18 おやすみ
「頬を殴ってすみませんでした」
あの時はカッとなって思わず手が出てしまったが。最初から世話になりっぱなしなのに殴るなんて最低だ。謝るべきだ、一応。思い返してもひどい言い草ではあったけど。
「お前たち兄弟に殴られる役まわりなんだろうな、俺は」
ヤンはくすりと笑った。
今、とても静かだ。
この部屋、ヤンの部屋には当然ヤンと僕以外にはいなくて。
僕はベッドに横たわっていた。
まるでお棺の中にいるような気分になる。狭くもなければ蓋をされかかっているわけでもないのだけども。それか、打ち上げ前の宇宙飛行士の気分かもしれない。違う世界に旅立つという点は同じような気がする。
「体調はどうだ?」
「体調……ですか? 別に悪くないです」
力がみなぎって仕方がないとか、今すぐ駆け出したいとか、すこぶる良いというわけでもないが。
「そうか。二ナの回復魔法でお前の毒も消えたか」
え。
「毒……?」
そんなもの、いつ。
「こっちへ来て、というよりマリアンのハチミツを食べてから体調があまり良くなかっただろう? 微量だっただろうから重大な影響はなかったにせよ、体が重く感じたりふらついたりしたはずだが」
え、ハチミツ? 身体が重い? ふらつく?
…………今の体調、確かに昨日よりは良いかもしれない。
「マリアンがどこで手に入れたかはわからないが、魔物の分泌物をハチミツに入れてお前に食べさせたのは事実だ。ニナの靄がお前の目の前で発現したのはハチミツの中のモノに反応したからだ」
マリアンに毒を盛られていたということで。環境に慣れていないからとか何気に寝不足とか、そういうことで片付けられる程度の体の不調は僕自身の問題じゃなかったのか。
「少量しか手に入れられなかったのか、急激な体調不良を不審がられないようにしたのか、少し弱らせて最後は自分の手でと思っていたのか、本人に聞かなければわからないがな」
マリアンはヤンを袖にするカーリンをずっと憎んでいたのだろうか。あの後マリアンがどうなったのか僕は訊けないでいる。あの時、何が正解だったのか。カーリンである僕が命を落とすのがやっぱり良かったのかもしれないけど、残されることになるヤンのことを思えば。
「微量だったのが幸いしたんだろう。ニナのおこぼれで十分だったのかもな。一応、中和薬飲んどくか? 実はお前の分もあるんだが」
仮にニナの魔法でも取り切れてなくて、この毒はあちらへ戻ってもいつまでも体の中にあるというのなら飲んでおいた方がいいだろう。
その疑問にヤンはわからないと答えた。ニナが靄を浴びたとしてもストーリー上、エンドマーク時には必ずなくなっている状態だから体内に残したまま、というケースがこれまでなかったのだという。記憶以外持って帰ることはできないから多分消えるのだろうとは言ったが。
「飲ませてやるから口を開けろ」
起き上がろうとしたところを止められた。横になったまま飲むなんて重病人じゃあるまいし行儀が悪い。
ヤンは洒落たサイドテーブルの引き出しから小瓶を取り出し、蓋を開けると一気にすべてを口に入れた。
え、それ僕のじゃ……。
と。
すっとヤンの顔が近づいてきて。
「うっ」
顎を持たれ、口を開かされたと同時にヤンのく、唇が僕の唇にくっついて、液体が流れ込んだ。
「……っん」
少しずつ口内に流れ込む液体は程よく甘くてスポーツドリンクのような味で。咽ることはなかったけどすべてを飲み終わるのに時間がかかった。
その間、当然ヤンと僕は、キス、状態で……。
「これで万全だろう」
「そ、そうですね……」
からかい半分だったとばかりにヤンの目尻は笑っていた。最後の最後まで僕はこの人に引っ掻き回されて。
「さて、唯」
ヤンは僕の名を呼んだ。もう、今度こそ終わりなのだろう。
「何か言っておきたいことがあれば聞くが?」
それを誰かに伝えることはできないが、とベッドの端に座っているヤンは前置きして。
「……メアリに、もう一度会いたかったです」
楽しくて優しいメアリ。最後あたりはほとんど話ができなかった。別れの言葉は言えないにしても感謝の気持ちは伝えたかった。
「気が向いたらまた来ればいい。お前にはもう行き来できる資格がある」
ここでの記憶が消えるわけではないらしいからメアリのことは忘れない。またここに来る気になるのかわからないけどその時はメアリに会いに来よう。
「お前の魂は癒やされたか?」
「多分、楽しかったんだと、思います」
悲しいことも怖いこともあったけど今は全部ひっくるめて楽しかったと言えるかもしれない。すべてが終わったらしい今、そう後味は悪くないのだ。こうやってたった二人でいると、寂しいと感じるけれど。
「ここは強く願った弱き者のみが召喚される場所だ。帰る時は皆何かを得る。もちろんお前も」
僕は何を得たのだろう。帰ってからの宿題だ。
「それじゃタイムリミットだ。今からお前は帰るが向こうの時間は一日過ぎただけだから何も変わっていない。心配するな」
「ええっ!?」
思わず起き上がりそうになるのを何とか堪えて。
「寝ている間に見た夢ってことだ」
「そんな……」
あんなに濃密な時間を何日も過ごしたのに……。
「だから気軽に考えていいんだ」
「……はい……あ、最後に一つだけ」
「ん?」
「本当の名前、何て言うんですか?」
僕はずっと聞きそびれていたことを訊いた。忘れていたわけではないんだけど、タイミングがなくて。とりあえずその名を呼ぶ必要もなかったし。
「今それを言うのか」
ヤンは呆れていた。確かに別れ際に聞くことじゃない。
「あっちへ帰って調べろよ、すぐわかるから」
そしてヤンの手の平が僕の瞼に軽く触れると、急に睡魔が肩を叩いた。僕はこうやってベッドに寝ているから何もこれ以上することはなくて、睡魔に誘われるままに眠りに落ちていくのだろう。
「……魔法使いなんですね……眠くなりました……」
自分という存在の輪郭がゆるくなっていく。目の前のヤンが、そこにいる、ということしか理解できなくなる。
「俺は最後の締めを行う役目も担ってるからな」
次に目覚めた時、もう僕は三崎唯に戻っているのだろう。ヤンもいない。
カーリンにお礼を言ってなかったな。君にはありがとうとごめんを。いくつか無茶をしてしまった。女の子の世界を垣間見れたことは楽しかったよ。
目が、閉じていく。
抗うこともできずに、僕は。
果てのない無意識の海に沈んで。
「おやすみ、唯。よい夢を」
その言葉は、もうノイズにしか聴こえなかった。
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