第3話 I'm the one standing on the moon②

 季節は穏やかに移ろい、霜止みて苗出る時節。石猿が誕生して二度目の春がまもなく終わりを告げようとしていた。

 花果山の猿たちは石猿を家族として迎えた。

 石猿は、美猴王の体毛に巣食う蚤を指で探して潰していた。新入りで下っ端の石猿はもっぱら他の猿の蚤取り役だったが、意外とこれが愉しい。

 美猴王は日中ぼんやりと過ごす事が多い。岩壁の頂きに雄々しく立つ際の気迫は凄まじいものがあるが、気持ち良さげに背中を掻かれている時の彼は老齢の猿一匹となる。但し、その躰にはおびただしい数の傷跡がある。それらは先頭に立って外敵から群れを護り続けた者に与えられた勲章だと石猿は考える。故に彼の背中に触れることが赦されるのは、なによりも誇り高い心地だった。

 美猴王の左脇腹には、いつか樹海に現れた人間が弓矢で放った鉄の矢尻が埋まっている。鉄の毒がじりじりと美猴王の生命を削り続けている理不尽が、石猿には我慢ならなかった。癒せる手立てを、知恵を石猿なりに振り絞ったが、初めから無いものは、縦に振ろうが横に振ろうがどうしようもない。

 懊悩しつつも穏やかな日々を送る石猿が、とある噂を耳にした。

 花果山水簾洞の奥にどうも神仙の類いが居付いたらしい。花果山水簾洞とは、文字通り花果山に在る水簾の裏に続く鍾乳石連なる洞窟である。そして神仙とは神の御業の使い手と聞いたことがある。場所がはっきりとしているのに、あくまで噂に留まる理由はただ一つ。雪解け水がまだ多いこの時節に水簾の水壁を越える事が難しいからだ。水簾の勢いと幅は、夏の倍ほどに増しており、それは、もはや飛瀑と呼んでも差し支えない。

 石猿は程良い葉っぱを選び、頭に載せると、躊躇なく滝口を見下ろせる岩の上から飛び込んだ。あまり深く物事を考えないのが彼の短所である。当然、滝壺深くに沈むことになった。雪解け水は全身が、ずたずたに千切れそうなほど冷たい。しかし彼は何度もそれを繰り返した。何度も何度も繰り返し、遂に運良く、水簾の裏側の突き立った岩肌に掌を引っ掛けた。

 山の真上にあった太陽が、もうすっかり身を隠していた。息も絶え絶えに石猿は洞窟の横穴までよじ登る。哀れ、彼の顔と尻は、しも焼けになって赤くなってしまっていた。横穴の先は空洞が続いているようだ。

 長い年月をかけて水が石灰岩を侵食することで、地下にできた空洞は奇妙な造形の岩が立ち並ぶ天然の迷宮だと云えた。加えて意地の悪いことに、床には斬れ味鋭い石筍が立っており、大変に歩きづらかった。天井からつららのように伸びる鍾乳石からは、時折、水が垂れてきて石猿の背中に落ちてくる。

 しばらく奥に進むと、目の端で石筍の横を縫うように動く影を見付けた。小さな動物のようであるが、栗鼠や野兎よりは大きい。樹海で見た覚えのないものだ。身体は丸く転がるように、跳ねるように洞窟の奥へ消えていった。追いかけようとすると、先の方から風が吹いてきた。石猿を吹き飛ばすほどの勢いはないが、体毛が凍りつく程寒い。瞼の上下が張り付き視界を奪われた。足の裏の皮膚が地表に張り付き、動く事が出来ない。やがて為すすべ無く石猿の氷漬けが出来上がった。


 外敵が動かなくなったことを確認していたのか、白い獣が洞窟の奥から現れた。石猿の氷漬けを近付いて眺めている。もう一匹の一回り大きいが同種であろう白い獣と丸々とした小さな獣も現れて、恐る恐ると遠巻きに様子を伺っている、。

 最初に現れた白い獣が石猿の氷漬けから目を離した隙である。石猿の腹部が、ばりばりと割れて中から現れた石猿の両腕が、獣の首を掴んだ。凍死した石猿が、石化して蘇ったのだ。首を強めに絞めると獣は、じたばたと抵抗した。どうやら力はさして強くない。尾が2又に別れており、白い体毛を持つ、樹海の山犬より一回り小さい華奢な体躯の初めて見る獣だった。


「止めて下さい!どうか、どうか後生です!」


 頭の中に響く声が聴こえた。言葉の意味は解らないが、気味の悪さから石猿は白い獣の首から手を離し、そこから離れた。


「あぁ!ありがとうございます!」


 また頭の中をくすぐられるような声。白い獣の側に、人間が居た。首を絞められて弱っている獣を、ひしと抱きしめると、こちらにまた何事か声を向けてくる。石猿はこれほど人間に接近したのは、産まれて初めてだった。人間には、ふさふさの白い尾が四本も生えていた。

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