#18 このバカっ!

 

「やっぱり大瀬くん、意識してるのに何故か音程低くなるとかそういうのじゃなくて、そもそも自分の吹いてる音がよく分かってないのよね」


 楽器庫に入るやいなや、大きなため息が花音を出迎えた。


 そこには憂いのある表情で俯いている美鈴と、額に手を当てて何かを深く考え込んでいる吹雪が、花音に背を向けて何やら話し合っている。


 今日は木管七重奏は図書室で練習している。もしかして本当に莉音が苦情を言ったのだろうか。二人は花音の存在に気づいておらず、花音は二人の後ろを静かに歩く。

 

「やっぱりそうなんですね。なんかおかしいと思ってたんですよ。自分が『音程低いから上げて』とか言っても、なんのことか分からないって感じでキョトンとしてるし」


 また、あのことか。楽器ケースを取り出しながら、花音は心の中で独り言を呟く。以前は間違えてホルン棚に手を突っ込んだりもしていたが、流石に掛け持ちして一ヶ月も経てば間違えない。


 これまでの指導などを得て発覚したことだが、祐揮のピッチが悪い原因は「ピッチの良し悪しが分からない」「自分の吹く音をちゃんと聴けていない」のだ。


 例えばチューニングをするとき、前のハーモニーデレクターから鳴っている音をよく聴いて、合わせるようにして自分の音を鳴らす。


 そこでハーモニーデレクターの音と自分の音がズレて聴こえた場合、「あ、自分、音程合ってないな」という事を、自分で気づくことができる。


 そうとなれば唇の形を変えたり楽器の管を抜いたりして調節すればいいのだが、おそらくこれが祐揮の場合だと「ハーモニーデレクターの音と自分の音のズレに気づけない、分からない」のだ。


 とはいえ、これは楽器を始めたての初心者にはよくあることで、実際、花音も最初の頃は「音程を合わす」ということがどんなことなのかよく分かっておらず、美鈴から「音程高い/低い」と指摘されて言われるがままに調節したりもしていた。


 それからもチューニングや合奏を繰り返すことで耳が慣れていき、徐々に指摘されなくとも音程の良し悪しを自分で気づくことができるようになってきた。しかし、おそらく祐揮はそれが未だに分からないままなのだ。


「やっぱり、まだ基礎も固まってないうちにコンクールに出させたのが悪かったんですかね……」

「そうね。特にトロンボーンは一本だけだし、音程の粗は無視して先に音量を求めてしまったのも良くなかったわ」

「いやでも、そこは仕方ないですよ。本当今年は色々異例でしたし。まぁ、多分本人の壊滅的な音感の無さもあると思いますけど」

「正直、ちゃんとしたトロンボーン専門の講師に見てもらうのが一番いいと思うのよね」

「トロンボーンの二年がいればなぁ……」

「まぁ直属の先輩はねぇ、居るに越したことはないけどね。ね、篠宮さん」


 突然名前を呼ばれて、ひゃっ!と花音は肩をすくめる。振り返ると、さっきまで美鈴と話していた吹雪が、謎の微笑みを花音に向けていた。うわっ居たの?と美鈴が目を見張る。


「ユーフォはホルンと違って先輩が居ないから大変でしょう?」

「……あ、まぁ、はい」

 

 ぶっちゃけ「inC」の楽譜の読み方に慣れれば、ホルンよりもユーフォの方がよっぽど吹きやすいのだが。ユーフォは重さ自体はかなりあるものの吹く際は太ももの上に置けるし、ホルンはすぐ音外れるし。


「篠宮さんも特別レッスンやる?」


 吹雪はそう言うと、含み笑いで花音をじっと見つめる。いや!遠慮しときます!と花音は手で制止しつつ首をブンブンと横に振った。



【♪♪♪】


「……はぁ…」


 音楽室に入ると、またもや大きなため息が花音を出迎えた。今度は男子のものだった。


「ちょ、おま、元気出せよ」

「………」

  

 花音の目に飛び込んできた祐揮の姿は、あの響介が励ましの言葉を掛けざるを得ないほどに、意気消沈していた。


「ど、どうしたの?」

「また先生に死ぬほど毒吐かれてた」


 あぁ、と花音は察する。祐揮との特別レッスンに限らず、吹雪の指導は容赦がない。演奏の中の足りない部分をことさら取り上げては、吹雪の納得が得られるまで何十回でも同じところを繰り返させる。自分の欠点を終わりなく突きつけられて、正直ぐったりとしてしまうこともある。


「大瀬くん、大丈夫だよ。私も出来ないところあるし」


 そう言って、舞香は控えめなガッツポーズを決める。複数掛かりで慰めても、祐揮はがっくりと項垂れ、ため息を吐くばかりだ。なんだかこっちまで気が滅入ってくる。


 あぁ、少し前までのあのアホ面がもはや懐かしい。そういえば、音楽室で祐揮が最後に居眠りをしている姿を見たのはいつだっただろう。おいどうすんだよコレ、と響介が呆れたように同期を指さす。


「ねぇ」


 そのときだ。ずっと後ろの方で黙っていた夏琴が、トランペットを手にこちらへやってきた。花音は希望が見えた気がした。夏琴なら、今の祐揮を元気づけられるかもしれない。


「大瀬はさ、何を思ってそんなに落ち込んでいるの?」


 夏琴は半ば呆れたそうな声でそう聞く。えぇ?!と花音は思わず眉を顰める。


 そんな、理由なんて、今の祐揮の姿を見れば明確だろう。毎日のように顧問に色々と手厳しいことを言われれば、誰だってこんな風にもなる。 


「……先生に色々言われるのが辛いの?」


 変わらず黙り込んだままの祐揮を見て、夏琴は更に追求する。ううん、と祐揮は俯いたまま首を振った。


「俺の音が汚いせいで、みんなに迷惑かけてる」


 え、とその場にいた誰もが目を見張る。今にも消えそうな声で、祐揮は続ける。


「俺、良い音と悪い音の違い、全然分からない。先生や先輩に『音程低いから自分の音しっかり聴いて』って言われても、ドならドにしか聴こえない」


 金管パートの一年生は、部に入部する以前から音楽に関わりを持っている者が多い。響介は実家が楽器屋だし、花音はピアノ、夏琴はエレクトーンを小学生の頃から習っているし、舞香に関しては言わずもがな経験者だし。


 そんな中で祐揮だけが唯一、吹奏楽部に入ってから初めてまともに音楽と関わったタイプなのだ。入部当初、楽譜が読めなかったのも祐揮だけだった。音感が無いのもそのせいではないだろうか。

 

「別に、怒られるのは我慢できる。でも、俺が居ることで演奏悪くなるなら、俺が居ないほうが、部活、上手くいくと思う」


 それは、紛うことなき祐揮の本音だった。なんて返せばいいのか分からず、花音は何も言えなかった。それはみんなも同じだったようで、場は静寂に包まれる。


 そんな。祐揮がそんな風に思っていたなんて、全然気づけなかった。同じパートなのに、あんなにいつも近くにいたのに。


「……大瀬」

 

 静寂を断ち切るよう、夏琴はぽつりと名を呼ぶ。ようやく祐揮が顔を少し上げた―——次の瞬間。


「このバカっ!」


 その怒号とともに、バシンッ!という強い衝撃音がその場に鳴り響いた。どえええええ?!と花音は飛び上がる。


 夏琴が祐揮の頭頂を、素手で力いっぱい叩いたのだ。ほへぇ?と、祐揮は頭を手で押さえてきょとんとしている。予想外の出来事で状況が飲み込めていないようだ。


 みんなも揃って目を丸くし、口をあんぐり開けて呆然としている。夏琴はしょっちゅう祐揮を小突いたりしているし、なんならみんなの中で祐揮は「殴ってもいい奴」みたいな認識になっているが、ここまで本気なのは見たことがない。

 

「か、夏琴ちゃ……」


 いてて、と夏琴は手を擦りながら眉をしかめる。祐揮を叩いた彼女の手は赤く腫れていた。それを気にしないように、夏琴は祐揮と真正面から向き合う。


「それってつまりあんた、今の部内を取り巻く問題はすべて自分のせい、って思ってるわけ?」


 夏琴の問いに、祐揮は考え込むように俯いた。少し経って、祐揮はこくりと頷いた。

 

「そう。本当にそうなら、すごい幸せだよね。あんたのピッチさえ治っちゃえば、すべての問題は解決するんだもん。―—んな甘い話があるかぁ!」


 再び、バシンッ!と打撃音が響く。一回目ほどの衝撃はないものの、流石に何度も頭を叩かれる祐揮が可哀想になってきて、花音は思わず顔を引き攣らせる。


「あのね、あんたがここに居ようが居まいが、あんたのピッチが良かろうが悪かろうがね、大した変わりはないから」


 いつもの冷静さを取り戻したのか、夏琴はハキハキゆっくりと言葉を紡ぐ。カチ、と丸眼鏡のブリッチを指で押し、鼻頭にフィットさせる。


「今は、たまたまあんたの問題が目立って浮上しているだけの話。今のあんたは自分のことに精一杯で意識してないだろうけど、木管なんてもっとやばいことになってるし、問題の火種は他にも沢山、この音楽室のどこかしこに潜んでいると思う」

「……ひだね?」

「そう。この先起きるかもしれない問題の種。それは先輩かもしれないし、来年の一年生かもしれない。―—―—もしかしたら、この中の誰かかもしれない」


 そう言って、夏琴は同級生の姿を見渡す。そうだ。今は祐揮に同情している花音だってこの先、祐揮と同じ立場にならないとは言い切れない。


 それは響介にも、舞香にも、夏琴にも、誰にだって当てはまる。だから、花音は決して祐揮のことを責められない。いや、責めてはいけない。


 それは祐揮が「可哀想だから」という理由なんかじゃない。自分が同じ立場になったときのことを想像して、そのときの自分がされて嫌だと思うこと。その失敗を責められたり、侮辱されたりすること。


 自分がされて嫌なことは、決して他人にしてはならないのだ。人として大切なことに、花音は初めて気づいた。


「そのとき、あんたがそのの力になれたなら、それはもう充分、私達が今のあんたの『迷惑』を許す理由になるからさ」


 そう言って、夏琴は祐揮の頭をぐぃっと引き上げ、ついでに祐揮のズレている眼鏡もかけ直す。


 祐揮は夏琴の言葉を理解できているのかいないのか、ぼんやりとフリーズしていた。ある意味、普段通りの祐揮に、なぜだか夏琴はおどけて笑った。


 耳下で結った夏琴のお下げ髪が、頭の動きと合わせて揺れる。夏琴が祐揮に向かってまともに笑いかけたところを、花音は初めて見たような気がする。


「……ったく。女子に慰められるなんて、音程どうこうよりそっちの方がよっぽど恥ずいだろ」

「あれ? 北上くん、前に花音ちゃんに励まされて大笑いしたとか言ってなかったっけ?」


 はんっ、と偉そうに鼻で笑った響介に、舞香がきょとんと首をひねる。は、はぁ?!と響介の顔が赤く染まる。

 

「ち、ちが、それはその、コ、コイツの演奏が笑っちまうほど下手くそだったからだよ!」

「はぁ?!」


 響介は必死になって言い訳を並べ立て、咄嗟に花音を指差す。何もしてないのにいきなり暴言を吐かれて、花音も流石に黙っていられない。


「え、『俺を笑顔にしてくれてありがとう』とか言ってたのはどこのどいつですかー?」

「は?!そこまでは言ってな……う、うるせぇ!黙れ黙れ!下手くそ!音外し!」

「小学生かよ……」


 呆れた果てたように呟く声が聞こえ、振り返ると、そこには美鈴が立っていた。吹雪との話はもう終わったのだろうか。

 

「はい、練習始めるよ!今日は♪=120で最後まで通してみるから!」


 パンパンッ!と美鈴は手を叩く。はい!と張りの良い返事が響く。

 

「ほら、祐揮!元気出して!あんたには頑張ってもらわないと困るんだから!自分も選挙ポスターまだ終わってないけど、今日はぶちかますよ!」


 祐揮の肩をガシッと掴んで、美鈴は胸を張る。それ明日まで、と祐揮が即座に突っ込む。まぁ何とかなるし!と美鈴は笑い飛ばした。


 花音もつられて笑いかけた————そのとき。背筋がゾクッと凍った。


 がら空きになっている音楽室の入り口の向こうから、鋭い眼光。


 まただ、と花音は肩をすくめる。少年のような顔立ちの少女が、花音たちをじっと睨みつけている。今日もまた、手にシンバルのマレットを持って。


「花音、始めるよー?」


 もう定位置についている夏琴が、未だに楽器も持たずに棒立ちのままの花音に声を掛ける。どうやら花音以外は誰も気がついていないらしい。こちらを睥睨する、石井優歌の存在に。


 あ、うん!と慌てて返事をし、花音は床に立てていたユーフォニアムを持って、みんなの元に向かう。


 去り際にもう一度、入り口の方を恐る恐る振り返ったが、優歌はもう居なかった。

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