしくもない焦った様子は、場を緊迫とさせた。
「先輩……大丈夫ですか?」
夏琴が初音に近づき、強張った肩に手を置く。心配そうな夏琴の声に、初音は真っ青な顔を上げ、自身の周りに集まる後輩たちの姿を見上げた。
「なんやそのヘナヘナなパス出しはぁ、お前ら!!!」
突如、体育館の壁をぶち破るように響いた怒号に、花音は飛び上がった。ひぃっ!と初音が悲鳴を上げる。
咄嗟に体育館の方を振り向くと、がら空きになっている扉から中の様子が見えた。今日は女子バスケットボール部が練習しているようだ。
体育館のど真ん中で仁王立ちし、世界中どこまでも響きそうな声量で叱責を飛ばすのは、女子バスケ部の女顧問・
国語担当で二年二組担任、年齢は三十代前半といったところ。化粧が濃く声も大きい、The・体育会系といった風貌の彼女は、若の宮中学校で一番恐れられている教師だ。
花音は一年だしクラスも部活も違うためあまり関わりはないが、吹奏楽部の副顧問である浅田詩歩とは気が合うようで、よく二人で不真面目な生徒に指導をしているところを見かける。
そんな鬼教師が顧問を勤める女バスは、若中で一番過酷な部活だといっても過言ではない。女バスが体育館を使う日は、いつも純子の厳しい怒号が外にまでよく響いている。今日は試合を控えているからか、普段よりも一際激しい様子だ。
「だから違う!そこは左にボール回せってさっきから何っ回も言ってんだろうが!ちったぁ性根入れて聞けや!」
「……っ…」
純子がまた部員たちに怒号を飛ばした瞬間、初音は身を震わせた。まるで亀みたいに小さくうずくまって、耳を塞ぐ。
あ、怖いんだ。花音はそこでようやく理解した。初音先輩は上野先生の怒鳴り声が怖くて、こんな風に動けなくなっているんだ。
「……私、先輩たち呼んでくる」
夏琴は音も出さずに立ち上がると、階段を駆け上がっていった。夏琴がいなくなり空いた初音の隣に、入れ替わりで花音はしゃがみ込み、横から覗くようにして先輩の顔色を窺う。
初音は自身の胸を押さえ、ハァ、ハァ、と荒い呼吸を繰り返す。地面につけた手足は小刻みに震えており、額からはポタポタと汗が流れては落ちていく。
こんな初音の姿は、以前にも音楽室で見たことがある。けど、今の方が遥かに辛そうだ。
純子の怒り様も確かに凄まじいが、それに対する初音の怯えようも尋常ではなかった。自分が怒りの矛先を向けられている訳でも無いのに。きっと純子は、体育館の外で縮こまっている初音の存在に気がついてすらいない。
どうすればいいのか分からなくて、花音はただただ初音の横に居ることしかできない。
「おーい!」
そのとき、聞き覚えのある溌剌とした声が響いた。響希の更に後ろから、美鈴と、美鈴の同級生である優歌が駆け寄ってくるのが見えた。花音は咄嗟に立ち上がる。
「せんぱ……!」
「大丈夫だから」
助けを求めるように駆け寄ってきた後輩の肩を、美鈴は優しく叩く。少し遅れて夏琴が階段を駆け下りてくる。二人の先輩を呼び出すため、恐らく生徒会室まで行ってくれたのだろう。
美鈴は今だ陰にうずくまっている初音の隣にしゃがみ込むと、はぁ、と軽いため息をつく。
「なんで一人でこんなところにいるの。後輩に探させて」
「……ぶ、ぶちょうかいの、ひにち…」
美鈴が初音の背中をさすり始めると、初音の口からは途切れ途切れの言葉が出てきた。部長会?と美鈴が呆れたように首をひねる。
「上野先生、今日授業中もずっと機嫌悪かったじゃん。そんな先のこと、今日知らなくても良いのに」
「だって、本当にいつやるのか分かんなくて」
「他の部長に聞けばいいのに……」
ごめんね、と初音が呟いた。無意識に花音の眉間に皺が寄る。なんでこんなに苦しそうな人が謝らないといけないのだろう。そう思わずにはいられなかった。
「やっぱり、私なんかに部長なんて出来ないよ」
荒い呼吸の中で、無理矢理絞り出したような。そんな親友の一言に、美鈴は一瞬、沈痛な表情を見せる。
「……後で聞くから、とりあえず移動するよ。立てる?」
立てる?と聞きながらも、美鈴は初音の意思を確認しないまま彼女の二の腕を掴み上げる。端で見ている花音は思わず冷や汗をかく。そんな雑に扱って大丈夫なのだろうか。
「優歌ごめん、後よろしく」
美鈴は隣で立っているもう一人の親友の肩を叩くと、初音の腕を自分の肩に回し、階段を上がっていった。初音はフラフラとした足取りで、最後まで顔色は悪いままだった。
美鈴がいなくなると、その場には一気に静寂が訪れた。一先ず上の者から指示を仰ぎたいものだが、肝心の優歌はビクともせず、花音たち後輩から背を向けたまま、その場に立ち尽くしている。
どんな表情なのかはこちらからは伺えないが、今の優歌からは、猛烈な無言の圧力みたいなものを感じる。
以前、何度か向けられたことがある、彼女の睥睨の眼差し。あれは、確かな「敵意」を持ってこちらを捉えていた。そのことを思い出して、息が詰まりそうになる。
「あのっ!」
痺れを切らしたのか、響希が一歩、優歌に近づく。その足取りは微かにぎこちないもので、響希も優歌の存在を恐れているのだと分かった。
「さっきのこと、教え———」
「あの子ね、怒鳴り声とか無理なの」
突然の優歌の一言に、響希がビクリと肩をすくめた。優歌はゆっくりと振り返ると、そこで初めて花音たちと視線を合わせた。
怒っていたらどうしよう。花音は咄嗟に身構えたが、優歌は普段通りの静かな表情だった。
「どこから話せばいいかな。去年の顧問の件は知ってるよね? 若中吹部に何があったか」
去年の顧問。若中吹部。いきなり違うワードが出てきて、その場に一瞬、戸惑いの空気が流れる。ふぅ、と優歌は静かに息を吸う。
「宮沢は単なる音楽的な指導も勿論だけど、結構体育会系のタイプでもあって、礼儀系に厳しくてさ。合奏のときとか、返事の声が小さかったりやる気無かったりしたら怒鳴られて、揃うまでずっとやり直しさせられたりしてたの。入部したばかりのときは声出しだけでその日の練習終わったりして、声小さい子は先輩より大きい声出せるまで居残りとか」
おぉ、と花音は圧倒される。吹奏楽部は別名「文化系運動部」とも言われている。単に楽器を吹くという行為自体に実は相当な体力を消耗するため、学校によっては体力向上のためにランニングや筋トレなどを日常的に行うところもある。
言われてみれば確かに、上級生は揃いも揃って返事も挨拶もしっかりしている。よく顧問陣からは「先輩たちと比べて一年生は」と決まり文句のように嘆かれるけれど、そんな軍隊的教育を受けて洗練された人たちと同じ扱いをされても困る。
「そんな宮沢と一層相性悪かったのが、初音なの。初音は臆病だからさ、しっかり挨拶!とか、大きい声で返事!とかそういうの難しくて。まぁあの子、昔からそんなんだし、初音のこと小学校から知ってた先輩もいたから、ある程度は許容されてたんだけど……宮沢はそうはいかなかった」
優歌もまた、美鈴と初音と同じく銀小出身だ。同級生で小学校からの付き合いであるこの三人は、後輩たちから「二年生トリオ」と言われるほどの仲で、いつでも一緒にいる。
花音は自分の表情筋がどんどんキツくなっていくのが分かった。宮沢はそうはいかなかった。そのセリフを聞いた時点で、なんとなく事の顛末をすべて察してしまったから。
「最初の頃は、挨拶は社会の基本だとか、返事せん奴は楽器も上達せんぞとか、その程度だった。それでも中々声出し出来ない初音を見て、宮沢も段々イライラしてきたんだろうね。元々、合奏練習の度にあの人の怒号が飛び交うのが日常茶飯事だったし、奏者なら誰に対しても暴言&人格否定当たり前みたいな感じだったけど、初音に対しては特に酷くて。お前みたいなやる気も実力もない奴は部の迷惑でしかない、下手くそは生きる価値ないからお前みたいな奴は死ねばいいとか、毎日毎日繰り返して」
ひっ、と近くから怯えたような声がして、見ると、夏琴が口を手で覆い固まっていた。ついさっきまで花音にあんな優しい笑顔を向けていたとは思えないほど、その顔色は真っ青だ。その隣では響希も顔を引き攣らせて絶句している。
優歌の話に、花音が「当たり前」だと思っていた常識が、次々と覆されていく。教師が生徒に向かって「死ね」と言う?あり得ない話だ。本来、教師はその発言を止めるべき立場だろう。
花音が過去に出会ったことのある「怖い先生」の中でも、そのようなセリフを吐く者は誰一人として居なかった。花音の心を読んだように、信じられないでしょ?と優歌は鼻で笑う。
「でも、そんな風に日常的に怒鳴られていたら萎縮して、余計に音も出せなくなるもの。事実、初音も合奏の度に泣かされて、声出しも演奏も良くなるどころか日に日に悪くなっていった。それで宮沢も更に苛立って……負のループってやつ。ピーピー泣くことしか脳がねぇ奴に楽器はいらないって、初音からフルート取り上げたかと思えば、腕掴んで投げるように音楽室から追い出したりして。今思えばあの子、よく辞めなかったと思う」
耳が痛くなるほどの壮絶な話を、唖然としている後輩たちを他所に、優歌は平然とした様子で淡々と話し続ける。
一年生の頃の初音が、合奏中に罵声を浴びせられ、涙を流している姿を想像してみると、胸が締め付けられてしまう。
大の大人の男に突き飛ばされて、転んで痛そうにしている生徒を見ても、宮沢は無視して扉を閉めて練習を再開させたのだろうか。楽器を取り上げてしまえば練習すら出来ないというのに。
初音先輩、可哀想。花音にはそれ以外の感想が出てこなかった。
「宮沢がいなくなってからも、初音はずっと萎縮したままだった。日常の些細な物音とか、誰かのちょっとした大声とか、そういうのに異様に過敏になった。特に先生の怒鳴り声はトラウマらしくて、例え自分が怒られてない状態でも体に力が入らなくなるんだって」
……あ、だから。花音の中ですべての点と点が繋がった。奏多に突き飛ばされてすぐ起き上がれていなかったのも、その直前に「邪魔しないでくれよ!」と至近距離で怒鳴られていたからだ。
純子の怒号に異常なほど怯えていたのも、音楽室で立てなくなったのも全部、去年受けた宮沢の不適切指導からくるトラウマによるもの。ようやく、すべてを知れた。
「ひどい……」
「初音だけじゃない。『いつも明るくてしっかり者の先輩』も、『優しくて部員思いの部長』も、『なんでも完璧にこなせるマドンナ』も、こっちはみんな同じなの」
————偉そうなのはそっちだろ。転校生のくせに。
————君はその時ここにいた?どん底から這い上がろうと奮闘した俺たちを見ていた?
花音の脳裏に過った奏多の言葉と、優歌が露骨に醸し出す拒絶の視線と冷ややかな空気が、花音たちとの間に壁を作り上げた。
目には見えなくて、けど、決してこちらからは越えることはできない、大きな壁。
「そっちには分からないことだろうけど。私達の痛みなんて、何ひとつ」
それだけ言い放って、優歌はその場を去った。彼女は結局、一度も花音たち後輩に笑顔を向けることはなかった。
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