第4話 支え合う関係
有岡は、
「俺が、彼女を支えている」
と思っている。
それは、正直、押しつけのようではあるが、実際に彼女の生活を支えているのは有岡だった。
要するに、今の彼女は、
「有岡がいなければ、生活していけない」
ということになるのだ。
有岡と、彼女は同棲している。彼女は、すでに休職中で、その理由は、精神疾患にあった。
「毎週のように、病院に通院し、障害年金を貰っているのだ」
ということであった。
次第に進行していく精神疾患に、有岡だけではなく、当の本人である彼女にも、その状況が把握できていなかった。
本人が少しでも分かっていればまだしも、馴染めない状態であることから、
「お互いがすれ違ってしまう」
というのも、無理もないことであった。
有岡も、最初は彼女の病院に付き添っていたりして、先生から病状を直接聞くということもあったが、最近では、そのあたりのことを、
「おろそかにしている」
という節があった。
今は、有岡の仕事が忙しく、休みが取れなくなってしまったことが言い訳になってしまっているが、それを考慮しても、有岡の寄り添い方に、彼女が疑問に感じるというのも、無理もないことだった。
だから彼女としては、
「同一の趣味で一緒にいる」
ということにして、同棲していることの言い訳にしようとするのだった。
有岡としては、寄り添うということに、限界を感じていたのではないだろうか?
「無限に存在しているものを、限界のあるものだとして解釈し始める」
ということになると、
「そこから先は、妥協というものでしかなくなってしまう」
ということになるであろう。
小説という同一の趣味という話においては、
「お互いの関係」
を、オブラートに包んだという形にしたのだから、趣味の世界においても、有岡は、彼女との限界を模索しようとしているのではないだろうか?
そうでもしないと、恋愛関係においての限界を打ち消すことになるからだった。
それを考えてしまうと、
「少なくとも、お互いの関係は、どこかで一度切れてしまった」
ということになるだろう。
「では、一体いつ?」
ということを考えると、よくわからない。
表面上は、お互いに気を遣い合っていて、うまくいっているカップルなのであった。
それが、何が狂ったのか、
「別れに対して一直線」
ということになったようで、それが、一体誰のためのことなのかが分からなくなっているようだった。
実際に何度か、
「別れよう」
ということで、どちらからともなく話をしたが、別れられるものではなかった。
お互いに別れを切り出すのだが、それがうまくかみ合わなかったのは、
「どちらかに、しつこい執着があるからだ」
ということではないだろうか?
見た目は、彼女の方にあるように見える。
なぜなら、彼女は、
「有岡の助けがなければ、生活ができないからだ」
ということであった。
有岡としても、精神疾患を持っている女性と一緒にいるのは、
「まるで爆弾を背負っているようなものじゃないか?」
と、まわりから、そう言われている、
「確かにそうだ」
とも考えるのだが、有岡は彼女から離れることはどうしてもできなかった。
なるほど、
「同情」
などの情なのかも知れない。
とも思ったが、本当にそうなのだろうか?
人に寄りそうことは、そんなに簡単なことではない。しかも、相手は、大げさにいえば、
「自分に命を預けている」
といっても過言ではないのではないか?
と言えるであろう。
有岡という人間が、
「女性との付き合い」
ということについて、いかに考えているのかということが大きな問題となるのだった。
だが、最初こそ、彼女に対して、
「よくわからないし、俺がこんなに考えたとしても、そこに見返りがないのであれば、無理に一緒にいる必要はない」
と考えるようになったのだが、実際には、
「彼女の気持ちが少しずつ分かってくるようになってきた」
ということであった。
「私は、有岡さんと一緒にいることで、成長したいんだ」
と思っているのだ。
確かに、有岡にすがって生きているのに違いはないが、最優先順位はそこではなかった。
「お互いに高め合える仲である、私が、有岡さんを頼らなければ、先に進めない」
ということに対して、
「俺には見返りがない」
と、少しでも見返りを求めているのであれば、それが、平行線となってしまって、交わることがない状態になるのだった。
それでも、少しずつ時間とともに、有岡には、彼女の気持ちが分かるようになってきた。
というのは、彼女が慕っている感覚というのは、
「兄を慕う妹」
のような感覚だった、
それを、有岡は最初から分かっていたような気がした。
分かっていて。心地よさから、
「俺が彼女を守ってやろう」
というような気持ちになったのではなかったか。
しかし、彼女は、
「趣味の世界での、有岡を尊敬しているので、そんな有岡に近づきたいという感情が、有岡側から見て、どのように感じるのかということを思わせるのではないだろうか?」
有岡の小説に対する姿勢は、
「決して無理をしない」
という発想が、一番であった。
そして、その中において、
「無理をしない」
ということを実現させようとすると、そこにあるのは、
「規則正しい執筆活動」
であった。
もちろん、慣れてきたり、要領が分かってくると、どんどん、短時間でこなせるようになるし、そうなると、自信もついてきて、同じ時間で、よりたくさんの量をこなすことができるようになるのだ。
もっといえば、
「同一時間で、どれだけできるか?」
ということなのか、
「同一の量を、どれだけの時間でこなせるようになるか?」
ということが考え方として存在するのだった。
有岡は、後者の方だった。
あくまでも、
「ノルマは量であり、時間ではない」
ということになり、どういうことなのかというと、
「成果を形で示したい」
ということの現れになるのではないだろうか?
つまりは、
「量であれば、毎日の形がハッキリと分かる」
ということは、
「質よりも量だ」
ということを、鮮明に示したかのようではないだろうか?
それに、規則正しい執筆というと、目に見えての成果の方が、自分を納得させやすいということにもなるだろう。
その考えが、有岡の、
「趣味に対しての姿勢」
だったのだ。
彼女の方は、少し違っていた。
というのも、
「規則正しい執筆」
という意味では同じなのだが、彼女の場合は、
「同じ時間内でどれだけできるか?」
ということを、彼女の中の目標にしていたのである。
そんな彼女において、
「同じような設定であるが、基準が違っていると、何か、目的の違いのように感じられる」
という発想があったのだ。
だが、有岡としては、それは、
「誤差の範囲だ」
としか思っていない。
根本的な違いについて、有岡が気づいていないのだから、彼女としても、少々の歩み寄りくらいでは、理解できないところがあるのだった。
あくまでも、彼女の方が、
「兄のように慕っている」
ということであるから、お互いの見え方が違っている。
有岡の方は、
「上から目線」
彼女の方が下から見上げているのだ。
「どちらの方が、近く感じるというのか?」
ということを考えてみたが、その答えは、意外と簡単なものだった。
もちろん、
「高所恐怖症」
のような人がいるとすれば、問題なのかも知れないが、基本的に、
「下から見上げる方が、近くに見える」
ということではないだろうか?
下から上を見上げるようが自然であるし、上からの目線には基本的に慣れていない。
高所から覗くとどうしても、恐怖を拭い去ることはできず。それが、いかな状況を作り出すのかということであった。
「俺の目線と、彼女の目線の違いが、きっと、俺には分かっても、彼女には分からないだろう」
というのは、自分は小さかったことはあるが、彼女には、大きかったという経験はないので、あったとしても、
「上の階から下を見下ろした」
という感覚ではないだろうか?
あくまでも、
「理屈の上で」
ということであり、いくら有岡が小さかった頃があったといっても、その時、偶然にでも、意識していたものが、記憶として残っているわけもなく、そういう意味では、
「お互いに立場は同じだ」
と言ってもいいのではないだろうか?
それを考えると、
「見方も違えば、それによって風景だけでなく、距離も大きさも変わってしまうということではないか?」
と言えるであろう。
そんな中で、上からの目線も、実は悪いというわけではない。気持ちの入らない上から目線というのは、
「空気を読めずに、自己中心的な発想」
が多いのだが、見守る気持ちが入っている場合は、上から見ている方が、
「暖かい空気を下に送ることができる」
という発想と、
「上から見える光景は、まわりすべてが見渡せる」
ということから、
「自分が、まわりを癒している」
あるいは、
「自分が、まわりの導いている」
ということから、決して、
「上から目線」
というのは、
「悪いものではない」
ということになるのだ。
だから、特に相手が、精神疾患を持っている人が下にいるとするならば、
「上から、引き上げてあげる」
という発想から、
「自分が助けている」
という発想になる。
これを、まわりから見て、引き上げている人が、自己満足でやっているなどと見られてしまうと、言われた人間だけでなく、助けられている人にまで、禍が及んでしまうということだってあるだろう。
精神的に言われ慣れていない人は、心にもないことを言われると、精神的に落ち込んでしまい、それまでできていたことができなくなる。
さらに、下にいて、いつも助けられるという関係にある人にとって、
「命綱を外されたか」
のようなものである。
つまり、
「心無い人間のたった一言が、二人同時に傷つけてしまい、さらに、助けられるはずの人の命綱を切ってしまうということになる」
ということを、まったく考えていないのだろう。
普通であれば、
「自分がこれからすることが、どのような影響を及ぼすかということ、さらに、言われた人間が、いかなる責任を背負っていて、その重さも分からない人間が、誹謗中傷などということを、簡単にできるのだ」
ということである。
今でこそ、法律が厳しくなって、SNSなどでの誹謗中傷に対しての、
「開示請求」
を、今までほど厳しくなくできるようになったし、
「実際に罪になるようなことは、直接の刑法犯に照らし合わせて処罰されるようにもなっている」
ということであるが、法律が改正されてすぐなどは、まだまだ被害者の数に対して、解決される比率は実に低かった。
何と言っても、被害者が告発しないと、表に出てこないものである。
誹謗中傷によって、自殺を企てる人が実際に出ると、やっと、政府も行政も動き出すというわけだが、そもそも警察のように、
「何か事件が起きなければ、まったく動かない」
という状態だったのだ。
ストーカー事件しかり、誹謗中傷しかり、それも、被害者の告発があってこそである。
被害者も、覚悟を持って警察に訴えているのに、その警察が、何もできないという理由で、何もしないのだから、
「本末転倒も甚だしい」
と言えるのではないだろうか?
そもそも、そんな風にしたのは、昔の警察の捜査方針の中で、
「別件逮捕」
あるいは、
「公務執行妨害」
などという言葉で勾留し、冤罪を誘発したことから始まっている。
それこそ、動けないというのは、元々の警察のやり方のひどさが引き起こしたことで、本末転倒もいいところである。
彼女は、そんな詐欺に一度引っかかったということを言っていた。何とか、弁護士に相談したりして、詐欺集団を特定できたことで、警察も密かに動いていて、その、
「被害者の会」
による集団訴訟にて、幾分かのお金も戻ってきたということであった。
そもそも、彼女はそこまで他の人ほど、お金をつぎ込んだわけではないが、少ない年金などを騙し取られたことで、生活にも支障が来たほどだった。
その状態を考えると、
「私は、詐欺にひっかかったという意識はなかった」
という。
たぶん、精神疾患に付け込んでのことだったのだろうが、一体、どういう手口だったのかが気になるところであったが、わざわざ疾患のある人間に、過去の辛い思い出を思い出させるようなことをしなくてもいいだろう。
それを思うと、
「本当に詐欺集団というのは、許せない」
ということになる。
実際に被害に遭った人の中には、精神疾患の人も結構含まれていたという。
そういう人には、どうしても女性が多く、男性が甘い声で親切にすると、どうしても、甘えたくなるのか、引っかかりやすいという。
今であれば、
「詐欺に手口は、大体解明され、大きく騙されるということもないかも知れない」
というのも、
「もしあったとしても、被害は一回だけで、騙し取ったら、すぐに連絡不通になったりするのだろう」
だから、
「騙された」
と思った時には、時すでに遅しであり、それだけ、たくさんの人が引っかかりやすくなっている。
つまりは、一人に目をつけるというよりも、
「下手な鉄砲数うちゃ当たる」
といてもいいだろう。
それこそ、詐欺メールや、詐欺電話のように、
「100人に電話を掛けて、一人くらい引っかかってくれたらいいだろう」
という程度になるのだ。
実際に、詐欺メールや電話などを見て、思わず振り込んでしまうという、
「オレオレ詐欺」
あるいは、
「振り込め詐欺」
などが横行した時代があった。
しかし、彼女の場合は、
「そんな詐欺電話などではなく、実際に男が忍び寄ってきての、人情に訴える形のものだった」
というのは、かなり昔。ちょうど、昭和末期くらいの頃にあった詐欺とよく似ているものであった。
あの時は、ターゲットは老人だった。
当時はまだ、バブルの時代で、定年が55歳くらいだったので、普通にその年齢くらいまで勤めあげれば、
「悠々自適な生活」
というものができたのだ。
しかし、バブルが弾けてからは、とんでもない世の中になり、定年の年齢はどんどん上がっていき、
「少子高齢化」
ということもあり、年金の収入が少なくなっている。
さらに、とどめを刺したのが、政府の怠慢による、
「消えた年金問題」
だった。
ずさんな事務管理という人災によって、もらえるはずの年金が、かなりの人間の額が分からなくなってしまったのだ。本当は、関わった全員が、
「切腹もの」
というほどの大罪なのに、あの責任問題は、ある程度曖昧になったのではなかっただろうか?
誹謗中傷を受けたことで、これからも自分が、
「いかに立ち直るか?」
ということであったが、その中で、
「支え合う関係」
を保てるような人がいた。
その人の存在が自分に勇気を与えてくれるというのか、精神疾患がある人ではあったが、その人を、ずっと自分が支えているつもりでいた。
その人も、絶えず誹謗中傷を受けてきて、いかに、
「今後の人生を一人で歩んでいけばいいのか?」
ということで悩んでいた。
同じ趣味を持つ相手ということで、一緒に歩んでいくつもりであったが、才能からすれば、相手の方にあった。
悔しいが、太刀打ちなどできるはずもない。
という相手だった。
分かってはいるのだが、その状態を、どうすることもできなかった。
「相手は自分が支えている相手」
ということで、それだけが自分の支えであったが、それだけでは、とても耐えられるものではなかった。
その気持ちがどこから来るのかというと、
「やっかみや悔しさ」
という意味での、
「嫉妬心」
であった。
これは実に厄介なもので、相手に対しての優越感では、どうにもならない。そもそも、相手というのを、
「俺が支えている」
と感じた時点で、どうすることもできなかった。
というのは、実際には、
「自分が支えている」
というわけではなかったからだ。
そう、お互いに立場が平等であり、
「自分が支えているわけではなく、お互いに支え合っているのだ」
ということなのであった。
「優越感」
というものを持っている以上。この支え合っているという感覚に至るのは、実に難しいだろう。
「決して認めたくはない」
という思いが強い。
ということは、このような関係であるということを、有岡はしっかり自分で自覚をしているということであろうか。
お互い、支え合っているからこそ、倒れないのだ。
なるほど、確かに、彼女ほどの意識があれば、
「俺になど太刀打ちできるはずはない」
と言えるだろう。
だから、太刀打ちできないというのは、優越感の否定ということからも言えるのであろう。
だが、今の有岡にとって、
「お互い支え合っている」
という、優越感の全否定は、
「自分の存在意義を否定している」
ということも同意語だといえるのではないだろうか。
本来であれば、お互いに支え合っているのは、美学と捉えてもいいのだが、どうしても、
それでは、
「俺のプライドが許さない」
という思いが強かった。
これを、
「嫉妬心」
というのだが、有岡の中では、この、
「嫉妬心」
という思いが、実に邪魔なものとなって、立ちふさがったのだ。
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