骨まで凍る
あまたす
第1話
「……っくしゅん!」
くしゃみをした途端に、冬の山から下りてくる冴え冴えとした空気が全身の毛穴から一気に入ってくるような感覚がした。
俺はそばに停めていた自分の車に慌てて戻ると、着ていたベストを脱いで、助手席に置いたままだったゴアテックスのウインドブレーカーを着込んだ。
この町の冬は、特に山の寒さは想像していた以上に厳しい。移住前は趣味のハイキングくらいでしか使っていなかったウエアたちが、今は生活必需品だ。
上着を一枚足しても、入り込んだ寒さは体の中に居座ったままだった。車のウインドウに映る顔は真っ青だ。黄色のウインドブレーカーに包まれて、余計ひどいことになっている。
寒さのせいで肩に入った力が抜けないまま、俺は左腕の時計に目をやった。気温は2度、時間は7時40分だった。
待ち合わせの時間まで、あと20分。この後の山歩きに備えて寒さに慣れておこうと外に出ていたけれど、やはり車の中で待っていようか。
そう思ったとき、こちらに一台の軽トラックが近づいてくるのが見えた。約束の相手が来てくれたらしい。
俺はさっき脱いだベストをウインドブレーカーの上から着直すと、車を降りた。
「
「はい、おはよう、
俺が駆け寄って挨拶すると、山下さんは笑顔でゆっくり答えた。
この人はいつもこんな感じだ。受け答えに余裕というか、独特の間がある。定年まで中学校で理科の教師をしていたという話だから、きっと生徒にもこうやって接していたのだろう。
「今日は冷えますね。この辺は雪が降らないって聞いていたので、驚きました」
「気温よりずっと冷える気がするよね。この辺は、この時期なぜか異様に冷える日があるんだ。他所から来たハンターがそんな日に当たると、『骨まで凍るようだ』なんてよく言ってるよ。だけど、今日は格別だなあ」
そう言って彼は紺色の上着のジッパーを首元まで上げると、上着の上から着ているベストの前も閉めた。
ベストは俺が着ているのと同じ、この山の中でやたら目立つ蛍光オレンジと黄色のツートンカラーだ。同じ配色のキャップには鹿をかたどった猟友会のロゴが刺繍されている。
猟友会から支給されるこの派手なベストとキャップは、山での誤射を防止するための典型的なハンターの服装だ。
そう、俺たちは猟友会に所属するハンターで、彼は俺の狩猟の先生だ。
移住とともに狩猟を始めたかった俺は、移住前の今年の6月に狩猟免許を取った。
しかし、狩猟の経験もない上に土地勘の全くない場所で猟をするのはさすがに不安で、移住先の猟友会に相談したのだ。その時に紹介してもらったのが山下さんだった。
同じ罠猟専門だし、この辺りの地理に詳しく外から来るハンターともよく行動を共にしていて、なおかつ元教師。都会から地方に移住して狩猟を始めようという俺のような若造にはうってつけの人材というわけだ。
9月に移住してすぐ、山下さんの家に挨拶に行った。
そのとき、俺は「この土地で狩猟や農業をしながら、自然を感じて暮らしていきたい」なんて、いかにも『夢見る移住者』が言いそうなことを臆面もなく語った。
すると、彼は黙ってその拙い夢を聞いてくれた後に「いいねえ。その歳でそんな暮らしの良さに気づけるなんて、君はなかなかいい眼を持っているよ」と笑って、快く先生役を引き受けてくれたのだった。
以来、山下さんは猟期が始まる前から何度も俺を家に呼んでは、あれこれ面倒を見てくれている。
それはさながら、この土地でハンターとして暮らしていくための”授業”を受けているようだった。
ある日はキノコ採りに行くがてら、この辺りの地理や植物を丁寧に説明してくれた。またある日は、免許を取る前の講習会で習った内容を彼の猟具を使いながら復習してくれた。
彼の面倒見の良さは、ただ狩猟に必要な知識を教えてくれるだけにとどまらなかった。
”授業”終わりには、よく彼の自宅でお茶をしながら、俺が移住する前のことだとか、彼の現役時代の思い出だとか、いろいろな話をした。ときには食事にも呼んでくれて、奥さんが作った料理と一緒に彼が獲ったイノシシやシカの料理を振る舞ってくれることもあった。
奥さんも面倒見がいい人で、誰かから野菜をもらったときにはどうお礼をしたらいいのか、地区の行事に参加するには誰に挨拶に行けばいいのか、といった暮らしの上でのささいな悩みを聞いてもらっている。
縁もゆかりも無い土地で、『よそ者』扱いされてしまうことも覚悟していた。なのに、ありがたいことに彼らは昔からの知り合いのように接してくれている。移住生活も困ることなくやっていけるのは彼らのおかげだ。
そうして山下さん夫妻に助けてもらいながら移住生活は順調に過ぎ、ついに昨日から猟期が始まった。
今日は待ちに待った実践形式の”授業”の一回目。山下さんが前日に仕掛けた罠を見に行くことになっていた。
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