第6話 黒色鼠狼処

 噴気孔から蒸気が噴き出す様は、まるでそれが生きているかのようだ。黄色い硫黄を塗られた岩で創成された唇が、確かな意思をもって体内に溜まった悪い物を吐き出しているかのように見える。気付けば、そこかしこに開いた口唇が、間隔を置いて反吐を吐き続けていた。

 先ほどから地面が小刻みに震えていた。先に見える山の頂きが、大空を覆わんばかりに噴煙を立ち上がらせている。

 空気の淀み、揺らめきから判る。生命を蝕むほど濃い硫黄の香り。そして肌を焦がす灼熱の世界。それらは現実のように眼前に現れているが、一切が感じる事の出来ない無味無臭の幻覚のようだった。

 此処は果たして地獄だろうか。

 喬狐から聞いた悪人の末路。最後に行き着く終着の地。ならば奴が此処に居るのは、ごく自然な事だろう。


「見給え。我らの叡智と想像をはるかに越えた大自然の創造はかくも美しい」


「うるせぇよ。この地獄絵図の何処が美しいってんだ」


 悪態を喰らっても何処吹く風といった態度のまま、混世魔王は微笑みを崩さずに、風景を愛おしく抱きしめるように両の手を拡げた。


「年若い君の記憶の片隅に何故この様な風景があるのか甚だ疑問ではあるが、今の君の心象は、この景色を観れば理解出来る。憎いのだろう。この私が」


「あー」


「しかし、もはや君は私で私は君だ。一蓮托生というものだ。ここは君の期待する地獄ではないし、私も死んではいない」


 ちッと舌打ちすると、かつての石猿。美猴王は、苦々しい面持ちで混世魔王を睨みつけた。その様子に、混世魔王は首を竦めて苦笑いをしてみせた。


「私の美しい尊顔も品性が猿だと醜いものよ」


「てめぇ。俺は俺だからな。勘違いするなよ。お前は二度と此処から出さねぇし、許すことは永劫にねぇ」


 いいや、と混世魔王は、首を横に振った。鼻持ちならないを絵に書いたような仕草である。


「何度も云う。君はもう私だからな。離れる事など出来ない。ふふふ。二人は、ずっ友という訳だ」


 爆発音とともに山の頂きに火柱が立ち昇った。頭に登った血液が沸騰しているのを感じる。奴は拳で叩き潰して、粘土のようにこね混ぜた後、あの山頂の火口に放り込むのが適当だろう。


「うぅん。感じるぞ。激情の熱いパトォスを感じる。こんなのは初めてだ。殴り合いも良かろう。痛みを感じることは出来ないが、きっとお互いをもっと理解り逢える」


 美猴王の右の鉄拳が、何事か喋り続ける混世魔王の腹部に抉り込む。躰をくの字型に折り曲げる程の衝撃はあるが、やはり痛みがないのか混世魔王は、やたら嬉しそうに美猴王の横っ面を殴り返した。殴られた感触のみで痛みがまるで無い。これでは、このまま続けても千日手は明らかだった。

 壮絶な殴り合いの最中に「畜生」と美猴王が吠えた。もう一度「畜生」と吠えた瞬間。美猴王は瞬き一度の速さで現実世界に引き戻された。


 眼の前には小さな猿の背中があった。

 猿の毛に潜む蚤を潰しているところで、急な目眩とともに混世魔王の前に意識を連れて行かれた。振り向いた猿が不思議そうな表情で、手が止まったままの美猴王を伺っている。

 此処は樹海。美猴王は岩壁の近くに流れる渓流の河原にある苔生した岩の上に居た。岩の傍らでは蚤取りの順番待ちの猿達が座っており、河原では他の猿達が陽当りの良い場所で躰を暖めていた。先刻のあれは夢ではない実感が、厭な気持ちの悪さとともにある。混世魔王に呼び出されると強制的に、精神だけの世界に引き摺られ落ちてしまうらしい。自らの脳内に巣食う同居人の存在は、煩わしいことこの上なかった。


 彼ら自身の進言で、狐阿こあ牛平ぎゅうひれ坎源山こんげんざんの偵察に向かっている。目的は混世魔王の配下の動向だ。

 主を失って数日が経っているが、一向に動きがない不自然さは、却って薄気味悪い煩慮の念を産む。散り散りになっていれば御の字であるが、主の敗北を察して仇討ちに、いよいよ花果山に攻め込む算段か。或いは、これは最悪と言えようが、傲来国ごうらいこくの人間共に手を出してなどいたら、花果山に棲む獣にとっては厄介な事になりかねない。

 不穏な空気が薄っすらと、しかし確実に花果山の樹海に漂っていた。




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