兄ちゃんじゃなくて母ちゃんだった
「随分遅いお戻りで」
「いや、あのな、ラウル」
「どうぞ。言い訳くらい聞きますよ」
ひえー。これガチギレだわ。
冷や汗がだらっだら流れている。これあれ。夜遊びを母ちゃんに怒られる時の緊張感。
「すみませんでした」
言い訳は逆効果と踏んだ俺は、ベッドの上で土下座した。
「謝られてもね」
「仰る通りで……」
ぐうの音も出ない。頭が上げられない俺の上から、溜息が降ってきた。
呆れられた、と思うと胸がずきりと痛んだ。
「……心配しました」
聞こえた言葉に、俺はばっと顔を上げた。
暗くてラウルの顔はよく見えなかったけど、声でわかる。
「ラウル……」
「ちょっと待ってください、それどうしたんですか」
「え」
感動に瞳が潤みかけていたところに、急にラウルが険しい顔をした。
なんだどうした。
疑問符を浮かべる俺に、ラウルが手を伸ばして、俺の鎖骨のあたりを親指でなぞった。
「うおっ!?」
「これなんですか」
「えっなに、なんかあんの!? この暗さでよく見えるな」
どんな目してるんだ。明かりを灯していないから、月明かりくらいしか光源がないのに。
俺より先に部屋にいたから、目が暗さに慣れているということを差し引いても、肌の色の差が見えるとはとても思えない。
「ここに何かされませんでした?」
「へ? ああ、そういや、噛まれたかなんかしたかな」
「へぇー……」
「えっなに怖い怖い怖い」
地を這うような低音に、俺は肩を震わせた。
「危機感を持てって、言いませんでした?」
「お……っぼえてる、けど。ちょっと話してきただけだから。特に危機とかねぇよ」
「ちょっと話すだけで、キスマークつけて帰ってくるんですかあんたは」
「うっそぉ!?」
なんてもんつけてくれやがったんだあいつ!
そりゃラウルも怒るわ。
慌てて確認しようとするも、さすがに自分では見えない。後で鏡を見るしかないか。
ラウルはと言うと、額に手を当てて、長い長い溜息を吐いていた。
「……ハルト様。正直に答えて欲しいんですけど、実は魔王のこと好きだったりします?」
「何その誤解どっからきたの!? ないけど!」
「なら良かったです。あんたの行動見てると、自分から喰われに行ってるようにしか思えないんで。仮にそうなら、オレただのお邪魔虫なんで。もうお小言言いませんから」
「見捨てないで母ちゃん……!」
「誰が母ちゃんか」
べし、と頭にチョップを落とされた。
このノリに付き合ってくれるのはラウルだけだよ。
アーサーは冗談が通じそうで通じない時があるからな。純粋すぎて。
「けどダリアンは、なんだかんだで本気で俺が嫌がることはしないと思うんだよな。多分」
「その理論でいくと、あんたはキスマークもピアスの穴も本気で嫌がってなかったことになりますけど」
「そうでした。前言撤回」
「舌の根も乾かぬ内に」
エアルの話をしても、結局のところ、ダリアンは俺に好意的と解釈して良さそうだった。
そうなると、好意のある人間が害を加える、というのが、どうにも俺の頭の中で結びつかないのだ。
その考え方がぬるいんだろうなぁ、とは思うんだけど。どうにもな。無理やり女の子に迫られた経験とかもないし。
あったとしても正直嬉しいんじゃないかと思う。想像の中の女の子が可愛いからそう思うのかもしれないが。
俺だって好きになった子をちょっとくらい泣かせてみたい邪心がちらっと過ぎったりはするが、実際泣かれたら絶対居たたまれないだろうし。ましてや無理やり何かしようなどとは思わない。
だからなのか、ダリアンの行動も、からかいの範疇なのではないかと思っている。ピアスの時も、俺が転移魔法で逃げただけで、あのまま泣き出したら多分やめたんじゃないだろうか。
ただこれをラウルにもわかってもらう、というのは無理だろう。ダリアンが俺に向ける感情を受け取っているのは、俺だけなのだから。
ラウルはラウルの見てきた魔王の姿しか知らない。だからラウルが心配するのも当然のことだ。
「次からはちゃんとラウルと行くよ」
「また行くんですか」
「肝心な話の決着がついてないからな。一ヶ月も空いたし、さすがにカインもそろそろ許可くれるだろ」
「だといいですけどねぇ」
「ラウルも口添えしてくれよ。ラウルの報告が原因だろ?」
「事実をお伝えしただけですよ。ハルト様が泣きながら腕輪を使ったって」
「誇張じゃん!」
完全には泣いてなかったじゃん!
言い募る俺に、ラウルは笑いながら返した。
枕を投げたりして、すっかり緩んだ空気に、俺は安心しきっていた。
寝落ちたハルトを、ラウルが見下ろす。
緩み切った顔で寝息を立てる姿は、完全に無防備だった。
全幅の信頼を寄せられていることに、ラウルは苦笑する。
「母ちゃん、ね」
ハルトは最初から、自分を兄のように慕っていた。誰とでもそれなりに仲良くやる方なので、自分だけが特別に懐かれているとは思わないが、それでも上位に位置するという自負がある。
寄る辺のない世界で、家族のような存在は貴重だろう。だから彼がそう扱ってくれる内は、家族の顔をしていなくてはならない。
「でも、おもしろくないもんは、おもしろくないんですよ」
ハルトの鎖骨のあたりにつけられたキスマークを、鋭い目で
騒いでみせながらも、その実大したことだとは思っていなさそうな態度が腹立たしい。あれは本当に喰われるまでわからないんじゃないだろうか。
こんなものを。肌に触れることを、簡単に許すとは。
「――――……」
指で触れて、そっとそこに唇を寄せる。
こそばゆいのか、ハルトは僅かに身じろぎしたものの、起きる気配はない。
既にあるキスマークの上から、肌を強く吸い上げる。
くっきりと残った痕に、ラウルは満足そうに笑った。
「大人はずるいんですよ」
にい、と目を細めて笑って、ラウルはその場から姿を消した。
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