蛇憑きコンプレックス
繭住懐古
桜の蕾と白い蛇
1〈桜の蕾のような子だと、達巳は思った〉
桜の蕾のような子だと、
桜乃の前髪に隠れた素顔のことは、彼女の転校初日からクラスの男子達の間での話題になっていた。
「ジャンケンで負けた奴が、桜乃の顔を見てくる。良いな?」
そのようなことを言い出すお調子者が、クラスに一人はいるものだ。それも、彼らはまだ小学生。人の隠し事を暴く抵抗感より自身の好奇心の方を優先してしまう年頃。その好奇心が特に強い数人の男子達の間で、ジャンケンが行われた。
結果はすぐに決まった。達巳以外の全員がグーを出したのだ。チョキを出していた達巳は一発で負けてしまった。
「やっちん、いつもチョキから出すよな」
「ハメやがったな……」
達巳は苛立ちつつ、ため息をついた。
決まってしまったものは仕方がない。学校終わりの下校時間、ランドセルと共に友人達の期待をも背負った達巳は桜乃の跡をつけた。
——本当にやるつもりかい
「仕方ねぇだろ」
自身の心に語りかける咎めるような『声』に対し、言い訳のように答える。
まだ善悪の判断が曖昧な少年からして見ても、女子の髪をたくし上げて目元を覗き見るという行為には冷や汗の出るような背徳感を覚える。手早く簡潔に済ませてしまおうと、達巳は意を決して走り出した。
勢いのままに駆けて行って前を歩く桜乃を追い越したかと思うと彼女の進行を妨げるように目の前で立ち止まって振り返り、驚いた様子の彼女の前髪を思いっきり払いのけた。
乱れた黒髪の下から現れたのは、ぱっちりと見開いた瞳。そして眉頭の太いハの字形の眉毛。いわゆる『困り眉』と称されるであろう形の眉毛だ。
舞う花びらを思わせる、儚い顔立ち。特徴的な眉の形が目を引くが、その個性がむしろ大人びた顔貌の中に年相応のあどけなさを残している。
達巳は思わず見惚れてその顔を数瞬見つめていたが、やがて驚き硬直していた桜乃の瞳から大粒の涙が溢れ出し、達巳は我に返った。達巳の突然の凶行に慄いた桜乃は、何も言えずにその場で泣き出してしまったのだ。
達巳は慌てて周囲を見る。曲がり角の影から一部始終を見ていた友人達が走り去っていく音と声が聞こえる。
「泣―かせたー!」
「オレ知―らねっ」
「あっ……あいつら‼︎クソッ!」
達巳は走り去る裏切り者達の背を睨みつけた。それから恐る恐る、泣きじゃくる桜乃に視線を戻す。罪悪感が込み上げてきた。
頭の中にまた『声』が語りかける。
——全く、女子を泣かせるとは男の風上にも置けない奴だね
非難する『声』を無視し、達巳は桜乃へ謝罪する。
「お、おい、ごめんって!泣くなよ……オレ、別に、お前のことぶん殴ろうとしたわけじゃないんだ。ちょっと、お前の顔を見ようとしただけで……オレが言い出したんじゃないぜ!春川達が見たいって言って、オレがジャンケンで負けて……」
達巳の弁解が届いているのかいないのか、桜乃の涙は止まらない。元々大人しくて口数少ない上に、泣きじゃくっている今の状況では、会話も成立しようが無かった。達巳はただ一方的に謝り続けることしかできない。
「まいったな、ごめん!ほんとに、悪かったから!いじめようとしたわけじゃ、無いんだ!だから、先生や母ちゃんには言わないでくれ!この通り!」
泣き止むことなく、言葉も発しないが、桜乃は小さく頷いた。初めて帰ってきた反応に、達巳は少しホッと安堵した。
達巳が最も恐れていたこと、つまり——先生や親への告げ口は回避できた。
とは言えこのまま桜乃を置き去りで帰ることもできない。しばらく黙って所在なさげに立っていたが、やがて桜乃が落ち着いてきたのを見計らって恐る恐る尋ねてみる。
「何が、そんなに悪かったんだ?その、オレはただお前の髪をどかしただけで……」
長い沈黙が続いた。小さくしゃっくりをしながら俯いていた桜乃は、やがてゆっくりと達巳の顔を上目に見た。長い前髪の隙間から恨めしげな瞳が達巳に向けられる。
「……まゆ」
「え?なんて?」
「……まゆげ」
桜乃は震え声でつぶやいた。達巳は、先程目にした眉頭の太い困り眉を思い返した。
「まゆげが、なに?」
「変……だから……」
「は?別にそんなこと無いだろ」
達巳が答えた。特に気を遣ったわけでもない、ただ思ったことを反射的に口にしただけの言葉だ。
桜乃は少しずつ、言葉を発し始める。
「でも……みんなと違うし、変な顔に見える……」
「変じゃねぇって」
「……」
しばらく黙った後、恐る恐る桜乃は問いかけた。
「みんなに……その、言うの?」
「お前のまゆげのことか?別に——」
「言わねぇよ」と言おうとして、達巳は口を噤む。
そもそもの発端は、桜乃の顔を見たいと思った男子達が集まって始まった悪ふざけだ。ジャンケンで負けた達巳が代表して見に来たわけで、実際どうだったのかを友人達に聞かれるのは明白である。
ふと桜乃に視線を戻すと、彼女はまた恨めしげに、前髪越しに達巳を睨んでいた。
「言う気……なんだ」
「あ⁈え、いや、言わねーよ!」
達巳は慌てて否定するが、桜乃の疑いはなかなか晴れない。またしても泣きそうな表情になる彼女を見て焦りつつ、なんとか納得してもらえないかと考える達巳の心中へまた『声』が語りかけた。
——他者の秘密を暴いたのならば、お前自身も秘密を明かすのが道理というものだよ
「秘密?」
達巳が小声で聞き返す。『声』はさらに続けた。
——お前が彼女の秘密を漏らさぬという証明。それはお前自身の秘密を彼女に明かすことだ。互いに秘密を公表しないという契りを結ぶのさ
達巳は心底嫌そうに顔をしかめた。『声』はそれ以上何も言わない。後は好きにしろということらしい。達巳は深くため息をついた後、桜乃に向かって言った。
「じゃあ、オレの秘密を教えるよ。絶対に誰にも言って欲しくないやつだ。そしたら、お互い様だろ?お互い、誰にも言わないって約束しよう。そしたら安心だろ?」
困惑して黙っていた桜乃は、やがて小さく頷いた。
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