第3話 トーロフ

 朝の空気の中でイリアは馬車の支度を手伝っていた。朝食はまだ摂っていない。

 車庫から裏庭に引き出された馬車は所々塗料が剥げてしまっている。二人乗りの座席と、人間一人寝かせて運べる程度の小さな荷台が付いた四輪馬車は馬一頭でける。ふた月動かしていないというので、車軸に念入りに脂をさしていく。

 銅製で円筒状の脂注あぶらさしの中に入っているのは、低級魔物のつのザルの脂肪だ。臭いがきつくて食用にも室内灯の燃料にもできない角ザル脂が使われるのはこんな時くらいである。


 馬のいななき声が聞こえた。振り向くと執事役のヴァシリが馬を引き連れてきていた。


「朝早くから仕事を手伝ってくれてありがとうよ、イリア」

「いえ、俺が出かけるための馬車ですし」

「脂を注し終わったら早く朝めしを食った方がいい。団長は3刻には出ると言っていたから」


 昔は黒褐色だった馬の毛並みは年老いて灰色になっている。だが体格は大きく筋肉もしっかりとしていて、ちゃんと管理されていることが分かる。

 大きな戦士団でも、馬を飼っていないし馬車も持っていないということは珍しくない。

 馬というのは走るために生まれてきたような生き物で、その全力疾走より速く走れる人間はそういない。だがマナの影響を受けていないである馬には持久力というものがあまり無く、アビリティーのレベルを30ほど上げた人間が半日でも走り続けられるのに対し、同じ速度で馬が走り続けられるのはせいぜい2刻間といったところだろう。運べる荷物も馬一頭より壮健な大人一人の方が多い。


 つまり馬を移動手段に使おうとする者は子供や老人、あるいは病人くらいのものなのだ。王都などの都会では、身分の高い女性がやらた着飾った服装で移動するのに馬車を使うことがあるそうだが、馬糞が道にまき散らされるので評判が悪いらしい。


 4つの車軸受けに脂を注し終わって、イリアは馬車の前方に周った。

 馬を繋ぐための、突き出た腕のようになった部分を引っ張り、馬車を動かしてみる。車輪は特に問題なく滑らかに回るようだ。


「いい具合かね?」

「大丈夫みたいです。トーロフの調子はどうです?」

「絶好調だね。心配いらないよ」


 トーロフというのは馬の名前である。ヴァシリが手綱を持って馬車の前まで誘導しした。

 トーロフの体には鉄の部品や革帯が体中あちこちにつけられていて、イリアにはどこがどうなっているのかわからない。馬車を曳く馬がなるべく疲れないように考えて設計されている装具だという。


 イリアは少し前、馬装具まそうぐの付け方を教えてくれとヴァシリに頼んだ。自分でできるようになればと思ったのだが、大人になるまでは駄目だと断られている。

 アビリティーも持たない子供がひづめで足でも踏まれれば、簡単に骨が砕けてしまうそうだ。


 年齢を理由に「白狼の牙」を引退するまで4番隊隊長を務めていたヴァシリはレベル48だという。後ろ足で蹴飛ばされてもアザもできやしないと自慢していた。




 大きなパン丸ごと一つとゆで卵。主菜は牛ジカの汁物だった。旅に出るのだからと普段よりも多めの朝食を食べさせられたイリアは、自室に戻って旅装を整える。

 旅と言ってもたかが20キーメルテの距離だ。父ギュスターブ一人なら行って用事を済ませて帰ってくるのに、2刻間とかからないだろう。今日にしても日のあるうちに帰ってくる予定だ。


 『魂起たまおこしの』はグラリーサのアール教教会で受けることになる。イリアもギュスターブもアール教に帰依きえしているわけではないが、団員には信者も多い。

 服装は旅の利便性よりも格式の方が重要になる。「白狼の牙」頭領の息子がみすぼらしい姿で教会を訪れたなどという話になっては困るのだ。


 森の奥地で採れる緑綿の布をたっぷり使った、上下一そろいの服。父が「半大人」のころにあつらえたもので、箱箪笥の中で大切にしまわれていたものだ。

 服には、同じ緑綿の糸で細かい飾り刺繍が加えられている。袖やズボンのすそは膨らんでいて、手首と足首の部分が紐ですぼめられている。

 この様式の服が何と呼ばれているのかイリアは知らなかったが、数十年前王家の子供が着始めたことで国中に広まったらしい。

 実用性があるように思えないのだが、身分のある子供が公的な場に出る時はこれを着ることになっているのだ。

 緑綿の服の上からイリアは垂革たれかわを身に着けた。帯状の、厚手の革の真ん中に穴が開いていて、そこに首を通す。

 体の前後に革を垂らし、革帯を腰の部分に巻いて固定し、金属部品を使ってめる。

 この垂革も実用性はほぼ無いが、まあ気休め程度の防御にはなる。戦士団頭領家の子としてを示すための衣装だ。胸の部分には「白狼の牙」の紋章が大きく押し型されている。


 今は6月である。王国の北の果てであるノバリヤでなければ、少々厚着に過ぎる服装でイリアは外に出た。右手には頭からかぶる型の防水革の雨具を抱えている。

 日帰りの旅だが晴れとも曇りともつかない半端な空模様。雨でびしょ濡れになればせっかくの衣装が台無しだ。

 正面玄関から出る。南向きの前庭に馬車が回してある。ヴァシリの横に父が立っていた。

 父ギュスターブは茶色い草根染めの綿ズボンに編み上げの長靴、黒革の上着姿だ。上着の下につや消しの黒鉄胸甲を着こんでいるが、全体に戦士団頭領としての仰々しい戦装とは違う、旅人のような格好だ。

 イリアとは違う暗い褐色の髪は後ろになでつけられている。


「……」


 ギュスターブは黙ってイリアに歩み寄ると後ろ首に手を伸ばしてきた。緑綿の服の高い襟が垂革の間に挟まって折れていたらしい。

 息子の襟を直したギュスターブは馬車に向かい、トーロフの尻の真後ろにあたる座席に手をかけ、軽く跳んで右側に座った。


「行くぞ」


 座席はそのイリアの胸ほどの高さがある。イリアは父の伸ばした手につかまって隣の席によじ登った。

 ギュスターブが声をかけながら口輪くちわにつながった手綱をはたくと、トーロフは歩き出す。「行ってらっしゃいませ」と会釈をするヴァシリ。特注の板バネが車軸受けについている馬車はほとんど振動せずに石畳を進み、開いている門から屋敷の外に出た。


 ノバリヤの定住人口は1万と少しだ。だが街は一般的な1万人規模のそれよりずっと大きい。


 アビリティーを得た者がレベルを上げるためには、魔石を喰らう必要がある。

 ノバリヤの接する北東部森林魔境はチルカナジア王国の一大魔石生産地だ。レベル30から50台半ばまでの成長に必要な魔石が、それほど深くまで入り込まずに手に入る。そういう魔境は大陸西部で最大の国土を持つ王国でもここだけだろう。

 そのため、ノバリヤには王国中からレベルを上げたい戦士たちが集まってくる。季節によって多少増減するが、定住者と同じくらい多くの一時滞在者がこの街には居るのだ。

 石造りの防壁で囲まれた街の形はほぼ円形で、直径は約1.7キーメルテもある。人口二万人規模の街と変わらない大きさだ。


 そんなノバリヤの北区の真ん中にある屋敷を出て、イリアたちの乗る馬車は少し南下して東西大通りに右折。そのまま西門に向けて走る。

 大手戦士団の頭領家の屋敷や、幹部団員の住居が建ち並ぶ東西通り。南北に延びる中央通りには料理屋や商店が多く賑やかだが、こちらは閑静である。


 道は小型の馬車ならすれ違えるほどの幅がある。平らに整備された石畳の上を走っていく。庭で洗濯物を干す主婦が馬車の走るのを珍しそうに眺めていた。

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