第25話 鼻水
肩をゆすられてイリアは目を覚ました。背中がなんとなく痛い。
地面と接している幕屋の下の部分は二重革になっているし、借りた毛布に包まって寝ていたのだが、それでもやはり敷き布団が無いのは寝心地が悪かった。
イリアを起こしたのは剃り上げ頭の大男だった。
幕屋の入り口に上半身を突っ込んでいるカールの顔を寝ぼけ
「……なんですかぁ?」
「起きたかイリア。身支度しろ、いいところ連れてってやる」
枕にしていた背負い袋を持って幕屋から這い出た。外は肌寒く、空は青暗い。
まだ太陽も昇りきらない早朝のようだ。起きているのはカールだけらしく、他の二人は獣車の荷台の下で毛布に包まっている。ラクダのアクーも首を地面に投げ出して寝ている。
「みんなは起こさないんですか」
「さっと行ってさっと帰って来るだけだよ。どうせ門が開かなきゃ朝めしも買ってこられないんだし、出発するまで間があるんだ」
そう言ってカールは近くの地面を指で削ってなにか書き込んでいる。
イリアは肌着を着替え、寝る前に脱いでいた綿服を着直す。靴を履いて靴紐を結び、ズボンに革帯を通して締めた。
カールがしゃがみこんでいた地面を見ると、「すぐ帰るから朝めしを買っておけ」と書かれていた。
「じゃあ行くぞ、遅れずついて来いよ」
カールは速足で歩きだした。コトナーの防壁沿い、南門がある方向。
イリアは追いつくために走らなければならなかった。南門周りには、やはりハンスたちと同様に宿賃を節約しようと考えた隊がちらほら野宿していた。
「なんだ、イリア。レベル1のくせにけっこう走れるんだな」
「俺は、レベル2、です」
カールは後ろ歩きになってイリアに話しかけてきた。街道を外れ、細い脇道を南に向かって進んでいる。
すでに半刻間駆けてきたので街から5キーメルテは離れただろうか、地面の起伏に隠れてコトナーの防壁はもう見えない。
東の地平線の上にうっすら盛り上がっているファブリカ山地の頭から太陽が顔を出した。
「見えたぞ、あそこが
道の先に、昨日渡った小川が流れ込んでいる窪地が見える。大きな木が数千本密集して生えている、人工管理魔境の森林だ。
アビリティーを目覚めさせたばかりの半大人が、レベルを上げるために天然の魔境に潜るのは危険だ。かといって大人が何人も付き添って低級魔物を狩らせてやるのも無駄が多い。
低級魔物の中には
そうではない、成長素獲得効率のいい魔物が繁殖しやすい環境をあえて残し、森からあふれ出てこないように生息数をきちんと管理しているのが人工管理魔境だ。
ここであれば駆け出しの者らだけで隊を組んでもレベル上げが可能なのだ。人口管理魔境の普及は100年以上前から王国が推進している重要政策でもある。
イリアの息が整うのを待って、二人は森に侵入した。湿った朽ち木のような、独特の匂い。初めて足を踏み入れる魔物の住む森に、イリアの気持ちは
「渦蟲って仮想レベルいくつでしたっけ」
「どうだったかな。あんまり覚えてないが、でかいので5くらいじゃないか?」
「でも良いんですかね、勝手に。怒られませんか」
「ここはあんまり人気が無い森なんだよ。わざわざ渦蟲相手に遠出したくないのか、学園生のガキどもはもっと州都に近い森でレベルを上げる。それに、今日はそれを狩るわけじゃない」
そういうとカールは拾った長い枝で藪を払い、木々の間をどんどん奥の方に向かって進んでいく。薙ぎ払われ、へし折られて破壊される植物の青臭いにおいを嗅ぎながらイリアは後をついて行く。
倒木を見つけて持ち上げ、カールはそれをバキバキと引き裂いた。腐りかけとはいえ結構な大木だ。カールのレベルはかなり高いのではないだろうか。
そのまま森を進んでは倒木を見つけ、引き裂き続けるカール。いったい何をしているのか。
渦蟲も見つからない。渦蟲はナメクジに似た魔物だ。違うのは渦を巻く貝殻を背負っている事と、大きさが1メルテもある事だ。飛び出た目の下にある触手を槍のように伸ばして攻撃してくるらしいが、動きが鈍いので危険度は高くないはずだ。
4本目の朽ち木を引き裂いて、カールが喜びの声を上げた。
「居たぞ、こっち来てみろイリア」
直径が半メルテもある倒木。腐りかけの根元一部が大きく裂かれて、空洞が露わになっている。その空洞の中、ねばねばした何かがある。
森の中は暗いのでよくわからないが、無色透明に近いのではないか。鼻水の塊のようにも見えるそれは、風邪ひき100人が一日中鼻水を溜め続けたほどの体積があった。
「触ってみろよ、面白いぞ」
カールに背中を押されてねばねばに近寄ったイリアは、人差し指でそれを突いてみた。思いのほか硬い、弾力があるような感触。そう思った瞬間ねばねばはイリアの指から逃れるように動いた。
朽ち木の空洞の奥にむかって、ナメクジが這い進むような動き。実際は大きさが違うのでそれよりもっと速い。イリアの指にねばねばの表面から移った粘液が付いている。
「どうだ?」
「……なんか痺れますけど」
「だろ? 毒があるらしい」
「ちょっと!」
指をズボンに擦りつけつつ抗議するイリアをハゲ頭はゲラゲラと笑っている。
「人がどうこうなるような毒じゃないから安心しろって。虫とかネズミとか、小さい生き物を殺して食うための毒らしい」
「食うって、どこから? 口があるんですかこれ。なんなんですかこれは」
「わからねぇ。何もわからねぇ。ただ探し方とかは東方出身の商人に教えてもらった。俺が知ってるくらいだから、王国でも知ってるやつは知ってるんじゃないか? それより見ろ、ここを」
カールが指し示した部分。ぐにぐに動き続けるねばねばの塊の中心部分に顔を近づけてみると、真ん丸に小さな粒が見える。無色だが不透明の、小指の先ほどの物体。
「魔石なんだぜ、それ。こいつは魔物なんだよ。俺が知る限り世界で最弱の魔物だ。こういう湿った森なら王国でもけっこう見つかるんだ」
「確かなんですか」
「前にそれ食ったら『砂化』した。もしアビリティーに目覚めたばっかりの奴と知り合ったら、教えてやろうと前から思ってたんだ」
カールが腹帯に挟んでいる曲短刀を鞘から抜いて渡してきた。受け取って、微妙に
魔石に傷をつけないよう、少し中心をずらしてねばねばの塊を切り裂いた。
ねばねばは蠢くのをやめ、急に高さを失い切り口から中身がこぼれだす。
イリアは頭の芯のあたりに違和感を覚えた。その部分が空っぽになったような奇妙な感覚。それが頭蓋の中に広がる。そのまま首から背骨を通って全身に広がり、痙攣が起き、胃袋から何かがせりあがってきてイリアは意識を失った。
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