第3話

 しばらく待っていても、山下やましたさんからはなんの合図もなかった。 斜面の下を覗くと、イノシシを前にしてなにやら考えている様子だ。周りを見回したり、イノシシの体を色々な角度から眺めていたかと思うと、かぶっていたキャップを取って小脇にはさみ、白髪頭をガシガシと掻き出した。

 何かあったのだろうか。俺は斜面を降りてみることにした。

 斜面を降りるのには苦労したが、下は少し平らな場所だった。落葉樹が多くて、罠を隠すのに良さそうだ。罠を設置する支柱になる立ち木もある。いくつか点在している倒木は、動物がどこを通るかを絞り込むのに役立つだろう。なるほど、習った通りの罠を仕掛けるのに適した所だ。


「山下さん」

「ああ、声もかけずにすまなかったね」

 山下さんは俺に気がつくと、そう言って片手で雑に髪を撫でつけ、キャップをかぶり直した。しかし、視線は罠にかかった体長1メートルほどのイノシシに向いたままだった。

 彼の背負子はイノシシから少し離れた場所に置かれていた。荷物を背負ったままでは獲物と対峙するにあたって邪魔になるからだろう。俺も真似して背中のザックを背負子のそばに置くと、彼の隣に立った。


 イノシシは大人しく地面に座り込んでいるように見えたが、鳴き声をあげるどころかぴくりとも動かなかった。

「そのイノシシ、もう死んでいるんですか」

「見た感じ、そうみたいだね。くくり罠で死んでしまうなんて、あまりないことなんだけれど」

「病気とか、老衰とかですかね」

「いや、まだ若いよこのイノシシ。傷もなさそうだし、どうしたんだろう」

 彼は首を傾げ、キャップを指で差持ち上げてまた頭を掻いた。

 彼の言う通り、確かに奇妙なことだった。

 普通、罠猟の最後には獲物に止めを刺すという仕事が待っている。罠はあくまで獲物をその場に留めておいてくれるだけで、最後に命を奪うのは人間の役目だ。

 罠にかかっただけで死んでしまうというのは、今まで聞いた覚えがなかった。


「ちょっと罠を外して調べてみようか。やってみるかい?」

「はい。やらせてください」

 罠はよくあるくくり罠だ。バネにワイヤーを通し、バネを縮めた状態で地面に隠しておく。獲物がトリガーになる板を踏み抜くと、縮められたバネが元に戻る力でワイヤーが跳ね上がり足を締め付ける構造だ。

 俺はイノシシの体からワイヤーをたどり、落ち葉をかき分けてバネを縮めておくためのパイプを手に取ると、そこについているネジを緩めた。これでワイヤーが緩んで、外すことができる。

 十分に緩ませたことを確認してから、ワイヤーを勢いよく引く。これで足からワイヤーが抜けるはずだ。

 だが、予想もしないことが起こった。


「うわっ、折れた!」

 ワイヤーを引いたことで持ち上がったイノシシの足が、ワイヤーが抜け地面に着いた瞬間にぽっきりと折れたのだ。もはや切断されたと言ってもいいくらいに、足がもげてしまった。

「なんだこれ? 普通こんな折れ方しないよ」

 山下さんも驚いてそんな声を上げた。

 くくり罠のワイヤーは獲物が逃げようと引っ張るほどに締まる仕組みではあるが、一定以上には締まらないように調整する機構がついている。だから、足が切断されるほど傷つくなんてありえないはずだ。


 折れた足に駆け寄り、拾い上げてみた。断面を見てみると、動物の体が切れたという感じではなかった。大小の平面が不規則に合わさったごつごつとした断面は、もっと硬いものが割れたようだ。そう、岩や氷のような――まさか。

 手袋を外し、イノシシの足を握りしめてみる。生き物の柔らかさは一切なく、手がじっとりと湿る。持っているだけで手が痛くなるほど冷たいその足は、驚いたことに俺の体温で溶けていた。

 凍っている。足全体が、硬い氷のように。

「これ、凍ってませんか」

「凍ってる? そんなはずないでしょう」

 彼にイノシシの足を渡すと、一通り触ったり眺めたりした後、ハッと何かに気づいたようにしゃがみこんでイノシシの体を触った。拳で叩くと、コツコツと硬い音がしている。

「本当だ。体全部が凍っているみたいだね。外見は全く凍ってないのに」


 山下さんのその言葉を最後に、俺たちはしばらく黙り込んでしまった。目の前のイノシシの異常さが、俺達の口をつぐませた。

 動物がこんなふうに生きたまま凍ることがあるというのは聞いたことがある。だが、それは気温がマイナス数十度に達するような外国の厳寒地でのことだ。ここはいくら気温が低いといっても、そこまでではない。なにせ、めったに雪も降らない場所なのだ。

 それなら、なぜこのイノシシは凍っているのだろうか。凍らせた原因は何なのだろうか。

 俺はイノシシを見つめたまま、記憶の引き出しを引っかき回してその答えを探した。にも拘らず、答えになりそうなものは、こじつけのひとつさえ見つけられなかった。


「ちょっと写真撮っておこう。こういうのは記録しておいたほうがいいから」

 沈黙を破ったのは山下さんの声だった。そう言うと彼はすぐにその場を離れた。向こうに置いてきた背負子にカメラを取りに行くのだろう。


 俺はイノシシに視線を戻した。このイノシシが気になって気になって仕方がなかった。

 考えれば考えるほどにこれは異常だ。山の中という自然の法則しか通用しない場所で、明らかにこれはそこから逸脱している。

 最初こそ理由を知りたいという好奇心があったが、それがわからない今、俺は不安に駆られていた。普通であれば曲げることができないはずのルールから外れたこのイノシシを、恐ろしいとさえ思う。理解できないということが、こんなにも心をざわつかせるものだとは。

 このままイノシシを見つめていたってどうしようもない。一度頭を切り替えようと、一度目を閉じてイノシシから視線を逸らすことにした。

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