黒いサンタクロース




クリスマスとは何ぞや

我が隣の子の羨ましきに

そが高き窓をのぞきたり。

飾れる部屋部屋

我が知らぬ西洋の怪しき玩具と

銀紙のかがやく星星。

我れにも欲しく

我が家にもクリスマスのあればよからん。

耶蘇教の家の羨ましく

風琴おるがんの唱歌する聲をききつつ

冬の夜幼なきに涙ながしぬ。



 萩原朔太郎『クリスマス』







 ケーキが食べたかった。

 ホールのケーキだ。フルーツやチョコ細工でふんだんにデコレートされ、スポンジとスポンジの間にもオレンジやキウィがたっぷりと挟み込んであるやつだ。

 もちろんクリームは生クリーム。はるか昔の小学生高学年のときにクリスマスケーキがバタークリームから生クリームに変わったとき、沢渡和史はそのまろやかさと濃厚さに驚愕したものだった。

 ケーキをホールで食べてみたい。それは彼のかねてからの願望だった。当時、テレビの特撮変身ヒーロー番組で、人間態のヒーローがホールケーキを一人で箸を使って食べているシーンが出てきた。宇宙からやって来たそのヒーローは地球征服を企む宇宙人と正体を隠して日夜戦い続けていたが、異邦人であるがゆえに地球人とは感覚や言動の異なる部分が多々あった。ホールケーキを箸を使って一人で平らげるという行動も、そういった部分の表れだった。

 そのシーンが妙に印象に残っている。それから四十年以上経った今でもそのシーンは覚えていて、しかも自分も同じことをしてみたいという当時から抱いていた願望は今もそのままだった。これまでそのような「大人食い」ができるようになってからもそんなことをしなかったのは、やはり自分がいい歳をした大人だという意識が働いたからだろう。しかし逃亡者となった今、そんな分別めいたものはもはや無意味だった。

 街は明後日にやってくるクリスマスイブを前にして、ひときわ賑わっていた。ホールケーキを食べたくなったのはそのせいだった。沢渡はケーキ屋を探した。

 彼の記憶ではヒーローが食べていたケーキは直径三十センチぐらいの大きさがあった。十号サイズのケーキだ。大の大人が七、八人でシェアして食べるような大きさである。ケーキ屋を何軒かあたってみたが、そのぐらいの大きさだと予約なしでは売れないとすべて断られた。食品ロスを防ぐためにそういうお達しがケーキ業界に出ているのかもしれない。

 ホールケーキを食べたくなったのはほんの気まぐれだったので当然、予約などしていない。あちらこちらの街を点々と渡り歩き、十軒以上断られたあとに入った店でようやくヒットした。そこは沢渡の実家に近い商店街の中にあるケーキ店だった。逃亡生活をする人間からすれば実家のある街は避けたかったのだが、もしかしたらそこなら売ってくれる店があるかもしれないと思って行ってみたのである。

「いらっしゃいませ」

 ケーキが並んでいるショーケースの向こうから白いコックコートを着た中年女性が声をかけてきた。

 沢渡は入店するなり、イチゴが乗っている十号のホールケーキを注文した。幸い断られることもなく、沢渡はケーキをゲットした。

 中年女性の顔に見覚えがあるような気がした。少年時代を過ごした街の駅前近くの商店街だったので、同級生の女性なのかもしれない。小綺麗にメークをした顔は五十代半ばといった感じで、沢渡と同年代のようだ。

 思い出した。中内頼子だ。面影があるどころか、髪に白いものが混じっている以外、今もほとんど変わらない。中学三年だったときのクラスメートだった。細面で妙に大人びた色気のある顔をしていた。

 沢渡は胸の鼓動が激しくなるのを感じた。昔の事を思い出したのである。恥ずかしい思い出だった。

 授業中、ふと気がつくと彼女の顔をぼんやりと見つめていた。学園ドラマやコメディ映画に出て来る初な少年そのままに彼は中内頼子の顔に見とれていた。

 授業中ばかりではなかった。学校にいる間、視線の届く範囲に中内頼子がいると、自然と彼女の顔に目が行った。ダメだ、いけない、やめろと自分自身を叱りつけながらも、気づけば彼女の顔を見つめていた。向こうもこちらのそんな様子に気づいていて、ときどき不思議そうにこちらを見返したり、流し目で見ながら薄笑いを浮かべたりした。

 あの頃のことを思い出すと自然に顔が赤くなった。いたたまれないような気分になったが、いきなり逃げ出すわけにもいかない。

「保冷剤はどうされますか?」

 中内頼子が訊いてくる。冬場なので保冷剤は必要ないと思ったが、沢渡は今、そこから電車で一時間近く離れたところにあるビジネスホテルに数日前から泊まっていた。念のため一時間分の保冷剤を入れてくれと言い、ケーキの代金を払うとそそくさと立ち去った。

 向こうは気づいただろうか。いや、気づくはずがない。今の沢渡は三十代半ばの男性だった。顔もテレビドラマや映画に出て来るモブキャラかエキストラのように目立たないものに変わっていて、元の顔とは似ても似つかない。リアルでは頭髪が薄くなった五十路後半のオッサンだったが、年齢も面相も今の沢渡はまったくの別人と化していた。気づくわけがないのだ。

 それでも気づかれたのではないかという不安があった。それほど中内頼子は彼の中で印象深い存在であり、そして癒やすことのできないトラウマでもあったのである。





 女は二人とも全裸だった。

 片方はふくよかな胸と腰を持ち、もう片方は小ぶりな胸とほっそりとした柳腰である。ふくよかな方の髪は茶色く染めたパンチパーマだったが、細い方は黒髪に白髪が混じっているセミロングだった。

 二人とも顔にほうれい線や小じわが目立つ。スッピンだった。五十代後半、年相応の老け顔だった。

 その顔をお互いに舌で舐め合っていた。二枚の舌はお互いの瞼や耳、鼻や唇を撫でていたが、長いキスを交わしたあと徐々に下方に移動して乳首や臍を唾液で濡らした。前かがみになり、上半身のほぼすべてを唾液で濡らしたあと、ベッドの上で腰を下ろした二人は喘ぎ声を漏らしながら横になると相手の股間に顔を這わせた。シックスナインだった。

 ときおり高い声で喘ぎながら何度も大きな波に呑まれ、二人の女は体を震わせた。やがて股間同士をこすり合わせて果てると、抱き合ったまま静かになった。唾液の酸っぱい匂いが室内に立ち込めていた。

 繁華街の中にあるファッションホテルの一室だった。細身の女を抱きつかせたまま、パンチパーマの女が枕元のタバコとライターを取り、火をつけたタバコを口にくわえると言った。

「もうすぐクリスマスね。どう? 忙しいでしょ」

「今日、お客さんが来たの」

 パンチパーマの女の問いかけとは無関係なことを細身の女は言った。興味なさそうにパンチパーマの女はタバコの煙を鼻から吹き上げた。

「何だか妙な感じの客だったわ。三十代なかばぐらいの男の人なんだけど雰囲気があの子に似てた」

「誰?」

「沢渡くん。ほら、中学校のときのあの男の子」

 パンチパーマの女はタバコを吹かしながら眉をひそめた。

「息子だったの?」

「顔は似てなかったわ。全然面影が無かった」

「じゃあなぜ?」

「わからない。雰囲気なのよ、気配というか、物腰というか」

 パンチパーマの女は上半身を起こして口から毟り取ったタバコを灰皿に押し付けた。

「どうかしたの?」

 相手の微かな苛立ちを感じ取ったのか、細身の女はパンチパーマの女の顔を覗き込んだ。

「また来るかしら、あんたの店に」

「もう来ないわよ。あなたの出番はないわ」

 ククッと細身の女は軽く笑った。小悪魔の笑いだった。

「ねぇ頼子。あたしを怒らせないで頂戴」

「はいはい、泣く子も黙る明美姐さんですからね」

 細身の女は笑いながら起き上がるとバスルームの方へ向かった。





 沢渡和史は熊切明美と同じ中学校に通っていた男子生徒だった。いつもオドオドしたような目をした青白い顔の生徒で、いじめというほどではないがクラスメートの男子からプロレスごっこをさせられたり、椅子に画鋲を置かれたり、背中に卑猥な言葉を書いた紙を貼られたりしていた。

 中学三年の時に中内頼子と同じクラスにいた少年だった。別のクラスの生徒だった熊切明美が休憩時間に頼子とお喋りをするため彼女のクラスに行くと、「四の字固め」をかけられて悲鳴を上げている沢渡和史の無様な姿をよく見かけた。

 そんな冴えない少年のくせに、大胆にも頼子の顔に呆けたように見とれていることが頻繁にあった。

「気持ち悪〜い。授業中だろうと休み時間だろうとおかまいなしなの」

 明美の前で愚痴っぽい言い方をしながら頼子はまんざらでもなさそうだった。その沢渡という少年に対して明美は警戒心を覚えた。

 必要があると感じた明美は仲間の女子たちを呼んだ。そのなかにとても不良少女には見えず、絵に描いた優等生のような外見の女子がいた。中内頼子が話したいことがあるから体育倉庫の前で待っていると言ってる、とその女子は沢渡少年に伝えた。そして尻込みする沢渡少年の手を引いて体育倉庫に彼を案内した。

 体育倉庫の戸が開け放され、倉庫の中に熊切明美がいた。跳び箱の一番上の段を床に置き、そこへ足を組んで腰掛けていた。長いスカートのせいで足首どころか履いている靴さえ見えない。

 学校内で知らない者はいないほどで有名な少女がその場にいるのを見て、沢渡少年の顔は強張った。とっさに逃げようとしたが周囲を明美の仲間の少女が取り囲んだ。

「なんで呼ばれたか、わかるやろ?」

 女性教師を精神科に通わせ、男性教師の腕の骨を折った少女がのんびりと言った。

「ええかげんにしとかんと玉、失くなるで」

 そのセリフを聞いて顔をひきつらせながらブルブルと両足を震わせた沢渡少年に対してなのか、それともそのセリフに対してなのか、あるいはその両方なのか、明美の仲間の少女たちはクスクスと無邪気に笑い始めた。

 もう少し脅してやるつもりだったが沢渡少年の情けない姿を見てバカバカしくなった。これなら頼子がちょっと睨み返すだけで、事足りただろう。自分がわざわざ出張る必要など無かったのだ。

「もう行ってええで。そのかわり二度とあの子を困らせんといてや」

 沢渡少年はキツツキのように何度も首を縦に振ると、恐怖のせいで目眩でも起こしているのかジグザグに歩きながら体育倉庫の前から立ち去った。

 今さらではあるが、あれはやり過ぎだったかもしれないと思った。しかし昨今よく見聞きするストーカーによる女性の被害者の悲惨さを思うと、あながちやり過ぎとも思えないような気がした。四十年以上前のことで、ストーカーなどというワードが世の中のどこを探しても見つからなかったような時代だったが、ああいう一見、気の弱そうな男がストーカーになりやすいものだということを聞いたことがある。釘を刺しておいたのは正解だっただろう。

 あの男は今ごろどうしているのだろう。案外、どこかの大会社の社長の椅子に納まっているかもしれない。それとも今もやっぱりオドオドしたような目でどこかの会社の平社員のまま定年を迎えようとしているのだろうか。あるいは情けない自分自身の姿にうんざりして自ら命を絶ってしまっただろうか。

 ひょっとすると中内頼子の店に来たのはあの男の亡霊だったのかもしれない。無関係の人間の体を借りて中内頼子に恨み言でも言いに来たとか。

 亡霊ならかまわない。だが現実に存在する生身の人間だったら―― 

 明日は東京へ出張だった。帰ってくるのは明後日、ちょうどクリスマスイブだった。せいぜいたった二日間だが、そのあいだ頼子とは会えなくなる。

 明美は起き上がり、バスルームへ行くとその戸を開けた。 

 シャワーを浴びていた中内頼子に後ろから抱きつくと小さな洋梨のような胸の先端にある敏感な乳首を指先で転がした。バスルームの中で二人の中年女性の喘ぎ声が反響し始めた。

 




 熊切明美が勤め先の社長から東京への出張を命じられたのは十日前のことだった。

 終業時刻になり、デスクトップパソコンの電源を切った熊切明美は帰り支度を始めた。経理の仕事なのでほとんど定時で終わる。ごくまれに五十日ごとびの前後に残業があるぐらいだった。

 今夜も中内頼子と会うつもりだった。巷はクリスマスシーズンの喧騒で溢れていた。このところ連日連夜、頼子と会って肌を合わせている。巷に溢れている喧騒のせいだった。

 喧騒に同調するからではない。喧騒から逃げるためだった。頼子を抱き、その官能の中に没頭することでクリスマスにまつわる喧騒から逃れることができるからだった。

 頼子とは小学校高学年のころからの親友だった。二人とも平凡なサラリーマン家庭に生まれたが、頼子が至極真っ当な両親に育てられたのに対して、明美の親ガチャは「はずれ」だった。

 父親はおとなしくて気弱だという外面そとづらとは裏腹にDVが止まない二重人格者だった。何か気に食わないことがあれば怒りに任せて妻を殴り、蹴り倒した。その暴力の矛先は明美に向かうこともしばしばだった。父親の逆鱗や導火線の位置がわかれば、あらかじめ怒らせないように気をつけることもできただろうが、家庭では無口で感情を表に出さず、いつどこで何がきっかけで沸点に達するかわからない。母親はメンタルに不調をきたし、明美は学校へ行っている間以外は常におびえて暮らすようになった。

 そんな彼女が小学五年生のとき、クラスメートの中内頼子と席が隣り合わせになった。平凡ながら真っ当な家庭に生まれたクラス一の美少女と父親の暴力に怯える陰気で地味な女子児童はなぜか意気投合し、親友同士になった。

 そしてその友情は時を経てお互いの体の隅々まで知り尽くすような仲にまで発展した。その関係は頼子が男と結婚してからも続いていた。

 デスクの上の書類を片付け、更衣室へ向かおうとした明美に社長の野上千代子が声をかけた。

「池上商店さんあての請求書についてちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 野上は五十代なかばのバツイチ女性で、輸入雑貨の販売会社を営んでいる。熊切明美を含めて五、六人の社員がいるだけの小さな会社だった。大阪市内にあるワンフロア五十畳ほどのテナントを二つ借り切り、そこで営業している。そのうちの一つは三つに区切られ、更衣室と休憩室、そして商品を一時的に保管する倉庫になっていた。

 メインの事務所となるテナントは事務机や椅子やキャビネットが並び、部屋の奥の一角が区切られていて、そこが社長室になっていた。

 明美は顔を曇らせた。今日は頼子と会えないかもしれない。

 自分以外の社員が全員事務所から出て行ったのを確認してから、明美は社長室へ入った。

「サイドビジネスの話ですか」

 「池上商店」という言葉が出てきた時点でわかりきっていたことだが、明美は早く帰りたいということを匂わせるためにあえて問いかけた。だが明美のそんな意図を知ってか知らずか野上千代子はビジネスライクに言った。

「ええ、そうよ。そこにすわって」

 明美は社長の机の前にある応接セットのソファに腰を下ろした。

「今回はできるだけ派手にやって頂戴」

 野上千代子はクリアファイルに入った資料を明美に手渡しながら言った。クリアファイルには耳にピアスをぶら下げ、こめかみにハッシュマークのタトゥーを入れた男の写真のほかにその男の氏名、経歴、行動パターンやロケーション履歴などが記された書類が収められていた。

「電子掲示板の元管理者の男よ。ネットでしか名は知られてなかったんだけど最近テレビやラジオにも出演してそっちの方でも知名度があがってるの」

 明美は数日前、テレビのトークバラエティ番組で頭の回転は早いが他人の喜怒哀楽には無関心なその男が間抜けな野党政治家をやり込めているのを見た。

「近々、自分のサイトの運営スタッフと一緒にクリスマスパーティーを兼ねた忘年会みたいなものをやるらしいわ。そのときがいいかもね」

「ずいぶんと急な話のようですが、今回はどの方面からの案件ですか?」

 クリアファイルに収められていた資料に目を通しながら明美は言った。原則的にどんな案件も引き受けることにしていたが、あとで面倒なことになりそうな話は断ることにしていた。

「あたしよ」

 野上は薄く笑った。

「大嫌いなのよ、あいつのことが」





 どの案件についても入念な準備が必要だが、今回の案件は納期までの時間が短いのでそのぶん準備に手間がかかる。また情報量についてもクリアファイルに入っていた資料だけでは不十分だった。熊切明美は追加の準備作業や情報収集について野上千代子と念入りに打ち合わせをした。そのため打ち合わせが終わったのは日付が変わる少し前だった。

 なぜか激しい疲れを感じた。もう辞め時だろうかと思った。野上から請けるサイドビジネスのことだった。認めたくないことだが、自分も。更年期は通り過ぎたが、あと数年もすれば還暦だった。サイドビジネスに差し障りが出るだろうし、残された人生のストックを有意義に使いたいという思いもある。

 一度だけ野上千代子に引退をほのめかしたことがある。五十歳を間近にひかえた頃だった。もし自分が辞めてしまったら何か差し障りがあるだろうかと遠回しに訊いてみた。千代子は軽く小首をかしげながらうろたえる様子もなく、かと言って突き放すわけでもないような口ぶりで「そうね。あなたが辞めたいというのなら仕方ないわね。後任を探すわよ」と微笑んだ。

 ハードルは低かった。だがそのハードルを越えた先に深い落とし穴や鋭いトラバサミがある可能性を考えないほど明美は愚かではなかった。

 「池上商店」というのは野上千代子が営んでいるサイドビジネスの符牒だった。それも軽々しく口にできるような類の符牒ではなく、そんな符牒を使わなければならないようなサイドビジネスの後任が最初に手掛ける仕事は、いろいろと知り過ぎている前任者の口封じとなる可能性が高い。それがよくわかっているからこそ、明美は辞めるとか引退とかいう言葉は自分の方からは口が裂けても言わないように心がけていた。

 このまま年齢を重ねて自ずと辞めざるを得ないようになるのを待つしか無かった。それがもっとも安全な方法だろう。その頃には野上千代子自身も引退を考えざるを得ないはずだ。

 二人ともほぼ同い年だった。三十年ほど前、刑事事件の被告人となった明美の弁護を千代子の父親が担当した。千代子の父親は弁護士で、明美が女子刑務所を出所後、明美が就職するときの身元保証人になった。それが縁となり、明美はパラリーガルとして父親の事務所で働いていた千代子と出会ったのだった。

 その後、千代子は父親が病死したのをきっかけに弁護士事務所を閉め、小さな貿易会社を興した。それと同時に千代子は出所して町工場で勤めていた明美に声をかけ、自分の会社の社員にした。

 野上千代子の会社は輸入雑貨を取り扱っていた。インテリア小物や文房具をはじめとして食器や家電品、小さな家具や食品、飲料品など、その商品構成は多岐にわたっていた。しかもそれらの商品以外に千代子の会社は法的にグレーゾーン、場合によっては明らかにブラックなものも扱っていた。

 そんな会社の経理係として働いていた明美は、千代子のビジネスに反社会的な性質を持った裏の顔があるということを薄々感づいていたが、それを然るべきところへ通報しようという気にはならなかった。本質的に千代子と気脈を通じるところがあったのだろう。いつのまにか明美は阿吽の呼吸でそういった千代子の裏の顔に慣れ親しんでいき、やがて経理以外にも会社がおこなっているサイドビジネスの実務担当としての顔を持つようになった。

 その実務には特殊な技能と才能が必要だった。野上千代子はその技能を習得させるために明美を東南アジアに在住する経験者のもとへ向かわせた。そこで明美は一年かかって身に付くものをわずか半年で習得した。

 野上千代子は自分の目に狂いはなかったと確信した。技能は学べば身に付くものだが才能はそうはいかない。彼女のサイドビジネスにおいて明美はその才能を遺憾なく発揮した。仕事もきれいだった。

 二人はこうして一蓮托生となった。とはいえ明美は千代子に対して一定の距離を置くことを常に忘れてはいなかった。

 千代子の人脈や金脈には何か得体のしれないところがある。なぜそんな人間と付き合いがあるのだろうかとか、そんな情報をどこでどうやって手に入れたのだろうかとか、どこからそんな大金を調達したのだろうかとか驚愕するようなことが何度もあった。 

 彼女のサイドビジネスの実務担当者である自分の方が幼気な子供に思えるほど、野上千代子には底しれない恐ろしさがある。致死性のある猛毒の牙を持った羊のような不気味さだった。

 だからこそ迂闊に引退話を切り出すことはできない。野上千代子が中内頼子という女性の存在やその女性と自分との関係を知っていたとしたら場合によっては自分ばかりか頼子にまで危険が及ぶだろう。

 野上の会社が入居しているビルを出た明美は底冷えのする深夜の街を歩いた。繁華街に近い場所でしかもクリスマスシーズンだったので、十二時を過ぎても人の行き来が多かった。

 毎年この時期になると街は賑やかになり、テレビやラジオやネットはサンタクロースやクリスマスツリーの独壇場になる。だが自分にとってこの時期に感じるのは常に忌まわしさだった。もうじき六十路を迎えようとする今でもそれは変わらない。

 どうしても頼子に会いたくなった。メッセージアプリではなく、直接電話をかけることにした明美はスマホを取り出した。





 泊まっているビジネスホテルの一室にケーキを持ち帰り、自分一人きりになった沢渡和史は、室内の床に映っている自分の影に目を向けた。

 その影を見つめながら、沢渡は意識の重心を影の方に移動させた。

 俺が影を動かしてるんじゃない。影が俺を動かしてるんだ――

 そんなふうに思うと同時に、沢渡は全身が痺れていくのを感じた。肉体が他人のものになっていくような生暖かい触感が体の隅々にまで行き渡り、同時に足元の影が頼り無げに蠢いた。影はやがて大きな生き物の形を整えた。床に這う黒いヤモリだった。

 いったん像を結んだヤモリの影は再び揺らめき始め、今度はヤモリから人間の形へと変わった。五十代後半の中年男の影だった。その影に倣って沢渡の肉体も変化を遂げる。ナチュラルヘアの髪は毛根へ向かって減退して禿げていき、顔には年相応のシワやたるみが生じた。

 地味で目立たないながらも三十代半ばの若さを保っていた男は、あと三、四年もすれば還暦を迎える中年男性へと変貌した。顔立ちも面長で表情に乏しい感じだったものが、頭が大きくて顎の尖った神経質そうな印象に変わった。

 沢渡は影使いだった。

 影の形を変えることによって自分の肉体をその影の主と同じものに変えることができるのである。警察から追われている逃亡者の彼はそうすることによって追跡から逃れていた。

 さっきまでの三十代の男性の肉体は動画投稿サイトにアップされているミュージックビデオに出演していたエキストラ俳優のものだった。ビデオの演出効果として、その俳優の影が鮮明に映っていたので、自らの影をその影と同じ形に変え、その俳優と同じ顔貌と肉体を手に入れたのである。特徴に乏しい顔の男だったので逃亡生活にはちょうどいいと思い、その男を選んだ。

 影の形を変えることによって変化するのは肉体だけだった。服装や持ち物までは変わらない。そのため沢渡は洋服店へ行くと、その年代や容姿に相応しい服を選んで着替えた。

 そうやって他人になりすましていた沢渡は、中内頼子が勤めているケーキ屋でケーキを購入すると泊まっていたビジネスホテルに帰り、影の形を自分本来のものに戻した。そうすることによって顔貌と肉体も本来の自分のものに戻したのである。

 影がヤモリの形に変わったのは、彼がそういった影使いとしての力を発揮する時に特有の現象だった。

 部屋に設えてある姿見を覗いた沢渡は、頭部の両側はフサフサとしているのに、中央部の地肌が露わになっているのを見て、まるで農夫や残党狩りに追われる落ち武者のようだと思った。体も猫背で姿勢が悪く、三十代男性が着るような衣服とのギャップのせいで、なおさらみすぼらしさが目立った。

 だが、これが本来の自分の姿だった。来年で五十七歳になる自分の姿なのだ。

 さっきの三十代の俳優の姿のままでずっといようかと思う時がある。その方が肉体的にも精神的にも活動的で、体中にエネルギーが満ち溢れているから、むしろもっと若くてもいいだろうとさえ思う。

 だが逃亡生活を続けている以上、実際の年齢との食い違いが言動や身のこなしに現れるとまずい。せいぜい三十代半ばというのが不自然に思われないためのギリギリのラインだと自分では思っていた。もっとも、時が経てばいずれ三十代半ばの姿でも言動に不自然なものが生じてくるようになるかもしれない。

 沢渡はテーブルに置いたケーキの箱からケーキを取り出し、コンビニで弁当を買う時に貰った割り箸を使ってケーキを食べ始めた。

 少年時代からの取るに足らない夢が叶う瞬間だった。箸でケーキを食べるのは結構むずかしかったが沢渡は食べ続けた。だが箸の扱いよりも、むしろ食欲の限界が沢渡を苦しめた。

 十号ぐらいのかなり大きなホールケーキだった。パーティーかイベント用に作ってあったものがキャンセルになったのだとケーキ屋の店員の中内頼子は言った。沢渡が予約無しで手に入れることができたのはそのせいだった。

 沢渡の記憶の中にあるヒーローが食べていたものもそのぐらいの大きさだった。ヒーローも全部食べきれずに半分ぐらいは残していたようだったが、沢渡は三分の一ぐらい食べたところでギブアップしてしまった。

 元の姿に戻ったせいかもしれない――沢渡はそう思った。何もわざわざ五十代後半という元々の年齢に戻らなくても良かっただろう。三十代半ばの男性の胃袋でも、その大きさのホールケーキを完食するのは無理だったかもしれないが、七割ぐらいは食えただろう。少なくともあのヒーローと同様に半分は食べきることができたはずだ。

 直径三十センチもあるホールケーキをたった一人で箸を使って食べるなど、傍から見れば実に馬鹿げたことだった。しかも沢渡は、五十代後半という自分本来の年齢に戻ってその馬鹿げたことをおこなおうとした。そういったどうでもいいことにこだわるという妙な癖が沢渡にはあった。

 小さなビジネスホテルの一室でテーブルの上に乗ったケーキの残骸を見ているうちに、後悔の念がひしひしとこみ上げてきた。食べ物に対する罪悪感を伴ったその後悔は、やがてやり場のない苛立ちへと変容した。自らの愚かさが招いた失敗から目を背けようとしたが、幼い頃から親に言い聞かされて身に染み付いていた「食べ物を粗末にするな」という訓戒が容赦なく沢渡を責め立てていた。

 こんなことになったのは自分のせいだ。だが直径三十センチもあるケーキを食べ切れるかどうか確認もせずに売ったケーキ屋もどうかと思う。そんな身勝手な理屈で自分を納得させようと思ったが、沢渡の苛立ちは治まらなかった。

 中内頼子の笑い声が聞こえたような気がした。こんなに大きなケーキを一人で食べられるわけ無いじゃん。沢渡君っていくつになってもお馬鹿さんなのね――

 教室で彼女の顔に見とれていたとき、まともに目が合ったことがある。何度も中内頼子の顔に視線を向けていたので相手も感づいていたようだった。何かを飲みくだすような仕草をしてから中内頼子はクスクスと笑い始めた。そのときはなんとも思わなかったが、あとから猛然と恥ずかしくなった。

 そのあとだった。体育倉庫に呼び出されて熊切明美から脅し文句を聞かされたのは。熊切明美が中内頼子と友人同士だということは知っていたが、中内頼子の顔に見とれていた自分に脅しをかけてそれをやめさせようとするとは夢にも思っていなかった。

 恐怖と屈辱が彼の心にトラウマを刻みつけ、それっきり中内頼子の方に視線を向けることはなくなった。そしてそれ以来、彼の内面に女性への盲目的な畏怖と不信感が居座ったのである。女性恐怖症になったわけではないが、女性とコミュニケーションを交わすことが著しく苦手になってしまった。

 女性が自分と同じ人間であると心底思えるようになったのは、成人して社会人になった沢渡が妻となる女性と出会ってからのことだった。

 ケーキを食べきれなかったという後悔の念が長年にわたって封印していた恐怖と屈辱を蘇らせた。自分がそうなったのは中内頼子のせいなのだ。そしてケーキを食べ残してしまったのも彼女のせいなのだ。そんな一方的な思い込みによって、沢渡は食べ物を粗末にしてしまった自己嫌悪を無意識のうちに塗り潰した。

 中内頼子に報いを受けさせなければならない――

 沢渡の中に暗い情熱がたぎり始めた。





 東京へ出張した熊切明美は夜半過ぎに仕事を済ませ、大阪市内の自宅のマンションに昼ごろ戻って来た。

 中内頼子にメッセージアプリで連絡した。「今夜会えない?」というメッセージを入れるとすぐに既読が付いたが、返事はなかった。

 今日はクリスマスイブだったことを明美は思い出した。ケーキ屋の仕事がよほど忙しいのだろう。

 土曜日だったので会社には出勤する必要がなかった。もっとも、明美がサイドビジネスの実務を完了したあとは、いつも丸一日休暇を取っていいことになっていた。

 テレビのスイッチを入れた。土曜の午後、しかも二時前という中途半端な時間帯でNHKのニュース番組も流れていない。明美はスマホのブラウザアプリでポータルサイトを閲覧した。

 そのニュースは速報扱いになっていた。匿名掲示板の元管理人で実業家の男性が東京都内のタワーマンションの自室で遺体となって発見された。男性は四十歳で実業家としての顔の他にネットやテレビ、ラジオにおいてタレント活動をおこない、飄々とした雰囲気で人気の高い毒舌コメンテーターとしても知られていた。

 遺体の損傷がひどいためDNA鑑定による確認が必要だが、身に付けていた服装や持ち物、発見された場所からこのタワーマンションの一室を事務所代わりに使っている実業家にほぼ間違いないとのことだった。

 警察は他殺とみて捜査をおこなっているが、セキュリティの厳重なタワーマンションで犯人がどうやって被害者を殺害し逃走したかは、まだ現時点では目撃者も遺留品も見つかっていないため、皆目わからないらしい。

 明美はブラウザを閉じた。はずだった。野上千代子は明美が頼んだ通りに段取りを整えてくれていたし、自分もミスはしなかった。

 あのタワーマンションには玄関とエレベーターと住戸の三か所に渡ってオートロックが備わっている。来客はコンシェルジュから借り受けたカードキーがなければそれらのロックを解除できないようになっていた。建物内には要所要所に防犯カメラがあり、もちろんエレベーター内にも防犯カメラはある。

 「納期」に余裕があればタワーマンションの清掃担当員、あるいはマンション内にあるラウンジや喫茶店の従業員として潜り込むつもりだったが、時間がなかったので「正面突破」をせざるを得なかった。

 野上千代子は海外のハッカー集団とコンタクトを取り、日本国内のセキュリティシステムへ恒常的に不正アクセスをおこなっているハッカーを雇った。そして高額の報酬と引き換えにターゲットの住むタワーマンションのセキュリティシステムを乗っ取らせたのである。

 さらに野上千代子はマンションの出入口やエレベーター、各住戸に自由に出入りができるマスターキーのようなカードキーをハッカーに偽造させ、明美に渡した。そのカードキーを使ってコンシェルジュが居ない深夜、マンションにまんまと侵入した明美はターゲットの男の部屋に忍び込み、酔って帰宅したその男を襲った。

 普段は用心深い実業家の男は忘年会で飲んだ日本酒とビールのチャンポンによって強かに酔い、常に人から恨みを買うような言葉を発しているという自覚に基づいたいつもの警戒心がゆるくなっていた。キッチンの食器棚の陰に隠れていた明美はミネラルウォーターを飲もうとして冷蔵庫を開けた実業家の背後から忍び寄り、スマホを振り上げた。

 スマホのイヤホンジャックは仕込み針になっており、そこから飛び出たチタン鋼の細い針が実業家の男の延髄に食い込み、男は即死した。それから明美はキッチンにある色々な道具を使い、眼球をくり抜き舌を切断し鼻と耳を削ぎ落としたあと、男の部屋を出てタワーマンションから立ち去った。

 明美の一連の行動はタワーマンションのセキュリティシステムに記録されるはずだったが、明美の行動と同時進行で野上千代子の雇ったハッカーがダミーのデータを上書きしていた。そのため明美の存在は記録には一切残らなかったばかりか、マンションに入ってからも防犯カメラの映像を監視しているハッカーが人目に晒されないように明美にスマホを通じて指示を与え、安全な動線上に彼女を誘導した。このようにして明美は誰にも見咎められることなく、任務を遂行することができたのである。

 野上千代子には仕事の直後にメッセージアプリで連絡を入れていたが、明美はポータルサイトのニュースを見てもう一度、野上千代子に連絡を入れた。笑顔の絵文字とともに「お疲れさま」という返信が来た。

 今回の仕事は千代子本人からの依頼だった。ビジネスではなく、有り体に言えば彼女の私怨を晴らすためである。それもあの男の言動が気に食わないという極めて感情的なものだった。

 事あるごとに女性は無能だの頭が悪いだのと吹聴し、ジェンダーフリーの知識人を攻撃してぐうの音も出ないほどにやり込め、ミソジニスト女嫌いたちの称賛を浴びるあの男に対して明美も激しい不快感を覚えていた。しかし殺してやりたいと思うほどではなかった。

 野上千代子は筋金入りのミサンドリスト男嫌いだった。結婚する前はそれほどでもなかったが、二年で終わった結婚生活が彼女を変えたのである。明美も千代子に負けないほどのミサンドリストだったが、彼女が殺意を覚えるほど憎悪するのは言葉で女性を愚弄する男ではなく、肉体的暴力によって女性を蹂躙する男だった。千代子の父親に弁護を引き受けてもらうようなことになったのも、そういう男を手にかけたからだった。

 野上千代子とは長く深い付き合いだが、「気に食わない」という理由だけで人を殺めるという彼女の心理に明美はあらためて底知れない恐ろしさを感じた。千代子がこんなふうに個人的で感情的で短絡的な理由で明美に仕事をさせるというのはこれまでに無かったことだった。

 沈着冷静な経営者である彼女にも老いが訪れたのかもしれない。これ以上、彼女と一蓮托生の関係でいるといずれ何か深刻な破滅的結末を迎えるような気がする。

 野上千代子とはもう縁を切るべきなのだ。やはり今が辞め時なのだろう。だが辞めるとしたら頼子の身の安全も考えてやらなければならない。頼子は明美のサイドビジネスのことや野上千代子の裏の顔をまったく知らないのだ。

 明美はスマホに目をやった。依然としてメッセージアプリに頼子からの返信は無い。電話をかけてみたが留守電に繋がった。

 時刻は午後二時過ぎ。ケーキ屋の閉店時間まで六時間近くあるが、妙な胸騒ぎを覚えた明美はケーキ屋まで行ってみることにした。





「ほんま、ワシも困ってるねん」

 ケーキ屋の店主はショーケースの向こうから不機嫌そうに言った。そばには店主の女房なのか急遽雇ったパート店員なのか、白いベレー帽とコックコートで身を固めた中年女性がぎこちない仕草でケーキの箱詰め作業をおこなっている。

「今日はクリスマスイブやで。一番忙しい時や。そんなときに無断欠勤やなんて殺生な話やがな」

 昨日、頼子は通常通り出勤していたらしい。ところが今朝、店の始業時刻になっても姿を見せず、ケータイや自宅の固定電話に連絡を入れても電話に出ないのだという。

 明美より少し年上の店主はジロジロと無遠慮に彼女の方を見た。その視線に少なからず好色なものが滲んでいるのを感じた明美は無言でケーキ屋をあとにした。

 相手がもっと若い二十代ぐらいの女性なら、貧相なプライドや世の流れを気にして絶対にあんな目つきはしないだろう。自分と同年代の年増だからと見下し、スクラップ置き場から砂金を漁るような感覚でわずかに残った色香を楽しもうとしていたに違いない。

 不潔な目をしただった。一応、調理師か食品衛生責任者の資格を持っているパティシエなのだろうが、あんな目つきをする男が作るケーキを食べたらたちどころに腹を下してしまいそうだ。サイドビジネスのターゲットにしてやろうかと思った。

 何か只事ではないようなことが頼子の身の上に起こったような気がした。頼子の自宅へ行ってみようと思い、明美はタクシーを拾った。

 頼子のことが心配だったが、なぜかタクシーに乗ってからもさっきのケーキ屋の店主のおぞましい視線の記憶が頭にこびりついて離れなかった。それはやがて明美の脳裏に押し込んでいた忌まわしい記憶を蘇らせることになった。あれは小学六年生だったころ、クリスマスイブの夜だった。

 眠っていた明美は物音で目を覚ました。明美の家は平屋ではあるものの一戸建ての住まいだった。そして一応、四畳半ほどの部屋が一人娘の明美のためにあてがわれていて、明美はそこで寝起きをするようになっていた。

 日常的に家族に暴力を振るうような父親がいる家庭ではあったものの、クリスマスの朝には必ずプレゼントが枕元に置かれていた。もっともそれはいつも母親が気を利かせて置いてやっているものだったが、明美はサンタクロースという優しいおじさんが本当にいるのだと信じ込んでいた。サンタクロースの正体などとっくにわかっているはずの年頃だったが、父親の存在が恐怖と邪悪さの象徴でしかなかった明美は本気でそう思い込んでいた。

 自分の家にサンタクロースが来たのだ。絶対に子供には姿を見せないサンタのおじさんに会えるかもしれない。寒いのを我慢して布団から出た明美は襖戸を静かに開け、音がする方へ忍び足で向かった。サンタのおじさんが気づいて逃げられると困るからだった。

 音は台所のある部屋の方から聞こえた。部屋を出て廊下を挟んだすぐそばにその部屋があり、部屋と廊下を隔てるものは何も無い。天井からぶら下がっている蛍光灯のナツメ球の明かりと部屋の隅っこに置いてある電気ストーブの光のせいで赤く染まった部屋の様子がぼんやりと見て取れた。流し台のそばに安っぽい木製の食卓があり、そこに黒くて大きなものがかぶさっていて食卓のきしむ音が規則的に聞こえてきた。明美が目を覚ますきっかけとなった音の正体はそれだった。

 よく見ると黒いものの下に花柄を散らした白いものが見える。母親が寝る時に着ているパジャマの柄だ。白いパジャマの上にかぶさっているのは黒っぽいスーツを着た男だった。

 男は明美の父親だった。その下にいるのが自分の母親だということは明美にも容易に想像できたが、その不条理な光景に彼女は全身から血の気が引くのを覚えた。DVを繰り返す父親がいる家庭という生活環境が常態化していながらも、そのとき明美が感じた混乱は筆舌に尽くしがたい物があった。足元の床が崩れて地の底に呑み込まれそうな不安定感が彼女を包んでいた。

 残業があるのか会社の飲み会に参加するのかわからないが、クリスマスイブの夜、父親はいつも不在だった。そのためイブの夜に一家三人で食事をしたりケーキを食べたりしたことなど一度もなかった。だが明美はむしろ母親と二人だけで過ごす平穏なイブの夜が楽しかった。

 そんな静かであるべきイブの夜に明美は母親が父親に背後から抑え込まれ、苦しそうな声を上げている姿を目にした。二人とも腰から下が露わになっていて、食卓の下にはクリスマスプレゼントと思しき赤い包み紙の箱が無造作に転がっている。

 寒さとは別の震えが全身から湧いてきた明美は来たときと同じように忍び足で自分の部屋に戻った。眠ることなどできず、夜明け頃にようやくウトウトし始めた。

 翌朝、目を覚ました明美は食卓の下に転がっていた赤い包み紙の箱が枕元にひっそりと置かれていることに気づいた。その赤い箱を見たときから明美はサンタクロースなどいないということを悟った。もしいるとしたらそれは平穏な夜を地獄に変える黒いスーツ姿のサンタクロースだった。

 それからの明美は父親を始めとする男性全般に対して敵意を抱くようになった。中学生となり、体も心も成長し、あのイブの夜に両親が何をしていたかを知るようになった明美は、自分に対してときおり父親が向けてくる視線に強烈な憎悪と嫌悪を感じた。父親が台所の部屋で母親に対してやっていたようなことを自分にもやろうとしているのだと思った彼女は荒れた。不良の構成要件となるようなことを一通りこなし、暴力によって相手を屈服させる癖がついた。

 そんな明美に対して両親は距離を置くようになった。今までさんざん暴力を振るっていた父親も実の娘の荒れ具合を見て指一本触れようとしなくなったが、明美にとっては物足りなかった。何か仕掛けてきたら渡りに船とばかりに今までの礼を利子付きで返し、片輪にしてやろうと思っていたのだ。

 暴力が父親の虐待に対する抑止力として有効だと気づいた明美は綺麗事などクソ喰らえと、これみよがしに武勇談を積み重ねていった。その派生効果で父親は母親にも手を上げることがなくなったが、荒れに荒れる明美の姿を悲しんだ母親は病んでいた精神の状態がなおさらひどくなり、やがて精神科の病院に入院することとなった。

 そうなると明美もさすがに限度というものを意識し始めた。中学を卒業後は親戚が経営する飲食店で働くようになり、少しずつではあるが素行も性格も穏やかになりつつあった。父親との間には依然として大きな溝があったが、父親が自分を見る目に何の下心も無いのだということを認めるだけの余裕が生じていた。父親も以前のように暴力を振るうことはなくなり、毎週のように入院中の妻の見舞いへ行く父親の姿を見ているうちに、父親の視線に対して感じていた禍々しさは自分の勘違いだったのだろうと思うようになったのである。

 飲食店で働いていた明美は二十歳になった。常連客の中に彼女に交際を申し出る若い男性が現れ、ぎこちないながらも明美はその男性と付き合い始めた。交際は順調に進み、結婚話も持ち上がった。

 だが、結局その結婚話は実を結ばなかった。クリスマスイブの日、再びあの黒いサンタクロースが現れたのである。





 中内頼子の住む家はパート先のケーキ屋から私鉄の駅を三つ隔てた閑静な住宅街にあった。一戸建ての二階屋で狭いながらも庭があり、周囲を塀で囲まれている。自宅は数年前に死別した夫のもので、頼子は一人暮らしだった。娘夫婦は関東の方で所帯を持っている。

 夕刻だった。ケーキ屋を出るとき、念のためもう一度電話をしてみたが、やはり留守電だった。ここへ来るまでに頼子から何か連絡が来るのではと僅かな望みを抱いていたが、何も連絡はなかった。

 熊切明美は玄関に続く門に取り付けてあるカメラ付きインターホンのボタンを押した。呼び鈴の音が鳴り、しばらく待つと「はい…」という生気の無い頼子の声が聞こえた。

「あたし。入るわよ」

「どうぞ…」

 いつでも入れるように明美と頼子はお互いの自宅の合鍵を持っていた。明美は門を抜けて玄関まで行くとハンドバッグから合鍵を取り出してドアを開け、中に入った。薄暗い廊下の向こうにダイニングキッチンから漏れている明かりが見える。明美が廊下を通ってそこへ行ってみると、薄紫のトレーナーの上下を着た頼子がテーブルで両手を組み、その上に顎を乗せていた。

「ケーキ屋に行ってみたわ。いったいどうしたの?」

 明美の問いに頼子は無反応だった。虚ろな視線がテーブルの上に置かれたティーカップに注がれていた。カップには半分ほど冷めた紅茶が入っている。室内はエアコンが効いていて暖かかったが、なぜか明美は寒気を覚えた。

 髪は乱れ、メイクもしていない。ふだんは若く見える頼子の顔が年相応どころか十歳以上も老けて見えた。

「何かあったの?」

 明美は頼子の両肩に手をかけ、強引にこちらを向かせるときつく頼子を抱きしめた。そのまま唇を合わせようとすると、頼子は顔を背けて激しく抵抗した。逃げようとする彼女を無理やり押さえ付け、明美は頼子の耳元で囁いた。

「あたしがいるからもう大丈夫よ。言って。何があったの?」

 不意に頼子は顔をひきつらせながら動かなくなった。それから消え入りそうな声で言った。

「来たのよ。が」

「誰よ、って」

 嫌な予感を覚えながらも明美は頼子の言ったことを確認しようとした。

「言ってよ、誰が来たの?」

 頼子は声を震わせながら昨夜のことを話し始めた。

 その夜、勤めの終わった頼子はケーキ屋を出て自宅へ向かおうとしていた。午後九時になんなんとしていて、いつもならラッシュ時を過ぎた時間帯なのだがクリスマス間近のせいなのか忘年会シーズンだからなのか、夜遅くなるほど電車が込むようになっていた。

 頼子は電車の駅へと急いだ。信号機付きの交差点が見え、歩行者信号の青いランプが点滅している。小走りに横断歩道を渡ろうとしたとき、下半身が妙に粘るような感覚を覚えた。

 大量のチューインガムが足の裏にへばり付いている。そんな感じがして頼子は足元を見た。ブーツを履いた足はびくとも動かず、ブーツが地面にくっついているというよりかは地面からブーツが生えているかのようだった。

 とりあえずブーツを脱ぐために頼子はしゃがもうとしたが、どうしたわけかしゃがむこともできなかった。それどころか下半身全体が動かなくなってしまっている。

 地面から何か物質を硬化させる薬剤が滲み出てそれがブーツから足へ、足から下半身全体へと這い上がってきている。そんな気味の悪い感覚におびえ、悲鳴を上げようとした頼子だったがその薬剤はいつのまにか彼女の上半身にまで這い上がってきているらしく、声を出すことすらできなくなっていた。

 地中深くまで根を張った灌木のように頼子は立ち尽くしていた。そこはコインパーキングのそばで、ゲートから離れた位置だったから良かったようなものの、そうでなければ車の入庫や出庫に差し障りがあり、下手をすれば自動車に轢かれてしまうところだ。

 「最初の入庫から24時間800円」と記された看板の横に誰か立っていた。看板の脇にある照明灯で逆光になっているのでわかりにくかったが、目を凝らすとベージュ色のハーフコートを羽織り、灰色の厚手のセーターと黒いズボンを身に着けた男だということがわかった。

 見覚えのある男だった。昨日、予約無しで十号のホールケーキを買いに来た男だ。どこと言って変哲のない三十代ぐらいの男だったが、伏し目がちな目は弱々しく、声に張りがなく猫背だった。そのくせこちらの顔を窺い、何かを確認するかのようにしていた。

 はるか昔、自分が女子中学生だった頃に沢渡和史というクラスメートが居た。頼子に興味を示し、四六時中、彼女の顔に見とれている初な男子だった。頼子は彼のことを何とも思っていなかったが、冗談交じりに熊切明美に彼のことを話した。

 そのころから頼子は明美が自分のことを単なる友達以上の存在として付き合っていると薄々感づいていた。独占欲が強くて怖いもの知らずのスケバンだった明美がどんな行動に出るか想像はついたが放置した。自分の中に棲む小悪魔に唆されたのだ。

 男の自信なさげで臆病で、それでいて無意識のうちに大胆さを見せるような雰囲気があの沢渡和史に似ていた。コインパーキングの看板の脇に立つその男は現に今も、同じ雰囲気を放っていた。気弱なくせに、それとは裏腹なこだわりの強い目で男は頼子を見つめていた。

 尾行されていたのだろう。ケーキ屋の近くで待ち伏せし、パート勤めを終えた自分が出て来るのを待っていたのだ。不意に頼子は恐怖を覚えた。身動きができない今、もしあの男に何かされたらどうしよう。

 年齢が五十代後半でも安心はできない。最近の若い男は熟女が主役のアダルトビデオを好んで見るという話を聞いたことがある。明美といっしょに炉端焼きの店へ行ったとき、近くの席で酒を飲んでいた若いサラリーマンの男たち数人が酔眼をギラギラさせながらそういう話をしていた。オバサン二人が仲良く酒を楽しんでいるのを見てからかおうとしたのだろう。品性下劣な連中だった。

 唐突に男は看板のそばを離れると、交差点へ向かって歩き出した。

 頼子は悲鳴を上げようとした。さっきまで地面に根っこを張っているかのように動かなかった足がいきなり前へ進み始めたのだ。自分の意志とは無関係に動く足に頼子は化け物じみたものを感じた。

 足は男のあとを追って横断歩道を渡った。交差点の歩行者信号はちょうど青だった。男と付かず離れずの距離を保ちながら、男に引きずられるようにして歩いていた頼子は地面に映った自分の影を見た。

 彼女の影には男の影が寄り添い、繋がっていた。四足歩行の生き物を連想させる不気味な形をした男の影は、頭部にあたる部分から舌のような細い影を伸ばしていた。男の影と頼子の影はその細い影で繋がっていた。

 まるで獲物を捕らえたカメレオンの舌のようだった。――




10


 明美には頼子の話がにわかには信じられなかった。

 風をひいて高熱を発し、せん妄状態になっているのかと思った。だがさっき体に触れたときは体温も特に高くはなく、咳や鼻声のような症状も見られない。

 何か恐ろしい体験をして気が動転しているのかもしれないと明美は思った。自分が引退を考えていることを察した野上千代子が、誰かを雇って頼子を危険な目に遭わせ、引退を思いとどまらせようと自分を脅迫しているのかもしれない。自分と頼子との関係は野上千代子には知られていないはずだが、弱みを探るために探偵にでも調べさせたのだろう。

「それからどうなったの?」

 明美は頼子に話の続きを喋るように促した。頼子はティーカップに残っていた冷たい紅茶を一気に飲み干すと、声を震わせながら話し始めた。

 男とともに歩き続けた頼子はそのまま男と一緒に駅まで行き、切符を買った男とともに電車に乗った。抗うことができなかった。手足があらかじめ空間に開けられた穴の中にすっぽりと嵌まっていくかのように次々と動き、定期券を改札機に通した頼子はそのまま男のあとについて電車に乗り込んでしまった。

 他の乗客に助けを求めるために叫ぼうとしたが、舌が麻痺しているのかピクリとも動かない。なすすべもなく男とともに乗客で混み合う車内で電車のつり革を握って立っていた。

 やがて電車は頼子の自宅の最寄り駅に到着した。男と一緒に電車を降りながら頼子は死にものぐるいで声を出そうとしたが無駄だった。声は出せなくても顔の表情で誰か察してくれるかもしれない。とっさにそう思いついた頼子は顔を歪めて苦しそうな表情を見せようとしたが、それも無理だった。顔の筋肉を動かすことができず、能面のような顔のまま駅から外に出た。

 駅前から男と一緒に歩いて自宅に着いたとき、男は一歩下がって頼子を前に行かせた。手が勝手に動いてコートのポケットからキーケースを取り出し、さらにそこから自宅の玄関のドアの鍵を引っ張り出した頼子はドアを鍵で開けた。

 そのまま家の中に入った。壁際の照明器具のスイッチを入れて廊下の明かりを点けた。玄関へ入ってくる男の気配を背後に感じ、頼子は激しい恐怖を覚えた。男は玄関の鍵をかけると靴を脱いで頼子とともに家の中に上がり込んだ。

 頼子はありったけの大声を上げようとしたが、喉も唇も一ミリたりとて動かすことができない。意志とは関係なく階段をのぼって二階へ行き、あとをついてきた男とともに寝室へ入ったときは絶望感で失神しそうになっていた。

 なぜひとりでに手足が動いてしまうのかわからないが、どうやら今までの自らの不可解な行動はこの男の意に沿ったものではないかということに頼子はようやく気づき始めた。

 自分はこの男の操り人形もしくはロボットになってしまったのだ。

 男は寝室のドアを閉めるとドレッサーの上に置いてあったリモコンを手に取り、エアコンの電源を入れた。機械の稼働する音が聞こえ、生ぬるい空気が流れてくるのが感じられた。

 頼子はコートの前に両手をかけた。袖から両手を抜き、脱いだコートを床に放り投げ、その下に着ている紺色のセーターも脱いだ。立て続けに脱いでいき、カフェオレ色のブラジャーとパンティだけになった。

 男は頼子に近づくと彼女のブラジャーを外し、パンティに手を伸ばした。頼子の膝は糸で引っ張られているかのように上昇し、パンティを脱がせようとする男の手の動きに合わせて足を動かした。

 床にコートやセーターやスカート、そしてブラジャーとパンティが散らばっていた。全裸になった頼子の乳房を男は背後から鷲掴みにしてひとしきり揉みしだいたあと、前に回り込んで乳首を口に含み、転がした。それから硬い塑像と化して立ち尽くす無防備な頼子の体の隅々まで愛撫し、穴という穴すべてを指と舌でほじくり回した。

 快感などあろうはずもない。人間ではなくラブドールとして扱われる不快さと屈辱、そして男がいつどんな行動に出るかわからないという恐怖しか無かった。

 男は頼子の体を気の済むまで嬲ると、自分の着ている衣服を脱ぎ始めた。男の次の行動を察した頼子の恐怖は最高潮に達し、吐き気と目眩が彼女を襲った。そんな頼子の体は男が全裸になると、重力が倍加したように床に崩折れた。そのままいざるように男の前へ進んだ頼子は、傍若無人に宙を向いた男の一物を口に頬張った。

 抵抗することは一切できなかった。男に抵抗すると言うよりも、自分の体に抵抗ができなかった。目に見えない磁力に引かれるように体が勝手に動いてしまうのだ。頼子は鼻孔で呼吸をしながら両手を男の腰に据え、顔を前後に動かし始めた。男は三十秒も経たないうちに頼子の頭髪を両手で摑み、腰を振りながら果てた。頼子の口蓋や舌や喉は彼女の意志を無視して別種の生き物のように男が放ったものを飲み下した。

 身悶えしたくなるような嫌悪感で涙を流している頼子から男はゆっくりと離れた。男が離れると同時に頼子は床の上に仰向けになった。抵抗することができなかった。自分の体であって自分の体でないものは、仰向けになったまま股間を広げて男を受け入れる体勢を整えた。

 男はひざまずき、ゆっくりと頼子の上にかぶさっていった。――




11


 男は頼子の肉体を凌辱したあと、何も言わずに立ち去った。あまりの不条理さと理不尽さ、男が自分に対しておこなった口にするのもおぞましい行為にショックを受け、明美が訪れるまでずっと放心状態になっていたのだと頼子は言った。

 明美は頼子が体の自由を奪われて男の意のままとも思えるような行動を取ったことについての不可解さを感じながらも、それを上回る激しい情念に全身を灼かれていた。

 頼子が不憫だった。自分がサイドビジネスで東京へ行ったりしなければ、彼女はこんな目に遭わずに済んだはずなのだ。昨日の夜、頼子といっしょに過ごしていればこんなことにはならなかった。

 なぜクリスマスイブに自分はいつも忌まわしいことに遭遇しなければならないのか。クリスマスイブが呪われているのか、自分が呪われているのかわからないが、明美は生まれて初めて人間に対する目のくらむような殺意を覚えたときのことを思い出した。

 あれは二十二歳のときだった。あの日もクリスマスイブだった。

 二十歳のときから勤めていた飲食店の常連客と懇ろになり、その男との結婚話が持ち上がった。相手の男性は普通の真面目なサラリーマンだった。話は順調に進み、一ヶ月後には結婚式を挙げるまでこぎつけた。

 クリスマスイブだった。二人で食事をすることになり、自室で明美は着替えていた。メークを済ませ、質素ながらも精一杯のコーディネートで身を包み、コートを羽織って出かけようとした。

 台所のある部屋に父親が居た。椅子に腰掛け、食卓の上に乗ったガラスのコップを見つめている。

 明美は父親が朝から酒を飲んでいることに気づいた。DV癖もすっかりおさまり、勤めのない休日に病院へ毎週通って入院している妻と面会をするのが習慣になっていた。その日も明美の父親は午前中から病院へ行くことになっていた。

 病院へ行くとき、父親はいつも自家用車で出かけていた。それなのに酒を飲んでいては酒気帯び運転になってしまうだろう。電車かバスでも使うつもりなのだろうか。

「ちょっと出かけてくる」

 気がかりだったがフィアンセとの待ち合わせに遅れてはいけないと思い、父親に声をかけると部屋の横の廊下を通って玄関へと向かった。テレビの天気予報で今夜は雨か雪が降ると知らされていたので、明美は靴箱の脇においてある傘立てからビニール傘を取った。それからパンプスに足を入れ、ショルダーバッグのストラップを持って外に出ようとしたとき、酒臭いにおいが頬を掠め、後ろから抱きすくめられた。

 突然のことで何が起きたのかわからなかったが、相手が父親だということを悟った明美は恐怖で全身が萎えるのを感じた。父親は両腕で抱きすくめた明美の体を引き倒そうとした。不意を突かれたため、明美はバランスを崩して転倒した。傘を落とし、転倒した明美に馬乗りになると、父親は明美の服を乱暴に引き裂き、下着を剥いだ。

 父親は五十路間近とは思えないような二十代並みの腕力を持ち合わせていた。それでも明美が悲鳴を上げ、死にものぐるいで抵抗すれば何とかできたかもしれない。だが騒ぎを知って駆けつけた近所の人になんと説明する? 騒ぎが大きくなって婚約者にこのことが知られたらなんと説明する?

 小学六年生だったときのおぞましい記憶が蘇った。母親と二人きりで穏やかに過ごすはずだったクリスマスイブ。その大切な日を汚し、破壊した黒いサンタクロース。そして今からその黒いサンタクロースの餌食になろうとしているのは母親ではなくほかならぬ自分自身だった。

 DV癖が治ったのも、甲斐甲斐しく病院に通っていたのも、どれも見せかけだったのだ。

 そんな父親のうわべの姿を見て明美は父親は生まれ変わったのだと思っていた。ほとんど父親と口を利くことは無かったが、家を出て行こうとか徹底的に拒絶しようとか、そんなことは思わなかった。

 しかしそんな自分の勘違いや寛容さがどれほど愚かなことだったかを今ようやく知った。父親は根っからの悪魔だった。女なら実の娘でもその体を蹂躙しようとするケダモノだった。娘が結婚してからもその本性は変わらないだろう。そして自分はそういうケダモノの血を引いている。そんな自分が男を愛し、男に愛され、家庭を持ち、子供を育み――

 明美は悲鳴を上げた。悲鳴はやがて咆哮に変わり、明美は父親の体をはねのけて立ち上がると落とした傘を逆手に取り、父親の体を突いた。それでもわめき声を上げながら向かってくる父親に戦慄を覚えてもう一度突き、倒れ込んだところをさらに何回も突いた。

 気がついたとき、父親は血溜まりの中で息絶えていた。鋼鉄でできたビニール傘の石突きはへし折れ、フィアンセと食事をするために着飾った明美の服は返り血を浴びて赤く染まっていた。

 明美は警察に逮捕され、結婚話は流れた。




12


 今では父親は自分の娘が嫁いでいくことに寂しさを感じて、あのような行動に出たのかもしれないという可能性を考えるだけの余裕もある。だがあのときの明美にはそんな可能性など微塵も考えられなかったし、たとえそうだとしても父親として決して許されることではないだろう。SNSが一般社会に浸透し、誰もが匿名で「我こそは」と強気な物言いをする昨今、「そんな形でしか娘に対して自分の気持ちを表現することができない父親だった」などとアクロバティックな擁護をする連中もいるだろうが、自分の孤独さや悲しさや悔しさやみじめさの捌け口として女性を、それも自分の娘を利用するなど万死に値する重罪なのだ。

 自分はその重罪に対する罰を与えたのだ。今もその思いに変わりはない。警察に逮捕され、殺人事件の被告人となって法廷に立ったとき、弁護士だった野上千代子の父親に説得されて明美は反省や後悔の念を口にしたが、心の底からそう思ったわけではなかった。――

 殺してやる。頼子をこんな目に遭わせた男を必ず見つけ出し、殺してやるのだ。重罪を犯した極悪人を処罰しなければならない。野上千代子に協力してもらおう。自分にとって大切な女性が男に人間としての尊厳を踏みにじられたのだ。彼女ならこの気持ちをわかってもらえるだろう。サイドビジネスに関して野上千代子が持っている人脈やネットワーク、ノウハウや資金を使って男を探し出し、報いを受けさせるのだ。

「頼子」

 虚ろな目であらぬ方向を見つめている頼子に向かって明美はいたわるように声をかけた。

「お願いだからあたしに教えて頂戴。どんな男だったの? 服装とか顔とか、何か特定できる特徴があれば言ってほしいの。今はとてもそんなことが言える気分じゃないだろうけど」

 頼子は明美から視線を外したまま言った。

「この前も言ったでしょ。沢渡くんに似てたわ……」

「沢渡くん? ああ、そう言えばそんなこと言ってたわね。でもそれは雰囲気や印象の話でしょう? どんな色のどんな服を着ていたとか、ヘアスタイルとか身長とか、目や鼻や口がどうだったとか、具体的に教えてほしいの」

「そうねぇ」

 不意に頼子は明美を真正面から見据えると言った。

「こんな感じよ」

 こちらを見つめる頼子の表情が変わった。

 明美はそう感じたが、変わったのは表情ではなく、頼子の顔の造りそのものだった。彼女の細面の顔がまったく面識のない何者かの顔に変じたのである。

 よく見るとそれは特徴に乏しい三十代半ばぐらいの男性の顔だった。白髪が混じった頼子のセミロングの髪も黒一色のショートカットに変わっていた。

 何が起きたのかわからない。さっきまで明美に話しかけていた頼子が別人に変わっている。しかしそれでも明美が取り乱したり動じたりしなかったのは、彼女が野上千代子のサイドビジネスの実務を長年に渡ってこなし続け、場数を踏んだという一般人とは異なる経験を積んできたからだろう。

 身構えながら明美は頼子、いや頼子だったものから後ずさった。

 見知らぬ男の顔を持つ頼子は椅子から立ち上がった。明美は反射的にコートのポケットに入れていたスマホに手を伸ばした。

 電源ボタンを力いっぱい押し、イヤホンジャックからチタン鋼の針が飛び出たスマホを逆手に持つと、明美はためらわず男の首筋に真横から叩き付けた。

 夢中だった。何が起きたのか、何をなすべきかということよりも本能的に体が動いていた。実の父親を手にかけたことによって明美の中で覚醒し、野上千代子のサイドビジネスによって磨かれた本能だった。眼の前にいる得体のしれない存在に対して身の危険を察知した明美はその本能のままに行動した。

 だがスマホから突き出たチタン鋼の針は男の首筋には届かず透明な大木に突き刺さったかのように宙で静止した。明美は強引に透明な大木を貫いて男の首筋に針を叩き込もうとしたができなかった。

 しかもそのスマホを持つ手を引こうとすることさえもできず、そればかりか明美は体全体が硬直して動かなくなっていることに気づいた。

 男の足元には影があった。ダイニングキッチンの床に映っている男の影の肩にあたる箇所に、小さな影の塊があった。

 その塊は地を這う爬虫類の輪郭を有していた。尻尾の部分が男の影の肩にあたる箇所と繋がっており、見ようによっては男が肩に小さな爬虫類を乗せているようにも見える。

 民家に棲み着くヤモリのようなその影は口から細い舌を伸ばして明美の影に潜り込んでいた。潜り込んだ影が明美の影を制御しており、明美は影を制御されることによって肉体も制御され、呼吸や視線以外、何一つ自らの意思で動かすことができなくなっていたのである。

 混乱しながらも明美は状況を把握し、理解し、対処のすべを考えようとした。恐怖は感じていなかった。催眠術か薬物が使用されたのだ。冷静に呼吸を整え、意識をはっきりさせようと努めた。

 だがそんな彼女の努力も虚しく、肉体は木偶人形のように動かなかった。そして突然、首の骨に荷重がかかった。激痛が首筋を襲い、意識が遠のいていく。

 ろうそくの灯ったケーキが見えた。母親と二人だけで過ごす平穏なクリスマスイブだった。

 夫に暴力を振るわれ、メンタルに不調を抱えながらも、母親はクリスマスイブには必ず手料理を作り、ケーキを買ってきて明美に食べさせてくれた。ケーキに植わったろうそくの灯り越しに嬉しそうにこちらを見つめる母親の顔が明美の目の前に浮き上がった。

 その顔は意識が完全に消失する直前、唐突に消え去った。




13


 沢渡和史は、崩折れた熊切明美の手からスマホを取り上げた。

 おもしろい仕掛けがあるスマホだった。

 電源ボタンを強く押すとイヤホンジャックに収納された鋭い針が飛び出るようになっている。針が飛び出た状態でもう一度電源ボタンを強く押すと針は自動的に収納される。

 さしずめ「仕込みスマホ」といったところだろう。暗殺用に作られたものなのだろうが、護身用としても役立つに違いない。

 沢渡はそのスマホを失敬することにした。影使いの彼にとってこんなものを使わなくても暗殺や護身には事足りているが、スマホとしての機能もあるようなのでしばらくのあいだ拝借することにした。

 沢渡はダイニングキッチンを出ると二階に上がり、寝室へと向かった。

 寝室にはベッドの上に腰掛けている頼子がいた。自らの影が沢渡の影による指示を受けているため、彼女は逃げ出したり大声で騒いだりすることができなくなっていた。化粧崩れを起こし、精神的ストレスに苛まれている頼子はひどく老け込んでいる。

 死にかけた老婆のような頼子のそばで沢渡は着ていた薄紫色のトレーナーを脱ぎ、ベッド脇のクローゼットの中に入れておいたハーフコートやセーター、ズボンなどに着替えた。それから沢渡は恐怖で顔を凍りつかせている頼子をじっと見つめた。

 昨夜、ケーキ屋から出て来た頼子を尾行していた沢渡は、この女に報いを受けさせようという暗い情熱が次第に色褪せてくるのを感じていた。そもそも中学生だった時に味わった恐怖と屈辱は頼子ではなく、熊切明美がもたらしたものだ。またケーキが完食できず、大部分を食べ残してしまったのは自分のせいなのだ。そういった単純な道理に沢渡が気づいたのは冬の夜の冷たい風が彼の頭を冷やしたせいなのかもしれない。

 そんな彼の頭に今度は中内頼子に対する好奇心が湧いて来た。五十代後半とは言え、今でも彼女には中学生だったときの美少女の面影が色濃く残っていた。沢渡はコインパーキングのところで頼子の影に触れ、その体を自分の支配下に置くと同時に彼女の影を覗いた。今どこに住んでいるのか、夫や子供はいるのか、趣味や食べ物の好み、好きな俳優、タレント――好奇心はやがて彼女の性生活にまで及び、沢渡が下世話な妄想に浸り始めたとき、冷めていた暗い情熱が再燃するものを沢渡は見つけてしまった。

 熊切明美だった。沢渡は頼子が今も熊切明美と親密な友人関係にあり、しかもそれが友人以上の関係であることを知った。そして中学生の時に体育倉庫で熊切明美に脅されたときのことを思い出した。

 恐怖と屈辱が蘇り、消えかけていた暗い情熱が一気に膨れ上がるのを感じた。あの女だ。あの女には是が非でも報いを受けさせなければならない。そう考えた沢渡は頼子を連れて彼女の家に向かった。頼子を餌にして明美を頼子の自宅におびき寄せるつもりだった。

 沢渡の言いなりに動く頼子とともに彼女の自宅へ上がり込んだ沢渡は寝室へ頼子を連れて行くとベッドに座らせ、自分もその傍らに腰を下ろした。頼子には食事もさせてやったし、トイレにも行かせた。ただし、彼女は逃げ出すことも大声で騒ぐこともできなかった。影をあやつることによって人間の動きをコントロールできる沢渡は頼子の影に指示を下していた。トイレと食事以外は何もできないように。

 沢渡は頼子の影を覗き、強姦されるのではないか、殺されるのではないかと気が狂いそうなほど怯えている彼女の心を冷ややかに観察しながら明美にどんな報いを与えようかとあれこれ夜通し考えた。手足の骨を折って肉体的苦痛を与えてやるか。それとも眼の前で頼子を凌辱して精神的ダメージを味わってもらうか。あるいはその両方か。――沢渡の暗い情熱は赤黒い炎となって燃え盛った。

 一夜明け、昼過ぎに明美からメッセージアプリで連絡が入った。その後もメッセージアプリや電話で明美から連絡が入って来たが、頼子からスマホを取り上げていた沢渡はそれらをことごとく無視した。頼子からの応答が無いことで明美を不安にさせ、心配した明美が頼子の自宅まで来るように仕向けようと考えたのだ。明美が来るまで何日でもここに居座って待ってやるつもりだった。

 沢渡は自らの影の形を頼子と同じものに変え、彼女になりすました。そして沢渡の思惑通り心配してやって来た明美の前で、沢渡は頼子の姿で男に凌辱されたという話をした。それは単なる妄想談だったが、そういう嗜虐的な話をしながら沢渡は明美の影に触れ、彼女の内面を覗いた。明美に精神的ダメージを与え、彼女の内面に生じる怒りや苦悶、困惑を楽しむためだった。

 案の定、明美は頼子が凌辱される話を聞いているうちにその内面に混乱と怒りを充満させていったが、やがてそれらは明確な殺意へと変わっていった。明美の影の中に充満したその殺意は、頼子を凌辱した男に対するものであり、それは闇の中に鋭くそびえ立つ刃物のような白い亀裂として現れ、ギロチンのように高速で落下してくるという動きを伴っていた。

 沢渡は違和感を覚えた。

 明美の殺意は頼子を凌辱した男の精神と肉体を徹底的に破壊し、あの世に送ってからも責め苛んでやろうという爆発的かつ妄執的なものではなく、安定した意志に基づく冷静で強固なものだった。明美の影の中を占めている殺意はどこか人間らしさが感じられない冷たく乾いたものだったのである。

 直感的に沢渡は明美が職業的に殺しをおこなっている人間だと悟った。

現に明美の影の表層には彼女が殺し屋であることを裏付けるような感情や思念や記憶が目まぐるしく行き交っていた。その一つ一つを追尾することはできなかったが、それらは今まで明美が奪ってきた人間の命が一つや二つではないことを物語っていた。

 この女は少年時代の自分に恐怖と屈辱を刻みつけ、長じてからは縁もゆかりもない人間を殺すモンスターへと変貌した。この女に与える報いは死がふさわしい。――沢渡は首の骨をへし折って明美を殺そうとした。

 だが、まさに明美の頚椎が破砕されようとしていた寸前に沢渡は気づいた。この女を殺せば不審死、ひいては殺人事件ということで警察が動く。女の裏稼業が明らかになればマスコミやネットが騒ぎ、警察が本腰を入れる大事件となる。警察に追われている自分としては不都合な状況を招来することになりかねない。――首の骨を折るのを急遽中止した沢渡は明美の影に指示を与え、彼女を急激な貧血状態にして一時的に意識を喪失させるだけにとどめておいた。

 目が覚めた明美が警察に駆け込む可能性は低いだろう。脛に傷を持つ身だからだ。問題は中内頼子だが、見知らぬ男に尾行されて金縛りになり、男の意のままに体が勝手に動いたというようなことを合理的に説明する唯一の理屈は夢か幻を見ていたということであり、その理屈によって事件は一件落着するだろう。しかも脛に傷を持つ熊切明美がその理屈に同調することは想像に難くない。

 沢渡はベッドに腰掛けている頼子の影に自分の影を伸ばし、頼子の影を操って彼女を立ち上がらせた。

 悲鳴を上げそうになった彼女を黙らせながら、一緒に階段を降りた。ダイニングキッチンまで頼子を連れて行くと、意識を失って倒れている熊切明美を見た頼子は大きく目を開いた。

 沢渡は頼子に対しておこなっていた影の制御を解除した。明美に駆け寄る頼子の後ろ姿を見届け、沢渡は用心深く後退りしながら玄関に向かった。半狂乱で明美を介抱する頼子の声を聞いた沢渡はドアを開けて外に出る。

 外に出た沢渡はふと立ち止まった。

 このまま何もせずにここから立ち去るのか。

 頼子を凌辱し、明美を殺害すれば少年時代の自分自身の愚かさと二人の女に対する恨みを清算することができたはずだ。特に明美に対しては多少のリスクを承知で殺してしまった方がよかったのではないのか。

 結局、自分は逃げたのかもしれない。だが、いったい何から逃げたというのだろう。あの屈辱と恐怖からもうすでに四十年以上も経ってしまっているのだ。四十年以上も――

 中内頼子の家から外に出た沢渡は電車の駅がある方角に目を向けた。この街から離れてどこか別の街へ逃げるためだった。

 十二月の下旬にも関わらず、夜の空気が生暖い。そんな空気の向こうにイルミネーションが瞬く街並が見えた。

 今夜はクリスマスイブだった。沢渡は気だるい視線を街並みの方に向けながら、駅へ向かって歩き始めた。





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