第6話

 なんとか車を停めた場所まで戻ってくると、山下やましたさんを俺の車に乗せて町で唯一の病院に連れていき、彼の奥さんに連絡した。

 その間、俺は彼に「怪我は痛みますか」「水でも買ってきましょうか」とあれこれ話しかけた。けれども、彼は何を聞いても感情のよくわからない顔で「ああ、そうだねえ」とぼんやりとした返事をするばかりだった。


 診察を待つ間に、奥さんが駆けつけてくれた。俺から一応事情を話したが、どう話したものかと悩んだ末にかなり端折ってぼかしたせいで、もはや嘘に近いものになっていた。

 実際、奥さんも口では「そうだったの」とは言っていたが、納得していないという顔をしていた。

 その時、ちょうど診察室から声がかかったので、奥さんに後のことを任せ、俺は山に戻った。停めたままになっていた彼の車に背負子を積み、家まで移動させると、そのまま自分の家に帰ってしまった。


 最初は病院に戻るか、彼が帰ってくるまで待って、怪我の具合を聞くつもりでいた。だが、途中で立っているのも辛いくらいの疲労が押し寄せてきて、どうにもならなかったのだ。

 山にいたのはせいぜい2時間ほどだったが、あの出来事のせいで心身ともに限界だった。片手が使えない彼を連れて山道を戻るのも想像以上に堪えた。

 奥さんも病院で「後は私が付いてるから、戸田とだくんは帰って休んで」と言ってくれていたので、それに甘えさせてもらうことにした。


 それに、山下さんには申し訳ないのだが、正直なところ一刻も早く寝てしまいたかった。

 そうでもしなければ、あの時山で感じた凍りつくような恐怖と寒気がぶり返してくるのではないかと、気が気でなかったのだ。

 今までは、怪我をした山下さんを病院に連れて行かなければという使命感のおかげで何も考えずにいられただけだった。いざ一人になると、あの出来事を何度も思い出しそうになる。その度に首の後ろ辺りに冷たいものを感じ、慌てて他のことを考えるのを繰り返していた。

 家に帰るとすぐに普段よりもかなり熱くした風呂に入り、そのまま布団に入って寝てしまった。それが唯一の、あの出来事を思い返さずに済む手段だった。


 翌日、俺は預かっていた車のキーを返すために山下さんの家を訪ねた。

 彼は昨日とは違っていつもの笑顔で迎えてくれたが、やはりその顔には疲労の色が濃く滲んでいた。右手の指先から手首まで、ミトンのようにきっちりと巻かれた包帯も痛々しい。

「怪我の具合はどうですか?」

「ああ。比較的軽い凍傷だって話だから大丈夫だよ。この時期の山でなんで凍傷なんかに、って医者も家内も首をひねっていたけどね」

 俺が渡した車のキーを受け取りながら、彼はそう言って笑った。

「まあ、利き手をやっちゃったからね、しばらくは不便になるよ」

「そうですか。ひどい怪我でなくてよかったです」

「あの時は迷惑かけてしまってすまなかったね。本当に助かったよ。時間があるなら、ちょっと上がっていってくれないか。お礼がしたいし、少し話したいことがあるんだ」

「はい」


 居間に通されるとすぐに割烹着姿の奥さんが台所から出てきて、緑茶が入った湯呑みと煎餅や饅頭で山盛りの菓子盆をてきぱきと並べた。

「戸田くん、昨日は主人のこと、本当にありがとうね」

「いえ」

「この人ったら、ずいぶん張り切ってたのよ。この歳になっても誰かにものを教えることができるなんて、って。なのに生徒に助けられちゃうなんて、まったく情けない先生なんだから」

 奥さんが早口でひと息にそう言うと、それを聞いた山下さんはバツが悪そうに肩をすくめた。

「そんなことありませんよ」

「頼りない先生だけども、どうかこれからも助けてやってください」

「とんでもない、こちらこそいつも助けてもらってばかりですから」

 きちんと手をついて頭を下げられて、俺はすっかり恐縮して同じように頭を下げた。

「ほら、もういいだろう。彼に話があるんだよ」

 照れ隠しなのか、彼が手で奥さんを追いやるような仕草をした。

「はいはい。戸田くん、ゆっくりしていって。先生のお話、聞いてやって」

 そんな彼の様子を見るといたずらっぽい笑みを浮かべてそう言い残し、奥さんは居間から出て行った。

「全く、あいつはいつだって一言多いんだよな」

 口を尖らせながら彼がお茶に手を伸ばす。

 高校の同級生同士だという彼らは、いつもこんな感じで軽口を叩き合い、笑い合っている。仲睦まじく、微笑ましい、いい夫婦だ。


「あのね、昨日のあいつなんだけどさ」

 お茶を一口飲んでから、彼がふいにそんなことを言い出した。

「え?」

 菓子盆の饅頭に手を伸ばしかけていた俺は驚いて彼の顔を見る。

 その話は自分からは一切しないつもりでいたし、彼も触れてほしくはないだろうと思っていた。だから、彼の言う「話」が昨日の出来事のことだとは思いもしなかった。

 そんな俺の動揺をよそに、先ほどまでとは打って変わった真剣な顔で彼は続けた。

「思い出したよ。昔、僕の爺さんから何度も聞いてた」

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