雨宿りと出会い 2話
服を脱ぐ音がいやに大きく聞こえる。雨音も強いはずなのに。
「――ねえ、朱亞」
「はい、なんでしょうか」
「あなた、なにかから逃げだしたいときって、あった?」
突然の質問に、朱亞は目を丸くして小首をかしげる。まだ着替えている最中のようで、衣類が擦れる音がした。朱亞は彼女へ振り返らず、うーんと唸る。
「今のところありません。これからあるかもしれませんが、祖父と暮らしているときは楽しかったし、旅を始めてからも楽しかったので」
「そう、人生を楽しめるのは良いことね」
「えっと……?」
彼女の言い方だと、まるで自分は人生を楽しんでいないように聞こえて、朱亞はわかりやすく戸惑った声を上げた。彼女がいったいどんな表情でそんなことを口にしているのかもわからない。
「わたくしね、逃げだしてきたの」
ぽつり、と桜綾が言葉をこぼした。小声だったが朱亞の耳には届き、思わず「えっ?」と聞き返した。
「見ての通り、わたくし、美人でしょう? 引く手あまたな美女なのよ。その噂を聞きつけた皇帝陛下が住んでいる街に来ると聞いて、逃げてきたの」
朱亞は自分の目的地を思い出す。そして、村であった女性が口にしていたことも思い出し――納得したようにうなずいた。確かに彼女は絶世の美女だから、皇帝陛下が自ら迎えに行くのも納得だ。とはいえ、逃げだしてきたということは、嫁ぐつもりはないのだろう。
「それで山に?」
「ええ。途中まで馬で移動してきたのだけど……化け物に襲われてしまったの」
「化け物?」
「あんなにおぞましいものは、初めて見たわ。馬を休ませようと川辺で水を飲ませていたら……」
彼女の声は震えていた。恐らく、川に住みついている怪物に襲われたのだろう。朱亞は地図を思い浮かべながら、よくこの小屋まで辿りつけたと感心した。
「桜綾さんは、
「外のもの?」
「はい。祖父が教えてくれました。私たちが住んでいる『内なる世界』の他に『外なる世界』が存在していて、その場所は人を食らう怪物たちが住んでいる――と。その怪物たちは、この世界にやってきて災いを招くそうです。……あ、『外なる世界』にはそういう怪物の他にも、人間の味方をしてくれる神獣もいるそうですよ!」
祖父が教えてくれたことを思いだしながら言葉を紡ぐ朱亞。祖父は決して悪鬼に近付いてはいけないよ、と教え込んだ。非力な人間など、怪物たちにとっては、ただのごちそうでしかないのだと。
それを聞いたとき、朱亞の背筋に冷たいものが走った。いろんな怪物がいることを祖父は教えてくれた。その中には人間にとって良いことをしてくれる神獣もいたが、先に聞いた人を食らう怪物たちの話が怖くてたまらず、初めて聞いた日は祖父にくっついて眠った。
「あなたは、そういうことに詳しいの?」
「詳しいかどうかはわかりません。田舎で暮らしていたので、そういう知識を披露? することもありませんでしたし」
朱亞の住んでいた村は平和そのものだった。『外のもの』は一度もこなかったし、盗賊や山賊だって見たことがない。
そういえば朱亞が旅立ってからだって、盗賊や山賊を見たことがないことに気付き、自分が強運の持ち主のように思えてきてひっそりと口角を上げた。桜綾の気を紛らわせるように、怪物についての知識をいろいろと教える。祖父から教わった話を人に話すのは、初めてで少したどたどしかったが、彼女はずっと相槌を打って聞いてくれた。
桜綾が着替え終わり、「もう良いわよ」と声をかけられたので、朱亞は振り返る。
「わぁ、すっごく似合ってます!」
「ありがとう。これ、とても良い生地ね。きちんと綺麗にしてから返すから、今だけ借りるわ」
祖父が朱亞のために作った服は、生地が赤く金色の糸で刺繍がされていた。おそらくいつか朱亞が結婚するときに着てほしいという思いで作られた花嫁衣裳。
朱亞は気にしていないようだが、桜綾は彼女の祖父の意を感じ取っていたようで、胸元に手を添えると誓うように彼女に声をかけた。
きょとんとした表情を浮かべて桜綾を見る朱亞に、彼女は眉を下げて微笑む。
「あなたは結婚式を見たことない?」
「結婚式? そういえば一度も見たことありませんね」
村の大人たちはみんな結婚していたし、結婚していないのは未成年の子どもたちだけ。その子どもたちだって数えるくらいしかいなかったため、朱亞は一度も結婚式を見たことがない。
「結婚式にはね、こういう格好をするのよ」
「あ、それ花嫁衣裳だったんですか!?」
「そうよ。ごめんなさいね、わたくしが先に袖を通してしまって」
心底申し訳なさそうにうつむく桜綾に、朱亞は近付いて緩やかに首を横に振った。
「私が着るのはいつになるかわかりませんし、服は着るためにあるのですから、気になさらないでください」
「……あなたは、とてもいい子ね」
桜綾がそっと手を伸ばし、朱亞の頭を撫でた。その優しい手つきに、ふにゃりと表情を緩ませる。祖父に撫でられることも好きだった。
「それにしても、朱亞を育てたおじいさんは、とても博識だったのね。もっと話を聞かせてくれないかしら?」
「もちろん構いませんよ! では、なんの話にしましょうか?」
祖父のことを褒められて、朱亞はぱぁっと表情を明るくさせ、桜綾に尋ねる。
彼女は思案するように視線を伏せ、「そうねえ」と自身が興味のあることを口にした。
「水辺には、どんな怪物がいるの?」
「馬腹や水虎、
「わたくし、昔から結構な幸運に恵まれているのよ」
自信満々に胸を張る桜綾に、朱亞はふふっと笑みをこぼした。その笑みを見て、桜綾はそっと手を伸ばして彼女の頭を撫でる。
「朱亞はいくつなの?」
「私は十三歳です。桜綾さんは、私よりも年上ですよね?」
「ええ、今年十八歳になったわ。朱亞のおじいさんは、あなたにたくさんの知識を与えてくれたのね」
目元を細めて柔らかく微笑む桜綾に、朱亞は祖父の顔を思い浮かべながらゆっくりと首を縦に動かした。
祖父はいろいろなことを教えてくれた。朱亞よりも先に逝ってしまうことは確実だったからか、丁寧にどうすれば暮らしていけるのを彼女に教え込んだ。
最期の言葉は『自由に生きなさい』だったことを思い出し、朱亞の瞳に涙がにじむ。
それを見た桜綾が、両手を広げて「おいで」と彼女を呼んだ。
驚いたように顔を上げて桜綾を見つめる。ぽろり、と朱亞の瞳から涙がこぼれ、頬を伝う涙の冷たさに、自分が泣いていることに気付く。
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