誰でもない誰かとの

 雲一つない青い空、突き刺すように降り注ぐ陽の光。

 汗すら塩へと変わりそうなその猛暑の中、鈴野すずのはくたびれた籠の上に座りながら釣り堀の前で竹の竿を握っていた。


「……しけてやがるな、相変わらず」


 あまりの暑さのせいか、夏休み中であってもそこまで人気のない釣り堀。

 今日の最高気温は三十七度。この夏一番だとテレビのキャスターに太鼓判を押され、人の平熱すら超える気温に、子供連れは出掛ける先を避暑地に変えるか自宅で一家団欒を楽しむのであろう。

 その暑さの中でめげず、たった一人で紳士に魚と向き合う自分はある意味日本人らしいのではないか。

 そんなどうでもことを考えながら一度引き上げ、喰われた餌を付け直して再び池へと針を放り込んだ。


「……しっかし変わんねえ。あの頃を思い出すな」

 

 周囲の何一つ変わらない、まるで時間から切り離された場所だと吐き捨てる鈴野すずの

 綺麗とは言い難い水色の釣り堀。古くさいプラスチックの籠。そしてあの人が自分をここに放置し足繁く通っていた、少し離れた先にある競馬場。恐らくめいのやつも知らない、あの人との思い出の場所。

 十年近く経とうが変わらずここにある。変わったのは、肉だけ立派に育った自分だけ。

 小さな情なき魔法少女から、今じゃ小娘から逃げるヤニカス女。

 きっとあの人もこの醜態に笑うだろう。未成年ながらスキレット片手に競馬場に通い詰め、よその魔法少女から金を借りて生きていた師──錆色の魔法少女は、きっと自分のことなど棚に上げて。


「……阿呆らしい。死人のことを考えてもしゃーないな」


 つい記憶の中から掘り起こしてしまったその過去を鼻で笑いつつ、鈴野すずのは煙草に火を付ける。

 その直後、魚が餌に食い付いたのか小刻みに揺れ出す釣り竿。

 だが鈴野すずのは手に取ろうとせず、煙を吹かし、ぼんやりと波打つ水面を見つめ──。


「あれ、揺れてるよ? お魚フィッシングしないの、そこの綺麗なお姉さん?」

「……ああ?」


 そしてようやく竿を握ろうとした瞬間、どこからか掛けられた男の声にその手を止める。

 決して快にも不快にならない声。どこにでもいそうな、平々凡々な音だった。


「……ちっ、逃げられたじゃねえか。今日の昼飯、お前のせいで零かもな」

「ああ、邪魔しちゃった? それは悪いね。こんな暑い中、辺鄙な釣り堀に出向く同士が気になってさ。これで勘弁してくれると嬉しいかなって」


 振り向くことなく、再度大人しくなった釣り竿を引き上げる鈴野すずの

 そんな彼女の側に置かれた、水滴の付いたペットボトル。

 見慣れた会社のラベルが貼られたスポーツドリンクに、軽く舌打ちしてから煙草を携帯灰皿へと仕舞い、乱暴な手つきで取って中の液体を喉へと流し込んでいく。


「……ぷはぁ! 悪くねえな。逃した鮎の一匹分くらいには価値がある」

「それはどうも。俺の細やかな罪の清算と、お姉さんの脱水症状の危険が回避できそうで何よりで。そんなわけで、お隣失礼」


 鈴野すずのの許しなど待つことなく、どさりどさりと音を立てていく男。

 声からして若い男。その上一人で、同じく独りで寂しく釣りに勤しむ女へ声を掛けてきた。

 その男の動機と内心におおよその見当を付けた鈴野すずのは、軽くため息を零しつつも奢って貰ったこの一本に免じて立ち去ろうとはしなかった。


「……言っとくけど無駄だぜ。胸と足だけ見て媚び売ったところで、行きずりの男とホテルなんて真っ平ごめんだからな」

「あー、別にそういうつもりじゃないんだよなぁ。お姉さん綺麗だから勘違いさせちゃった? ごめんごめん」

「……あっそ」

 

 男のわざとらしい訂正に、鈴野すずのは少し眉間に皺を作りながらも視線を釣り堀に戻す。


「ここにはさ、本当に偶然で来たんだ。ぶらりぶらりと散策していたら釣り堀なんて見つけちゃってね。暑いからこそ魚釣って塩まぶして、冷えた缶チューハイでってのも乙かなと思ってさ」

「……渋い趣味だな。結構若いだろ、あんた」

「そうだね。ちょうど今年でお酒解禁って歳。楽しくもつまらなくもない、長い長い大学の休みの最中って感じかな」

 

 男はどうでもよさそうな返事の後、ぽちゃりと針を水面へと投下し満足そうに頷きを声に出す。


「で、そんな時、まるでこの汚い池で魚と泳いでしまいそうなほどのため息を漏らすお姉さんを見つけてね。そこで人生に余裕を持つ勝ち組の俺が、ちょーっとばかり悩みでも聞いてあげようかなって」

「楽しそうで結構。いいなぁ、大学生ってのは気ままで頭軽そうでよ」

「まあね。意外とじじばばが思うほど暇じゃないけど、学費分程度には充実してて悪くないよ。そういうお姉さんは今、楽しくないの?」

「……楽しい、か。……はっ、どうなんだろうな」


 よく知らない他人とのどうでもいい問答。

 そんなことは重々承知だというのに、鈴野すずのは答えを言い淀んでしまう。

 そんな調子の鈴野すずのだったが、隣の男は特に気にすることなくごくごくと喉を鳴らし、「プハァ!」と満足気に地面へとガラスの瓶をを叩き付けた。


「あーやっぱり子ラーは瓶コーラだなぁ! ……そうだ、せっかくだし話してみない? この誰でもない誰かな俺にさ?」

「おっ、やっぱり何だかんだ言いつつやっぱり女口説きか? 常套句だろ、そういうのって」

「違う違う。俺ってばそれはそれは綺麗な彼女いるからさ。浮気なんかしたらあの人にも世間様にもなぶり殺されちゃうよ」


 困るなー、と大げさに口にしてくる男。

 一度たりとも彼の方を向いていればさぞ苛ついていただろうと、自らの男への興味の無さに感謝しつつも、鈴野すずのは水面を見つめながら少し悩み、そして小さくため息を零した。


「どうせ魚が釣れるまでの、名前も知らない間柄なんだからさ。暇潰しと思ってどう?」

「……ま、それも一興か。とはいっても、大した話じゃねえけどな」


 一口スポドリを流し込んでから、ぽつぽつと、鈴野すずのは知らない男へ話し始める。

 とはいっても、魔法少女や配信なんて深い事情は一切なく、ただ自らが迷っている部分だけであったが。


「……へえ。つまり別れを告げられない、転校前の片思いJKみたいな心情なんだ。お姉さんも割とぴゅあっぴゅあっなお嬢さんってわけだ」

「……うっせえぞガキ。今日は暑いし、ここの水でクールダウンさせてやろうか?」

「それは勘弁かなぁ。これ別に一張羅でもないけどさ、汚すと怒られるんだよね。マイハニーが押し……愛で買ってくれたやつだからさ」


 意外にも途中で茶々を入れることなく聞いた男。

 そんな男は笑いながらも否定しつつ、地面に置いた瓶を手に取って首に当てて体を震わした。


「ちべたっ。……別に茶化してなんかないよ。……俺にもあったなぁ、そんな感じの淡い青春ってやつが」

「なんだ若造、案外モテてたのか?」

「まあね。通算で三度かな。どれも極上の女性で、そのうち一回が今の彼女さ。凄いだろ?」

 

 自慢げに語りながら、「写真見る?」と鈴野すずのへ尋ねる男。

 そんな男に本当に彼女いるんだなと認識を改めながら、鈴野すずのは興味ないと即答で返し、またしても持っていかれた餌を付け直して池へと放り込む。


「……迷ってるなら言った方がいいよ。これはあくまで持論なんだけどさ。した後悔よりしなかった、出来なかった後悔の方が大きいもんさ」

「へえ。軽薄な男にしては随分と実感がこもってるな。女に泣かれたことでもあるのか?」

「まあね。今となっては未練も後悔も前向きにはなったけど、あの頃はえらく情けなく後悔してた。……ああ、辛かったなぁ」

「……同情するよ。その気持ちだけはよく分かっちまうからな」


 えらく実感のこもった、過去形にしては今でも引き摺っていそうな声色で語る男。

 それを聞いた鈴野すずのはぽつりと同意しながら、そして内心で尚更自らの愚かさに吐き気を覚えてしまう。

 どういう偶然か。残された、動けなかった側の自分にもえらく刺さる男の言葉。

 このまま逃げれば、自分は弟子である小娘に同じ思いを背負わせてしまう。それを分かっていながらも、こうして向き合うことなく配信や過去の思い出に逃げたりしてしまっているのだから。

 

 ……ああ、情けない。情けないな、私は。結局は、心の足りない欠陥品だ。

 

「……分かってる。分かってるんだそんなことは。今のままじゃ、私はあいつに呪いを掛けちまうって」

「だろうね。お姉さんはそんなに馬鹿じゃなさそうだ。俺みたいにヘラってやらかしはしなさそうだもんな」


 はははと、わざとらしく大きく笑う男。

 果たしてこいつはなにをしたのかと。鈴野すずのは少し気になりはしたものの、特に聞き返すことはなかった。


「さてさて、そんなお姉さんへ一言。明かすも殺すも自分次第、どうせ世界はそれだけさ! ……ってね?」

「……格好いいこと言うな。まるで陳腐な創作フィクションの主人公みたいだ」

「そうかな? だけどそういうもんさ、うん。辛い現実で忘れがちだけど、人間はみんな主人公。生まれてから死ぬまでの間、どこかで知らない物語を築いてる勇者なんだからさッ! きっひひっ!」


 聞いてる側が恥ずかしくなるくらいの言葉に、つい返しの言葉に皮肉を混ぜてしまう鈴野すずの

 けれども男は愉しげに、どこまでも溌剌と饒舌な口調で静かな釣り堀に声を響かせる。

 そんな隣にえらく特徴的な笑い声だと、鈴野すずのは他人事のように思っていると、自分のではない浮きが弾みだし、勢いよく引き上げられる。


「おっ、ナイスフィッシング! うーん微妙。ま、間食には絶妙かな。何気に淡水魚って初めてだしね」

「……早いな。先駆者である私はまだ坊主なんだが」

「捕まえる気がないからじゃない? 釣りってのは己が心を反映だってよく言うからさ」


 鈴野すずのの耳に届く、ぴちぴちと跳ねる魚の音。

 男の口振りを考えるに大きくはないのだろうと、そう推測しながら返しの言葉に納得してしまう。


 捕まえる気がない、か。……そうだな。そうかもしれないな。


「よっこいしょっと。じゃあお姉さん、俺はお先に失礼させてもらうよ」

「なんだ、もう帰るのか?」

「これでもスケジュールが詰まってるんでね。それに、もう暑くて暑くてくたびれちったぜ」


 よっこいせと立ち上がり、かちゃかちゃと色々片す音を立て始める男。

 やがて少し経つと、僅かに目に入っていたプラスチックの籠から男の影は離れていった。

 

「じゃあねお姉さん! その娘としっかり向き合うんだね! あんまり自分本位だと、間抜けにも金槌振り回した俺みたいになっちゃうぜー! きっひひっ!」

「おーう。じゃあな主人公。せいぜい彼女とやらに愛想尽かされねえようにな」


 そうして遠ざかる足音。

 鈴野すずのは軽く振っていた手をすぐに下ろし、再度ペットボトルを手に取る。


「……人間みんな主人公、か。にしても金槌振り回したってなんだ。何したんだよ、あの男は」


 結局一度も顔も服装も目にすることのなく、声だけの関係であった男。

 もう二度と会うこともなく、仮に再会しようと誰かも覚えていないであろう、交わることのないどうでもいいやつ。

 そんな男の去り際の意味深な言葉を苦笑いしながら、再びしなり出した竿に持っていたペットボトルを投げ出しつつ、すぐに掴んで躊躇いなく引き上げる。


「……お、釣れた。なんだ、案外簡単じゃねえか」


 糸に垂らされ、パタパタと跳ねる一匹の魚。

 もうどうにもならないのに逃げようと足掻くその姿は、まるで往生際の悪い自分の心のよう。

 魚一匹を自らに重ねながら、鈴野すずのは再び一人になった釣り堀で小さく笑みを零してしまう。

 

 ……私もそろそろ観念しなきゃな。最後までこんなんじゃ、慕ってくれるあいつには悪いしな。


「……もう釣られるなよ」


 無理な話とは理解しつつも、つい口にしてしまったその一言。

 そして鈴野すずのは釣った鮎を豪快に池へと放り投げ、陰りのない笑みを浮かべる。

 そのまま軽い鼻歌を奏でつつ、颯爽と帰りの支度を進め、新たにこの場へ訪れた老人とすれ違いながら釣り堀を後にした。

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