汝その威をもって異を征せ

「他人から買った知識を売っている」

 一度だけ陸斗に仕事の内容を尋ねたことがある。

 普段から質問には煩いくらいの説明をする彼が、自分の仕事について語ったのはその一言だけだった。きょとんとした顔の私をみて、陸斗は目を逸らし煙草と掌で口許を覆った。その様子がまるで溢れ出る言葉を呑みこんでいるみたいで私はおなかを抱えて笑い転げた。語らない理由に興味はあったが追及する必要はなかった。“また今度”と魔法の言葉を心で唱え、私は未成年の隣で煙草をふかす悪い大人を弄った。

「こんな良い名前がついているものはそうそう見つからないだろう?」

 陸斗は煙を吸い込んだあと咳き込みながら煙草の箱を見せた。ラッキーストライク。確かに幸運そうな名前で、でも身体には毒なのが皮肉だなと思った。幸運の御守ならもっと健康的だったり実用的なものにすればよいのに。


 結局、陸斗は煙草による幸運を享受することなく、一般的な男性の平均寿命よりも遥かに若いうちに命を落としてしまった。私にとっても陸斗の死は寝耳に水で、彼の仕事に関する質問を含む全ての“また今度”は泡となって消えてしまった。

 陸斗に対し恋心と呼ぶような甘い感情はなかったと思う。けれども、私は彼の訃報を聞き初めて“死”に対する苛立ちを覚えた。死を悼むよりまえに、何故?という言葉が漏れた。陸斗が死んだ理由について疑問を抱いたわけではない。どうして“今”なのか? そのタイミングに不満を持ったのだ。

 もっとも、苛立ってみせたところで必ずそして突然やってくるのが“死”だ。それが必然であるのなら、いつか来るべきそのときを恐れすぎず、その時が来ても後悔しない毎日を送る。それが“生きる”ということだろう。あの頃の私は生と死についてそんな整理をした。日記に書いてあるんだから間違いない。

 ただ、頭が必死になって生と死を整理しても、私の核心または魂とでも呼ぶべき場所は身近な死と取りこぼした“また今度”を抱えきれなかった。

 整理がついた、気にしていないと言いながら、両親に隠れて夜な夜な彼の好んだ幸運の証に火を灯す。休日になれば、彼と共に歩いた街並みを彷徨い、彼が好きだと話した景色を前に線香代わりの煙草を捧げてみる。そんな毎日を続けているうちに、私は煙草の煙と共に自分の体を失った。

 文字通り煙草の煙に混ざるように肉体が消えていったのである。

 とても恐ろしい体験だ。だが当時の私には怖いという気持ちはなく、壊れてしまったことへの喪失感が強かったと思う。当時の私を助けた師匠曰く、私の顔は憤怒の形相だったというが、誰に怒りを向ける話でもない。それは師匠の気のせいだ。


 何が壊れてしまったのかって?

 陸斗。彼といた日常。いいや、壊れたのは私自身。

 そう表現するのは少し格好つけすぎだろうか。


 身体が煙になって消える怪現象を食い止めたのは師匠だ。彼は五感のほとんどが失われ煙そのものと化した私に大声で渇を入れた。

 何を言われたのかは覚えていない。だが、彼の一言は確かに私の崩壊を押しとどめ今もこうして私は私として形を保っている。そして、師匠の厳しい指導により、私はイ詞使いとして三瀬で生きる術を得た。

 汝、その意を示し、己が畏を制せよ。

 汝、その威を持って、異を征し、己が境を知らしめよ。

 三瀬においてイ詞と関わるものは誰しもが知る言葉。それに従い、私はイ詞を身につけ、己の身に起きた異変をねじ伏せ、力へと変えた、

 もし、今の私が誰かに尋ねられたら、この煙草の箱を見せてこう言うだろう。

「これは幸運の切り札だ。こんな良い名前がついているものはそうそう見つからないだろう?」

 陸斗が私に見せたあの表情と同じように前向きで輝いているはずだ。どうして? 私、譲葉煙にとって、この煙草はまさしく幸運の証であり、畏を制し異を征する力の証だからだ。


――――――――

 水面に映った私は、私の顔を指さしながらゆっくりと水の表面へ近づいてくる。彼女の指が水面に触れ、波紋を描く。像が歪むのも構わず、水面の“私”はその表面へ腕を伸ばし、そして水からこちら側へと進出した。

 大破した車両の座面は完全に浸水している。水位は70から80センチ。人間が完全に水没していてもおかしくはない。だが、自分とそっくりの顔と服装をした者が水面に映った姿に重なるように潜んでいる。そんなことが偶然で起こるだろうか。

 呆気にとられ、考えが巡らない間にも、水面に映った彼女は境界を越えて水の外へと現れる。腕、胸、肩、顔。露わになった上半身からは水滴のひとつも垂れないのも気味が悪い。先ほどまで水中にいたとは思えないほどに、その姿は渇いていて、乱れがなかった。彼女は鏡に映った私と同じ顔をしていて、けれども口許が歪んでいるせいで、私よりも性格が悪そうにみえる。

 自分の登場シーンが奇天烈だからって悦に入っているような。こちらが驚いていることに満足しているような顔。油断と敵意が同居していてせっかく美人な顔なのに不快感を覚えてしまう。

「驚いたっちゃあ、驚いた。だが、自分で指摘するのもどうかと思うが、私はもう少し美人だと思う。それに……そうだね胸元も豊かだと思うのだが、その再現率はどうなんだ。水面で像が歪んだせいか?」

 下半身を水底に浸して立ち尽くす自分に向けて、とりあえず講評をぶつけてみる。コンプレックスの暴露のようで気分が悪いが、それは相手も同じかもしれない。私の指摘を受けて、両手で顔や胸元を触り、何度も首を傾げている。

 思ったよりも言葉が通じるんだな。

 水面から現れたときの驚きは収まり、冷静さが戻ってくる。混乱している水辺の私から注意を外さず登山服のポケットに手を入れる。こういうときのために、必ず煙草は手に届く位置にある。

 ラッキーストライク。亡くなった友人が愛した幸運の御守り。煙草のケースからそれを一本取りだして、口許へと運ぶ。相手は本人からうけた指摘を呑みこめず混乱していて、こちらの動きを気に止める様子はない。

「姐さん! 後ろだ。後ろにも一人いる!」

 交差点に入らず水場の外で警戒していた猿田が声をあげた。顔を触って混乱していたはずの彼女が更に大きく口を歪ませる。

 足下に目を向けると車の後部座席から身を乗り出した何かの腕が私の足首を掴もうと伸びている。目の前の“私”は私の気を惹くための囮。こちらの指摘に動揺したように見せかけていたわけだ。

「厭になるくらい、私そのものだな」

 車から現れた腕が私の足首を捕らえる。登山服に触れ指が肉へと食い込んでいく。彼女たちの思惑の通りに。

「“衝突”。“イベント”は未だ進行中というわけか。だが、大変残念だ。厭らしい真似が上手なのは私もなんだよ。ええっと、譲葉煙。そう呼べばいいのか?」

 煙草の火は既に灯された。車内から伸びた“私”の腕は、私の足首の代わりに宙を掴む。私の足首は煙に巻かれ……いや、煙そのものとなり、衝突しようとした“私”の両手を潜り抜けた。

 ラッキーストライク。その煙草に火が灯るあいだ、私は私の意思で煙と化す。

 それが私、譲葉煙が手に入れたイ詞だ。

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